公益財団法人日本国際フォーラム

処理水放出と風評被害
 「風評被害」とは、科学的に根拠のない噂や意図的なデマが広がり、社会的不安と被害を生むこと、と私は定義する。風評被害で決定的な役割を果たすのはマスメディア(以下メディア)だ。今、福島第1原発の処理水の海洋放流に関して、風評被害が問題になっている。私はかつて原子力研究を目指したこともあったが、大学は哲学科に進み、原子力問題には関心はあるが、全く素人であることを断っておく。
 最初に、歯に衣着せない奔放な「放言」で有名だった山本夏彦氏の、日本初の原子力船「むつ」(青森県むつ市大湊港が定係港)に関する鋭い論評を紹介する。半世紀前の事件で覚えている人は少ないと思うが、1974年の試験航海中に「放射線漏れ」を船内の警報器が示し、メディアが危険な「放射能漏れ」などと煽るように報じた。放射線はトリチウムなど自然の中でも常に浴びているが、放射能は放射線を放出する能力(物質)で、意味が全く異なる。その結果一般国民も漁民も同船を忌避して寄港も不可となって漂流し、莫大な税金や対策費を使いながら、日本初の原子力船は廃船となり、ディーゼル船に改造された。その時の「放射線漏れ」と言っても、船室での放射線量は自然環境での放射線量と変わりなかった。
 今は世界中で、原子力空母・潜水艦だけでなく、原子力砕氷船などが相当厳しい条件下でも活動しているが、動力としての原子力自体は問題にされていない。日本ではこの事件以後原子力船は製造されず、一般に原子力分野では、かつて日本は最先進国の一つだったが、今日では原子力研究を目指す若者が減って後進国的になっている。以下、山本氏の言である。
 「いつぞやの事故が無害だったことは、結局むつ市自身が認めた。ここに使われた国民の税金は、途方もない無駄使いである。むつ産と言っただけで、帆立貝は売れないだろうからそのぶん弁償せよと言った帆立貝は、前の年よりよく売れたという。弁償すべき損失は消滅したのに、約束だからと国は○億円払った。払ってもらって漁民は喜んだ。末ながく『むつ』に居残ってもらいたいと運動するものが現れて、むつ市はもめたという。新聞は理解に便利なため、人を善玉と悪玉に分ける。農民や漁民を純朴な善玉にするが、彼らが善玉でないことはむかし買い出しをしたわれらは知っている(※終戦前後、食糧不足の中で都会から田舎に買い出しに出た)。我らが善玉でないように、彼らもまた善玉ではないのである。こうして我らは彼らに大金を払った。」(山本夏彦著『二流の愉しみ』講談社)

私は山本氏の論を全面的に支持している訳ではないが、「むつ事件」と今日の「処理水海洋放出」の風評被害やメディアの役割など共通面に関心を寄せている。最近、岸田首相は全国漁業組合連合会の坂本雅信会長と面会。坂本氏は「科学的な安全性への理解は深まってきたが、風評被害が亡くなる訳ではない」と述べ、放出には一貫して反対した(日本経済新聞 8.22)。微妙な立場だ。同会長は処理水放出が科学的に安全と理解はしているが、風評被害は続いている。大量消費者の中国、香港で風評は一層強まっており、これらの被害対策の強化も求めている。本来、科学的に無害だと放出は認めた上で風評被害補償を求めれば、より合理的であろう。微妙な表現だが、実際はそうなっており、同会長は風評被害補償の継続、強化を強く求めているのだと思う。その背景には、またもやわが国のメディア問題がある。
 わが国のメディアが安全性に関する科学的報道よりも、漁民の苦境に焦点を当てて、彼らの苦情の言を中心に報道すると(一部の新聞大手や公共テレビ放送にもその傾向が強く見られる)、風評被害はむしろ拡大する。同会長は、処理水放出の安全性を明確に認め容認すれば、補償問題もほぼケリがついたと思われ、補償自体が危うくなると懸念したのだろう。
 さらに風評被害拡大の背景には、原発反対の政党やプロ的な運動家たちもいる。また、中国政権や韓国野党、そしてその影響下にある人々も、国際的にも、政治的意図をもって風評を拡大させ、対日情報攻撃さえしている。前者のプロたちは科学的な根拠には関心はなく、原発阻止が目的で、原発関係者あるいはもっと広く原子力や放射線の専門家・医師までも「原子力村の連中」として敵視する。後者つまり中国政府や韓国野党は、日本における処理水の問題は、ただ政治的な日本批判の道具に過ぎない。したがって国際原子力機関(IAEA)や伝統のある米国原子力学会(1954~)、今年7月、食糧輸入の対日規制を撤回した欧州連合(EU)などの、福島の処理水放出は全く問題ないという科学的言い分などには何の関心もなく、放水は対日批判の道具に過ぎない。ちなみに、IAEAは今年7月4日に、中国、韓国を含む11カ国の専門家による福島原発処理水の海洋放出問題を調査した結果を発表した。日本の計画が、最適な安全基準に合致している、との結論であった。また、IAEAは今後も福島に留まり、処理水の最後の放出を終える迄、チェックすると世界に約束している。
 中国や、韓国の野党や国民の大多数が、福島の処理水放出に強く反対している。中国は処理水を「核汚染水」と称し、「経済的利益の為、太平洋を自分の家の下水道にしている」とまで日本を罵倒して、日本水産物の輸入を全面禁止した。違反すればもちろん処罰される。
 福島の処理水は、セシウム137やウラン234など69核種の放射性物質を基準値以下に除去し、除去が不可能なトリチウムの年間放出量は、22兆ベクレルに抑える。これは日本の排出基準量1リットル当たり6万ベクレルの40分の1(1500ベクレル)だ。排出基準量とは、毎日その濃度の水を約2リットル飲んで、年間1ミリシーベルトとなる被曝量である。ちなみに胸部レントゲン検査では1回0.1ミリ、CT検査で一回20ミリシーベルト未満だ。トリチウムは宇宙線が大気に入ると自然発生し、雨の中にも相当量含まれている。
 中国や韓国の沿岸部の幾つもの原発からもリチウムが放出されている。一例だが、中国の泰山原発は年間143兆ベクレル(2020)、韓国の月城原発は71兆ベクレル(2021)海洋に放出している。それぞれ福島の6倍、3倍だ。フランスの使用済み核燃料を扱うアラーグ再処理施設の放水は、年間1京(1万兆)である。フィガロ紙はフランスの専門家の話として、福島の放出量は、比較するのもばかばかしいほどの少量だと報じた(2023.8.23)。中国も韓国も、科学的、客観的なデータは、全く無視した純政治的なプロパガンダである。今月24日に放出が始まった。その後、福島原発の近くの海で環境省、水産庁、福島県などがそれぞれ魚を捕獲、トリチウム量を別個に測定したが、何れも検出可能限度以下の水準だった。
 繰り返すが、風評被害の原因として私が最も問題としているのは、わが国の多くのメディアの報道だ。ちなみに、8月29日のA紙の第1面の大見出しは、「処理水 深まる日中亀裂」、第3面の大見出しが「日中関係改善 崩れたシナリオ」、社説が「中国と処理水 冷静な対話こそ必要だ」である。この社説では中国に関し後半に、科学的議論に応じず不安を煽る中国はきわめて無責任としているが、いずれの記事でも、福島の処理水の安全性は一言も強調されていない。処理水放出が日中関係を崩壊させた、というのが全報道の主旨である。