はじめに 軍事力の三つの役割
2014年のウクライナ危機以降、ロシアの軍事戦略は、国際安全保障上の大問題として書きしてきた。特に注目を集めているのは、サイバー戦や情報戦といった非軍事的手段の活用であり、こうした闘争形態は「ハイブリッド戦争」 [1]、「地政学リベンジ」 [2]]、「地政学的ゲリラ戦」 [3]などとも呼ばれる。ここで前提とされているのは、ロシアが非軍事的手段を活用して平時と有事を問わない「戦争」を展開し、西側の弱体化や混乱を図っているという見方である。
しかし、本論考では敢えて古典的な軍事力に焦点を当てたい。非軍事的手段による闘争は冷戦期から行われてきた「政治戦」 [4] や「アクティブ・メジャーズ」 [5]の延長上にあるものであって、暴力の行使という閾値の下における闘争形態と理解することができる。他方、ひとたび暴力の行使という局面に至った場合に中心的な闘争手段となるのは当然、軍事力であり、その運用構想(軍事戦略)は非軍事的闘争としての「ハイブリッド戦争」という概念では捉え切れるものではない。
では、実際に暴力行使という閾値を越えた後の局面において、軍事力が果たす役割とは何か。本論考はこの点を中心に据えて現代ロシアの軍事戦略を検討していく。結論を先に述べるならば、現代においてロシアの軍事力が担う役割は、次のように整理することができよう。
①暴力行使の閾値下における非軍事的闘争の増幅手段(「戦略的抑止」の一部)
②暴力行使が始まったのちの軍事的闘争の遂行手段(戦闘)
③暴力行使を受け入れ可能な条件で緩和・終結させるための手段(エスカレーション抑止)
以下では、これらについて順番に検討を進めていく。
1.戦略的抑止手段としての軍事力
(1) ロシアの抑止観と「新しい戦争」への脅威認識
第一に取り上げるのは、戦略的抑止手段としての軍事力の役割であるが、ここで注意すべきは、ロシア語でいう「戦略的抑止(стратегическое сдерживание)」が、核抑止を含めた軍事的な抑止に限定されていない点であろう。例えば2015年に公表された現行バージョンの『ロシア連邦国家安全保障戦略』によると、戦略的抑止とは「軍事力行使の予防とロシアの主権・領土的一体性の保護を目的とした相互に関連する政治・軍事・軍事技術・外交・経済・情報及びその他の手段」によって担われるとされており [6]、軍事的均衡のような古典的抑止はその一要素に過ぎないことが分かる。また、チャラップらが指摘するとおり、ロシア語の「抑止」とは相手を威嚇するばかりではなく、実際に小規模なダメージを惹起して恐怖心を抱かせ、行動を変容させるという、より接触的・攻撃的な概念であるとされる [7]。
このような理解に基づくならば、「はじめに」で触れたロシアの非軍事的闘争は、多様な手段を用いて西側を「抑止」するための行動であるということになろう。その背景にあるのは、西側こそが非軍事的手段(特に民主化支援と経済制裁)を用いてロシアやその同盟国を弱体化・混乱させるための「ハイブリッド戦争」を展開しているという世界観である。
その源流とされるのは、情報を用いた心理戦でソ連共産主義体制を打倒することを唱えたエフゲニー・メッスネルの思想 [8]であり、ソ連崩壊後にはアレクサンドル・ドゥーギン [9]やイーゴリ・パナーリン [10]といったユーラシア主義思想家に受け継がれた。また、このような世界観は、プーチン大統領をはじめとする現代ロシアの政治指導部の言説や『ロシア連邦国家安全保障戦略』をはじめとする政策文書にも濃厚に見出すことができる。
(2) スリプチェンコの第6世代闘争論
非軍事闘争論のもうひとつの源流と見なすことができるのは、軍事科学アカデミー副総裁であったウラジミール・スリプチェンコ少将である。スリプチェンコによると、人類の戦争形態は紀元前の素手による闘争から始まって幾度かの世代交代を遂げてきたが、20世紀には核兵器の登場によって「第5世代戦争」時代に入り、戦場で敵味方が直接戦火を交える「接触戦争」から戦場に立ち入らずして戦う「非接触戦争」への移行が起こった。だが、核兵器による「第5世代戦争」は人類の絶滅につながる恐れがあり、したがって政治的目標を達成することのできない矛盾した戦争形態である。これに対して、精密誘導兵器(PGM)、情報通信技術(ICT)、ステルス航空機などを用いる第6世代の戦争は、このような矛盾を引き起こさずして「非接触戦争」を遂行する可能性を秘めたものであり、最終的には古典的な軍事力の価値を大幅に低下させるだろうとスリプチェンコは述べる[11]
