公益財団法人日本国際フォーラム

1.はじめに

いわゆる「安全保障(security)」の定義について、諸説あるものの、一般的には「国民の生活をさまざまの脅威から守ること[1]」とされている。例えば、本稿執筆中にもロシア・ウクライナ国境付近では、冷戦後最大規模となる10万人規模のロシア軍が展開し、緊張が高まった状況となっているが[2]、これは安全保障上の典型的な事案である。一方で、端的には「何から何をどのように護るのか?」という命題に集約し得る安全保障における脅威や手段などは多様であり、その1つが海洋安全保障であると考えられる。同時に、海洋安全保障は海洋ガバナンスを構成する主要な取り組みの1つという性格も有している。

海洋ガバナンスは国連海洋法条約(UNCLOS)が目指した「海洋の総合的管理」を具体化するものであり[3]、主要な取り組みとしては上述の「海洋安全保障」を含む「安全」に加えて、「開発」および「環境」に関する取り組みが挙げられるが[4]、周知のようにこれらの取り組みは個別的あるいは順応的に取り組まれてきた。しかし、昨今の違法・無報告・無規制(IUU)漁業の撲滅や資源開発をめぐる紛争をはじめとして、開発や環境、安全の各分野を跨るような政策課題の検討あるいはその方策の提示が求められるようになってきた。その最たるものが気候変動[5]への対応である。

本稿においては、このような安全保障あるいは海洋ガバナンスを取り巻く状況を踏まえ、新たな脅威としての気候変動に注目し、海洋「世論」の創成に与える影響を検討する。

2.気候変動とは何か?

気候変動に関する国際的な枠組みである国連気候変動枠組条約(United Nations Framework Convention on Climate Change:UNFCCC)においては、気候変動は「地球の大気の組成を変化させる人間活動に直接又は間接に起因する気候の変化であって、比較可能な期間において観測される気候の自然な変動に対して追加的に生ずるもの」と定義されている。

この気候変動の影響は広範に及ぶことが想定されており、国際連合環境計画(United Nations Environmental Programme:UNEP)と世界気象機関(World Meteorological Organization:WMO)が1988年に共同で設置した気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change:IPCC)が2014年に公開した評価報告書(IPCC Fifth Assessment Report:AR5)は、「温室効果ガスの継続的な排出は、更なる温暖化と気候システムの全ての要素に長期にわたる変化をもたらし、それにより、人々や生態系にとって深刻で広範囲にわたる不可逆的な影響を生じる可能性が高まる。気候変動を抑制する場合には、温室効果ガスの排出を大幅かつ持続的に削減する必要があり、適応と合わせて実施することによって、気候変動のリスクの抑制が可能となるだろう。」と強い警鐘を鳴らしている[6]。そのため、気候変動への対応は政策課題として強力に推進することが求められる。しかし、我が国において気候変動が環境問題あるいは経済問題として認識されているように[7]、安全保障上の問題としては必ずしも十分に認識されているとは言えないのが現状である[8]

3.安全保障上の脅威としての気候変動

我が国における気候変動の認識は前述の通りであるが、海外では異なる共通認識が形成されつつある。例えば、北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization:NATO)は、2021年6月に開催されたブリュッセル首脳会合において、「気候変動と安全保障に関する行動計画(NATO Climate Change and Security Action Plan)」を初めて採択し、気候変動に対する取り組みへの姿勢を明確化している[9]。また、気候変動がインド洋地域における安全保障上の脅威であり、休眠中の環インド洋地域協力連合(Indian Ocean Rim Association:IORA)を気候変動による災害を含むインド洋諸国の安全保障上の懸念を話し合うための枠組みとして機能させるべきとする分析も発表されている[10]。そして、グデーレス(António Guterres)国連事務総長は2021年9月に国連安全保障理事会において、気候変動への方策と平和構築との関連性に関する演説を行い、気候変動が安全保障に密接に関わる可能性を指摘している[11]

