公益財団法人日本国際フォーラム

今日のロシアとウクライナの戦争に関して専門家の皆が一致して指摘していることは、プーチン大統領は最重要の国家的祭日である5月9日の対独戦勝記念日――例年、赤の広場で大規模な軍事パレードが行われる――までに、何らかの形で「特別軍事作戦」にロシアは勝利したという体裁をつけようとする、との観測である。

第2次世界大戦で連合国としてソ連と共に戦った欧米諸国も、80年近く前の戦勝記念日をこのようには祝わない。国連安保理の組織を例外として、戦勝国、敗戦国の区別も意味を失っているからだ。では何故、77年も前の対独戦勝記念日が、プーチン政権にとってそれほど重要なのか。ソ連時代以来の伝統だからだろうか。ロシア史上最も苦しく凄惨な戦争だった独ソ戦を忘れないためか。あるいは「世界をロシアがナチから解放」した日として、国際的意味合いを強調するためだろうか。

私の考えている結論を先に述べよう。1917年の二月革命、十月革命の後、内戦時代が1921年まで続いた後、1922年12月にようやく国家としての「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)」が結成された。しかし、ソ連国民が民族、宗教、職業、都市と農村、さらには思想や価値観などの違いさえ一時不問に付して、国民として初めて一つに団結してまとまったのは、「ナチスのお蔭」と言うと語弊があるが、独ソ戦によってであった。そして、旧ソ連地域を今もロシアの勢力圏と見ているプーチンは、第一に旧ソ連諸国を再びロシアの勢力下にまとめることを最重要視して2011年10月に「ユーラシア同盟」の理念を打ち出した。中国も含めて、外的世界を顕在的あるいは潜在的な敵性世界と見て、信頼できるのは軍事力だけというプーチンの世界観も強く影響している。そのために、旧ソ連諸国民が一致団結してナチに勝利した対独戦勝記念日を、特別に重要視していると私は見る。

それを証明するものとして、1914年3月18日、「クリミア併合」の日のプーチン演説の一部を以下紹介する。これは、今日のウクライナ軍事侵攻を正当化する論理でもある。
「あり得ないと思われていたことが、残念ながら生じた。ソ連邦の崩壊である。しかし、ロシアやウクライナ、その他の共和国の多くの人々は、その時生まれたCIS(独立国家共同体)が新たな形の国家(новая форма государственности)になることを期待した。というのは、これらの人々に次のことが約束されたからだ。つまり、単一通貨、統一経済圏、統一軍隊などである。しかしこれらすべては、単なる約束にとどまり、大きな国家にはならなかった。そしてクリミアは突然外国の地になったのだ。」(大統領府サイトより)

1941年6月22日のナチスによるソ連攻撃まではソ連邦は、プーチンがしばしばウクライナ、カザフスタン、ジョージアなどについて述べるように、「国家の体を成していなかった」。共産党が支配していたと言っても、1920年代のネップ時代は共産党政策は不明確だった。1930年代にも、共産党自体が古参ボリシェビキとスターリン派に分裂し、前者の大部分が粛清される状況が続いた。赤軍もトハチェフスキーなど多くの幹部が粛清された。諸民族も全くまとまっていなかった。民族共和国の中枢を共産党が抑えても、国民の大部分は伝統の生活を送っていた。中央アジアやコーカサスの共和国だけでなく、ロシア共和国でも同じで、無神論の共産党に対して国民の大部分はロシア正教徒やイスラム教徒だった。農民も、共産党は貧農を支持し、篤農は「クラーク(農村のブルジョア)」のレッテルを貼られた。こうして、農業集団化政策は農民を対立させ、また大量の餓死者も生んだ。教育も文化・芸術も共産党イデオロギーで支配され、多くの知識人が「人民の敵」として収容所送りとなり粛清もされた。

この事態を一変したのが対独戦争である。国家の存亡を懸けた戦争が始まって、当局から睨まれていた作家パステルナークも「解放感を強く感じた」という意味の言葉を述べている。共産党はロシア正教やイスラム教とも妥協し、複雑に対立していた諸民族も一体となって対独戦を死に物狂いで戦った。つまり、対独戦で「ソ連」という国家が初めて成立したのだ。

にも拘わらず、実は意外と思われるだろうが、ソ連時代には戦勝記念日を近年のプーチン時代のように大々的には祝っていなかった。ソ連時代にはむしろ11月7日の革命記念日や5月1日のメーデーの方が恒例行事として大規模に祝われた。対独戦に勝利した後の20年間、5月9日の赤の広場のパレードのような祝賀行事は行われなかった。スターリンもフルシチョフも、共産党よりも軍が勢力をもつのを嫌ったからだと指摘するロシアの歴史家もいる。例えば国民的人気のジューコフ元帥はスターリンやフルシチョフから冷遇された。対独戦勝記念日を軍事パレードと一体で盛大に祝うようになったのはブレジネフ時代からだが、その時代でも節目の年にしかパレードは行われなかった。ソ連時代に最後に戦勝パレードが行われたのは1990年で、ソ連邦崩壊後に控え目の形で再開されたのが1995年である。それが、軍事力誇示と結びつけられて毎年大々的に行われるようになったのは、プーチン時代になってからだ。

5月9日の軍事パレードは毎年行われるようになり、節目の年には戦勝国だけでなく日本やドイツなど敗戦国の首脳も招かれるようになった。「モスクワ詣で」に参集させた世界の首脳にロシアの国威を示し、またプーチンの念願でもある「第2ヤルタ体制」構築も念頭に置いているのかも知れない。ちなみに、2005年5月9日のパレードに招かれて参加したブッシュ米大統領(ジュニア)は、その途上5月7日にラトビアのリガで演説をし「ヤルタ合意は歴史上最大の誤り」と述べた。「クリミア併合」翌年の2015年の記念日には、西側主要国の首脳は抗議の意思を込めて、誰も出席しなかった。

いずれにせよ、プーチン大統領が特に5月9日の対独戦勝記念日を特別に重視するのは、単にロシア国内の行事という観点からではなく、ロシア主導による旧ソ連諸国の再統合、更には「第2ヤルタ体制」なども念頭に置いてのことである。それだけ重要な意味を持っているからこそ、この日までには何としても、ウクライナへの「特別軍事作戦」成功の体裁を整えたいのである。

一つの疑問だが、今年の5月9日には、赤の広場で大規模軍事パレードを行う余裕がロシア軍にあるのだろうか。