ただし、スリプチェンコは、PGMやICTによる戦争は「第6世代戦争」のごく初期段階に過ぎないとも述べている。すなわち、21世紀半ばには気象操作、情報による認識操作、電磁波や放射線による感情操作、遺伝子技術を用いて特定の人種だけを狙う生物兵器等が戦争の主役を担うだろうというのがスリプチェンコのビジョンであって、あまりにも夢想的もしくはオカルティックな色彩が否めない。
ただ、こうした新しい闘争手段のうち、情報の力への注目は、ロシア軍内部の議論に大きな影響を及ぼした。これがメッスネル、ドゥーギン、パナーリンらの思想と共鳴した結果、バルエフスキー、チェキノフとボグダノフ、ガレーエフ、カルタポロフ、コルィプコ、ブラディミロフといったロシア軍内部の非軍事的闘争論のバクボーンとなったのである [12]。
(3) 軍事力の役割
ジョンスソンは、西側による非軍事的闘争への脅威認識がソ連崩壊後のロシア軍内で高まった結果、メッスネルらの思想が再評価されていった過程を膨大な軍事出版物の分析に基づいて明らかにしている。特に大きな役割を果たしたのは、2000年代に旧ソ連諸国で相次いだ権威主義的態勢の崩壊(「カラー革命」と総称される)やロシア国内での反体制運動の高まり、2010年代にアラブ諸国で連鎖的に発生した体制転換と内戦(「アラブの春」)であり、この結果、ロシア軍内部では非軍事的闘争こそが次世代の「新しい戦争」であるとの認識が定着したとジョンスソンは述べる [13]。
2013年1月にゲラシモフ参謀総長が軍事科学アカデミーで行った演説 [14]は、こうした「新しい戦争」像を示すものとして国際的な注目を集めた。ゲラシモフによると、このような闘争形態において中心的な役割を果たすのは、情報戦、サイバー攻撃、経済制裁等によって敵国の内政を不安定化することであり、軍事作戦はその効果を増幅するための限定空爆等として実施される。また、不安定化によって敵国内で武力紛争が始まった場合には、特殊作戦部隊や民間軍事会社(PMC)、非国家武装勢力が中心となって低烈度紛争(LIC)が展開され、紛争を仕掛ける側にとって都合のよい状況(例えば敵国政府の崩壊)にまでエスカレートすると、今度は平和維持部隊が投入されてその既成事実化が図られるという。演説の際にゲラシモフが提示したプレゼンテーション資料では、「新しい戦争」において用いられる軍事的手段と非軍事的手段の比は1:4とされている。
(4)「ゲラシモフ・ドクトリン」をめぐる議論
ゲラシモフ演説が注目を集めたのは、その内容が翌2014年2月以降に実施されたウクライナへの介入手法を予見するものと見做されたためであった。サイバー攻撃や情報戦による現地住民の認識操作や、特殊作戦部隊・PMC・民兵によるLIC、既成事実化のための(戦闘を伴わない)軍事力の展開など、実際にゲラシモフ演説はウクライナで起きた事態と多くの共通性を有していることはたしかである。それゆえに、ゲラシモフ演説はロシアの新しい軍事戦力を方向づけるものと見做され、「ゲラシモフ・ドクトリン」なる通称で人口に膾炙することとなった。
ただ、ゲラシモフ演説を「ドクトリン(教義)」と見做すことについては多くのロシア軍事専門家から批判が寄せられており、その発案者であるマーク・ガレオッティものちに、これが不適切なネーミングであったことを謝罪する記事を執筆している [15]。既に見たように、ゲラシモフの演説はソ連崩壊後のロシア軍内外で続いてきた非軍事的闘争論を要約したものであったからである。また、ゲラシモフ演説の翌年に公表された『ロシア連邦軍事ドクトリン』でも、非軍事的闘争手段はあくまでも西側からの脅威として位置づけられ、ロシアが取るべき軍事戦略として定式化されてはいない。