これらの政策や論説が注目する地域や対象は、いずれも異なるものである。しかしながら、気候変動を単なる環境問題や経済問題としてのみ捉えておらず、安全保障上の問題あるいは脅威として認識しているという点においては共通している。このような文脈を基盤あるいはより加速させる流れとしては、2021年4月に開催された気候サミット(Leaders’ Summit on Climate)[12]や2021年10月に開催された国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(UNFCCC-COP 26)[13]が挙げられる。これらの会合においては、外交・安全保障上の重要課題として気候変動を取り上げているのみならず、安全保障担当閣僚が議論に参加するなど、気候変動が名実ともに安全保障上の脅威として認識されていることが明らかになった。

4.海洋から見た気候変動

このように安全保障上の脅威として強く認識されるようになった気候変動であるが、これまで概観してきた動向や議論はほとんどが陸地に注目したものである。しかし、気候変動の影響は地球全域に及ぶものであり、海洋も例外ではない。そのため、前述のIPCCもAR 5を公開した後、2019年に海洋および雪氷圏(極域や高山など)に注目した初の報告書となる海洋・雪氷圏特別報告書(Special Report on the Ocean and Cryosphere in a Changing Climate:SROCC) を発表するなど、警告を発し続けている。

確かに気候変動は陸地由来であるが、「海洋・雪氷圏は、気候と気象を調整し、食料と水を供給し、経済・貿易・輸送を支え、文化を形成し、私たちの福祉に影響を与えている。海洋と雪氷圏に現在起こっている変化の多くは人間の活動の結果であり、全ての人々の生活に影響を及ぼすものである。」と同報告書が指摘しているように[15]、海洋の変化が与える影響は極めて甚大である。

従って、より積極的な取り組みが求められるが、これはこれまでのような安全保障を実施する場から、護るべき対象へと海洋が変化し得ることを意味している。また、取り組みの持続可能性を担保するという意味においては、経済的な取り組みも必須である。これらの課題への対応は正に海洋ガバナンスの中核的な課題であるが、これは気候変動が「陸地中心主義」から「海洋中心主義」へと世界の外交・安全保障政策をシフトさせる端緒となることが期待できるということでもある 。そして、この変化は正しく持続可能な開発目標(SDGs)において、「気候変動とその影響に立ち向かうため、緊急対策を取る(SDG 13)」ことと「海洋と海洋資源を持続可能な開発に向けて保全し、持続可能な形で利用する(SDG 14)」ことがその基盤となっていることを裏付けることにもなる[17]

5.おわりに

本稿は安全保障あるいは海洋ガバナンスを取り巻く状況を踏まえ、新たな脅威としての気候変動に注目し、海洋「世論」の創成に与える影響を検討してきた。本稿での検討を通じて、気候変動への対応が安全保障に止まらず、新たな海洋ガバナンスのあり方、そして持続可能な開発を達成するためのきっかけとなることを明らかにした。これらの知見を踏まえ、若干の私見を述べたい。

本稿でも縷々指摘したように、安全保障における脅威あるいは護るべき対象はヒトもしくは国家に代表される集団に由来するものがほとんどである。しかし、気候変動は人間活動に由来するものではあるものの、具体的な事象としては台風や大雪といった異常気象として現出することが多く、これは国家や民族を問わず、等しく被害を受け得るものである。そのため、俗な表現をするならば、「呑気に戦争をしている場合ではない」ということである。

一方で、ロシアのウクライナへの侵略に代表されるような古典的な安全保障の事案がすぐに無くなるということもなく、勢力均衡(balance of power)に代表させる国際関係の構築が相対的に戦争を漸減する取り組みであることも言うまでもない。また、IPCCの非公開会合でロシア代表が「この紛争を防ぐことができなかったすべてのロシア人を代表し、謝罪を表明させてほしい[18]」と述べたように、少しずつではあるが、大きな揺り戻しはあるものの、新たな国際秩序を志向する流れも生まれつつある。そのため、気候変動という未曾有かつ不定形な脅威ではあるものの、その対応を通じて、ヒト対ヒトという構図を抜け出す新たな海洋「世論」の創成が始まることを期待したい。