さらに重要なことは、非軍事的闘争が軍事的闘争にとって代わり、戦争の中心になるという見方をゲラシモフ自身が取っていないことであろう。2013年の演説全体を見れば明らかな通り、戦車将校出身のゲラシモフが中心的な関心を寄せているのは、火力や機動力の発揮であり、これを無人兵器や人工知能(AI)といった振興技術とどう結びつけるかであった。
前述のジョンスソンは、「ゲラシモフ・ドクトリン」論が非軍事的闘争の可能性を過大評価しており、軍事力の価値を見過ごすような論調を厳しく批判しているが [16]、では実際問題として非軍事的闘争と古典的な軍事的闘争とがどのような関係性にあるのかについてはほとんど触れていない。わずかに、非軍事的闘争による目標達成が失敗した場合に軍事力が登場するという「二段階アプローチ」(または非軍事的闘争→LIC→国家間戦争という「三段階アプローチ」)を紹介している程度である。
2.戦闘手段としての軍事力
(1) ハイテク軍事力への脅威認識
非軍事的手段と軍事的手段の接続については後段で検討するとして、今度はより古典的な戦闘の手段としての軍事力の役割を取り上げてみたい。
ソ連崩壊後、ロシアは深刻な経済難によって大幅に軍事力を縮小せざるを得なくなり、しかも装備・インフラの近代化や訓練も滞ることになった。また、旧ソ連構成国であったバルト三国や中東欧の旧社会主義同盟国が次々に北大西洋条約機構(NATO)に加盟したことにより、戦略縦深も大幅に後退した。
他方、米国を中心とする西側諸国ではこの間に精密誘導兵器(PGM)、情報通信技術(ICT)、ステルス技術などによる軍事力のハイテク化が進み、1999年のユーゴスラヴィア空爆や2003年のイラク戦争では、これらの新技術を駆使した圧倒的なエアパワーの行使が西側の一方的な軍事的勝利に繋がった。そして、こうしたハイテクかつ非核の軍事力を用いた攻撃を西側が仕掛けてきた場合、ロシアは核抑止に頼ることができず、かといって通常戦力でも対抗できないという事態に陥る可能性が、同国の安全保障サークルの中で深刻な懸念を持って受け止められることになったとアルバートフは指摘している [17]。前述したスリプチェンコの「第6世代戦争」論も、もとはこうした脅威認識から派生してきたものと言えよう。
(2) A2/ADと損害限定戦略
西側のハイテク化軍事力への対抗策としては、中国が展開している接近阻止・領域拒否(A2/AD: Anti-Access/Area-Denial)戦略が広く知られている。沖縄やグアムといった米軍の前方展開拠点を長距離打撃手段で早期に破壊するとともに、中国本土近傍に展開させた防空・対艦・電子戦アセット等によって行動の自由を制約するというものであり、近年ではロシアもこれと同様のアセットを欧州正面や中東、極東等に展開させていることが知られている。ただ、米国防情報局(DIA)は、ロシアのA2/ADアセットには敵の情報活動を拒否・欺瞞するための情報戦能力が含まれるとしている(表-1)。
ただし、以上のような防衛アセットは、突破不能な防衛線ではない。米国を中心とする西側の圧倒的なエアパワーを以ってすれば突破自体は可能であって、問題はその過程における損害をどこまで許容するかである [18]。
また、米海軍系のシンクタンク、海軍分析センター(CNA)のマイケル・コフマンが指摘するように、欧州正面とアジア太平洋正面では戦略的環境が大きく異なることも見過ごされるべきではない [19]。前述のように、ロシアが最初からNATO加盟国と近接している以上、米軍は平時や軍事的緊張事態において増援を行い、開戦時点で大規模な兵力を展開させていると想定しなければならないためである。したがって、欧州正面におけるロシアの軍事戦略はA2/ADをその構成要素の一部としつつ、より広範な軍事力の運用構想—損害限定(damage limitation)の形を取るとコフマンは主張する。以下、その内容を簡単にまとめてみよう。
第一に、損害限定戦略においては、米国の来援を阻止したり、欧州戦域内におけるその行動の自由を拒否することはできないと前提される。したがって、西側との大規模戦争勃発時におけるロシアの現実的な目標は、その初期段階において米国のPGM攻撃を吸収・拡散させることによる抗堪性を確保し、防勢及び攻勢を通じて高価値アセットを消耗させ、指揮統制通信に対する攻撃によって作戦を混乱させることに置かれる。こうした打撃を小規模または大規模に行うことで、米国の組織的な軍事作戦遂行能力を一定期間麻痺させ、迅速な勝利を達成することを不可能にさせることにより、戦争継続に関する政治的決意を鈍らせるというのが損害限定戦略の基本的な考え方である。
第二に、以上の目標を達成するにあたっては、防勢と攻勢を組み合わせた「能動的防御(active defense)」が不可欠となる。特に重要なのは主導権を握るために実施される予防的な(preemptive)攻撃であり、ここには後述するエスカレーション抑止のためのデモンストレーション的・限定的攻撃が含まれる。
第三に、損害限定戦略は特定の領域を前提としたものではない。ここにおいて追求されているのは、敵が組織的な軍事作戦を遂行する能力の全体を妨害することであって、これに資するアセットはあらゆるものが動員される。具体的には、低層防空システムから広域防空システムから成る統合防空システム(IADS)によって自国の継戦能力の中核となる戦略的インフラや野戦軍を防護し、同時に長距離PGM、短距離の火砲や多連装ロケット(MLSRS)、EMS作戦能力、サイバー作戦能力、対宇宙作戦能力を用いて米国の継戦能力を妨害することが意図される。
(3) 軍事力行使の実例と大規模軍事演習に見るロシア軍の戦闘手法
したがって、ロシアの軍事戦略は、スリプチェンコが予期したような「非接触戦争」的な形態を必ずしも取らない。
ウクライナへの介入に見られるように、情報を用いた国民の認識操作はそれ自体では敵国政府の打倒といった戦略目標を達成することはできず、軍事的闘争能力を持った特殊作戦部隊、PMC、民兵の投入を必要とした。また、特にクリミア半島への介入作戦では、特殊作戦部隊によるメディアやインターネット関連施設の占拠が情報のコントロールを可能としたことを考えれば、非軍事的手段の行使には軍事的手段が必要されるという構図も指摘することができよう [20]。
さらに重要なのは、これらLIC遂行手段はより大規模な正規軍の裏付けを伴って初めて効果を発揮したという点である。クリミア作戦について言えば、軽武装かつ少数の特殊作戦部隊、PMC、民兵では、ウクライナ側が混乱を脱して大規模な奪還部隊を派遣してきた時点で劣勢に陥ることは免れ得ず、それゆえにロシアは後続として大規模な増援部隊を送り込んだ [21]。これに続くドンバス紛争では、ロシアの支援を受けた親露派武装勢力はウクライナの対テロ作戦(ATO)部隊に対して実際に戦場で劣勢となり、これを支えるために大規模なロシア正規軍の投入が必要とされた。シリアにおいても、ロシアは現地の民兵とロシア正規軍(主として航空宇宙軍による空爆や情報・偵察・監視、特殊作戦部隊、砲兵、工兵等)を組み合わせることでアサド政権の領域回復を支援する「限定行動戦力」 [22]が採用されている。
また、ロシア軍が毎年秋に実施している軍管区レベルの大規模演習に着目すると、ここでも古典的な軍事的手段の役割は非常に大きいことが看取される。第一に、ロシアは西側との戦争が初期段階ではPGMの集中使用による「非接触戦争」の形態を取ると想定しつつも、最終的な勝敗を決するのは地上軍による戦闘であるという見方を崩していない。むしろ、PGMによる攻撃や電磁波領域(EMS)作戦、航空宇宙防衛(VKO)等の非接触的な戦闘能力は、決勝戦力である地上軍の活動を確実にするためにこそ重要であるとされている。
第二に、2010年代以降のロシア軍大演習に顕著であるように、ロシアは非国家武装勢力によるLICが大国の軍事力に支えられて実施されるという見方を強めている。具体的に言えば、西側が権威主義体制に反発する不満分子やイスラム過激派を空爆、海上封鎖、空挺降下、兵站などで支えることでLICを仕掛けてくるというのがその想定である [23]。したがって、ロシアの対応は大規模な正規軍や治安部隊の投入によって対反乱(COIN)作戦を実施しつつ、これが核使用を含めた大国間の全面戦争(『ロシア連邦軍事ドクトリン』の分類では「大規模戦争」)にエスカレートしないように抑止するというものになる。
3.エスカレーション抑止手段としての軍事力
(1)核兵器によるエスカレーション抑止
以上で見たように、ロシアの軍事戦略においては、強力な破壊力を有する正規軍の軍事的闘争能力が非軍事的手段による闘争やLICと密接に結びついている。特に重要なのは大規模紛争へのエスカレーションを抑止する戦略核戦力であり、この点は過去の長期装備計画(国家装備プログラム(GPV)と呼ばれる10ヵ年計画)において戦略核戦力の近代化が常に最優先項目とされていることから裏付けられよう。
また、核兵器によるエスカレーション抑止は、戦闘をある段階で収束させたり、敵の有力な同盟国の参戦を阻止する目的でも用いられることが想定されている。エスカレーション抑止(de-escalation)とか「エスカレーション抑止のためのエスカレート(E2DE: escalate to de-escalate)」と呼ばれる戦略がそれであり、戦闘における勝利ではなく、デモンストレーション的な核使用や限定的な損害惹起を目的とした核使用によって敵に戦闘の継続や参戦によるメリットがデメリットを上回ると認識させることがその要諦とされる。
米海軍系のシンクタンクである海軍分析センター(CNA)は、膨大な数のロシアの軍事出版物分析に基づき、エスカレーション抑止戦略に関する2本の詳細な分析レポート [24]を2020年に公表しているが、これによるとロシアの核戦略家の多くは、エスカレーション抑止型核使用をいくつかの段階に分けて実施することを想定していることが分かる。また、近年のロシアでは、この種の核使用を遂行し得る能力構築も進んでいる [25]。
(2)非核兵器によるエスカレーション抑止
しかし、いかに限定的なものとはいえ、ひとたび核兵器を使用した場合に相手国がどのように反応するかは、その時点における政治指導部の性格や国民の機運に左右されるところが大であって、はなはだ不確実である [26]。実際、ロシアのエスカレーション抑止型核使用を懸念する米国は2017年、ロシアが在独米軍基地に限定核使用を行ったらどう対応すべきかをテーマとした図上演習を国家安全保障会議(NSC)内で実施したが、この際、あるチームは限定核使用による報復をベラルーシに行うことを選択し、もう一つのチームが通常兵器による報復を選んだとされる [27]。ロシアがエスカレーション抑止型核使用を『ロシア連邦軍事ドクトリン』や『核抑止の分野におけるロシア連邦の国家政策の基礎』等の宣言政策において明確にしていないことからしても、これは具体的な核運用政策というより、西側諸国に疑心暗鬼を生むための心理戦ではないかという見方は少なくない [28]。
他方、近年のロシアでは、非核PGMを用いたエスカレーション抑止型攻撃に関する議論が活発化している。通常戦力の敗北を核使用に直結させず、非核PGMを用いたエスカレーション抑止型攻撃で戦闘停止や不参戦を強要できるという考え方であり、2014年版『ロシア連邦軍事ドクトリン』ではこれが「非核戦略抑止」として盛り込まれた。また、ロシアは2008年のグルジア戦争以降、この種の攻撃に活用しうる長距離PGM(3M14カリブル艦艇発射型巡航ミサイル、9M728/729地上発射型巡航ミサイル、Kh-101空中発射型巡航ミサイル、9M723SRBM等)を著しく増強させており、2019年の「グロム2019」演習では実際に非核エスカレーション抑止を想定した訓練が大規模に実施されたと見られている [29]。2020年11月にロシアの仲介でアルメニアとアゼルバイジャンが停戦に合意した直後、アゼルバイジャンの首都バクーの郊外で発生した爆発についても、ロシアが停戦を強要するために実施された非核エスカレーション抑止攻撃だったのではないかという見方がある [30] 。
しかも、エスカレーション抑止に関するロシア軍内部の議論は現在も進行中である。例えばロシア参謀本部戦略研究センターの紀要『軍事思想』2020年12月号に掲載された論文「戦略的抑止を確保するための新たな兵器の役割について」 [31]によると、敵の防空網を掻い潜って目標を精密に打撃できるキンジャール空中発射極超音速ミサイルは、「政治的、倫理的、その他の理由」で核兵器が使用できない状況においても使用できる有力な打撃手段であると同時に、デモンストレーション使用によって軍事紛争の烈度や範囲を限定する効果を見込めるという。海軍向けに開発が進められているツィルコン極超音速対艦ミサイルについても、今後、対地攻撃バージョンが開発されれば同様の効果を発揮することができよう。これらの極超音速兵器は、その速度がもたらす運動エネルギーによって低速の巡航ミサイルよりもはるかに大きな破壊効果をもたらすことも期待できる。また、同論文は、地上配備型レーザー兵器ペレスウェートも、敵の人工衛星に限定的な損害を与えることで同様の役割を果たすとしており、エスカレーション抑止の局面においても領域横断的な運用構想が出現しつつあることが読み取れる。
(3)エスカレーション抑止戦略の限界
ただ、非核エスカレーション抑止もまた万能ではない。前述したCNAの報告書においても指摘されているとおり、冷戦期の核戦略が、敵国が物理的に国家を維持できなくなる状態を目標として定量的に見積もられる「耐えがたい損害」を基準としていたのに対して、エスカレーション抑止が前提とする、敵が主観的に戦闘の停止や参戦の見送りを決断するに足るレベルのダメージ(「受け入れがたい損害」)とはどの程度なのかを見積もることはもとより極めて困難であるためである。これが(核兵器ほどの心理的衝撃をもたらさない)通常戦力によるものであるとすれば、その複雑性はさらに増加する。
ジョンソンが指摘するように、この意味で非核手段はロシア軍においても核兵器のそれを代替し得るとはみなされておらず、両者の関係性についての議論は現在も議論が進行中である [32]。
おわりに 非軍事的闘争と軍事力の価値
2015年度版『ロシア連邦国家安全保障戦略』が述べるように、「国際関係における力のファクターの役割は低下していない」。非軍事的手段による闘争が単独で効果を発揮するのは平時の「政治戦」においてであって、これが武力闘争の局面に至った場合にLICという形で軍事的闘争手段が中心となり、しかもそれはより大規模な戦争へのエスカレーションの可能性と紐づくことで効果を発揮するというのが本論考の結論である。
ただ、ここにおける軍事力の役割がクラウゼヴィッツの述べるそれ、すなわち「拡大された決闘」としての国家間戦争に勝利することに限定されていないことは、同時に指摘されるべきであろう。実際に想定される軍事的闘争の形態は特殊作戦部隊、PMC、民兵等を用いたLICであり、正規軍はLICのエスカレーションを抑止するための手段と位置付けられているためである。エスカレーション抑止の信憑性を高める上では戦闘遂行能力の裏付けを必要とすることは事実であるとしても、大国が核兵器を保有する現代では望ましい選択肢ではなく、したがって相互に大規模戦争を抑制せざるを得ないがゆえにLICは機能する。元英国陸軍軍人であったルパート・スミスが述べるように、「戦うのではなく『展開』する」ことに古典的な軍事闘争手段の主要な効用はシフトしつつあるのであって、この点はロシアにも多分に当てはまると言えよう。
この構図は、抑止が破れた後にもある程度まで当てはまる。ここでロシアが依拠するのは損害限定戦略であって、優勢な西側に勝利することはできないまでも、「負けない」期間を引き伸ばすことで敵国の継戦意思低下を期待しうるためである。また、それでも敵の継戦意思が低下しない場合、ロシアは核兵器または非核兵器を用いて「適度なダメージ」を惹起し、継戦・参戦意思の低下を図る。
このようにしてみれば、戦争とは人間の「意思のせめぎ合い(contests of will)」であるというマクマスターのテーゼ [33] は、非軍事的闘争手段が活用される現代の紛争においてもその有効性を失っていないと考えられる。