公益財団法人日本国際フォーラム

224日にロシアのウクライナ侵攻が始まって5か月がたつが、事態の行方は杳として知れない。ロシアとウクライナの戦争は「非対称な戦争」だから、ウクライナの「勝利」はない。仮に2014年のロシアのクリミア侵攻以前の状態にまで戻したとしても、そのことでどれだけの犠牲が出るか。いうまでもなく、今の段階ではそれは望むべくもない。

ウラディミール・プーチン大統領の暴挙は法的にも人道的にも言語道断だ。そして侵略に抵抗するウクライナ国民の祖国防衛に向けた高い士気と勇気は称賛に値し、神々しくもある。しかしそのヒロイズムの陰で、戦争が長引くことはそれだけ犠牲が増えることを意味する。それは耐え難い真実だ。どれだけ勇気を称えても失われた命は戻らない。どうしてこの戦争は避けられなかったのか。

「正義」のための力の対決

戦争はあまねく当事国にとっては「正戦(正義のための戦争)」だ。当事国にはそれぞれ「正当な理由」がある。

プーチン大統領の考えは測り知れないが、プーチン自身にとってこの戦争は「正戦」なのだ。NATOの東方拡大によってロシアは存亡の危機にさらされている。他方でゼレンスキ―大統領にとってもこの戦争はウクライナを守るための正義の戦いだ。しかし両者が正義を貫こうとすればするほど、敵対関係は強まり、戦禍の拡大は不可避だ。力と力の衝突は激化する。悲劇はそこにある。

ウクライナ危機のそれぞれの正義は、冷戦終結後の米欧リベラルデモクラシーと資本主義化に向かう旧東欧諸国の意志とこれを自らの勢力圏侵害と考えるプーチンの脅威・正当防衛意識にあった。

戦争の背景には必ずそれを招いた国際環境がある。ウクライナ戦争の発端の焦点はNATO加盟であったが、それは不安定な欧州安全保障の最大要因となた。一言で言えば冷戦終結はロシアを含む欧州の集団安全保障体制構築の構想であるゴルバチョフ大統領の「欧州共通の家」提案を直接的な出発点とした。それは軍事対立に至らないような敵愾心を克服した平和システムの構築にその目的はあったが、結果的にNATO拡大をめぐる衝突となった。ということは、冷戦後の欧州秩序がロシアを含む集団安全保障体制の構築に失敗し、ロシア敵視の集団防衛体制、つまり「力と力の対決」の構図に収斂していったことを意味する。議論の捩じれがあった。

NATOの東方拡大と勢力圏

それはどういった経緯からきたのであろうか。冷戦終結直後からポーランドをはじめとして中・東欧諸国はNATOへの加盟を主張、19938月エリツェン露大統領がポーランドのNATO加盟を容認すると、にわかに東欧諸国のNATO加盟が加速された。そしてNATOの東方拡大(ポーランド・ハンガリー・チェコ)は、19975NATOとロシア間で合意した「NATO・ロシア憲章(基本文書)」で決定的なものとなった。これは旧東西両陣営間の「相互関係・協力・安全保障創設のための条約」で、NATOとロシアは互いを敵とみなさないこと、安定した平和な分断されない欧州建設を謳った。そしてNATOが新加盟国に核兵器を配備しないこと、新たな常駐兵力を派遣しないこと、駐留軍の制限などで合意した。

同時にこの「基本文書」は、冷戦時代の枠組みを前提に合意された通常兵器削減交渉(CFE)条約を新しく見直すことを定めた。このCFE条約をめぐる展開は、米国流の一元的で普遍的な安全保障観とロシアの主張する地政学的勢力圏を前提とする安全保障観の摩擦を象徴していた。

今ではあまり論じられないCFE条約だが、これは冷戦時代の1970年代に開始された「中部欧州兵力削減MBFR」を出発点とする。冷戦時代その交渉は困難を極めたが、冷戦終結直後の199011 (9211月発効) に合意した。戦車装甲戦闘車両火砲戦闘機攻撃ヘリの部門での東西間の保有数の上限を定めた、しかしこの条約は締結されて間もなく、実質的な意味を持たなくなった。それは1990年当時の東西国境の範囲内の兵力分布、つまり冷戦時代の東西間の勢力圏を前提にしていたためである。したがってその後97年の東方拡大による変化を受けて条約の再検討が不可欠となり、1999年にはCFE適合 (ACFE) 条約が結ばれた。それは97年当時の国境を尊重したものだった。

昨年来のウクライナとの交渉の中でプーチンの主張の基本となったのはこの勢力圏の維持という発想だった。昨年12月にロシアが提出した合意文書案(米国との条約案・NATOとの協定案)には、米国には、NATO東方拡大停止、バルト三国を除く旧ソ連諸国に軍事基地を設けないこと、軍事協力も発展させないこと、中距離ミサイル・核兵器の自国以外の配備はしないことなどが提案されていたが、NATOに対しては、「欧州での軍事配備はNATOの東方拡大前の1997年までの状態に戻す」ということが主張されていた。ACFE条約を引き継いだ勢力圏の発想がロシア側には脈々と息づいていた。

「勢力圏」に固執するプーチンの不信感

しかし米欧、とくに米国はACFEを尊重せず、プーチンを失望させた。ロシアは2002年にはトラスニストリアからCFE条約に従って条約の対象兵器を撤収し、2004年にACFE条約を批准、07年にはジョージアから全駐留軍を撤兵させたが、その後も米国は態度を変えず、NATO諸国はACFE条約を批准しなかった。それを理由として07年ロシアは条約の一時不履行を決定し、15年には条約を離脱した。ACFENATO諸国が批准しなかった背景にはGWブッシュ米大統領の意向が強く働いたといわれる。昨年12月のロシアからの提案に対しても、翌月の米国の回答は軍事演習の制限を認めた以外はほぼゼロ回答だった。

この一連の米欧の対応はロシア側の不信感を募らせた。ロシアはもともと威信を大切にし、プーチンはドゥーギンというロシアの著名な地政学者の影響を受けているということはよく指摘されることだ。ドゥーギンの議論は19世紀的な大国の地理的勢力圏の議論だ。

プーチンは、冷戦終結後の欧州ではNATOの軍事的圧力がじわじわと強まり、ロシア勢力圏が縮小されていると考えた。米国がバルト諸国に常駐軍の追加配備をしないという取り決めを守らなかったこと、07年に米国はNATOやロシアとの協議機関である「NATO・ロシア評議会」に諮らないまま、黒海への常駐軍の派遣を決めたこと、ルーマニアとブルガリアはCFEの東部側面地域であるためこの地域での軍の駐留は事前協議義務の対象だったが、それをせずに米国はこの地域に軍を駐留させたことなどだった。ロシアの米国に対する不信感は2002年米国のABM(迎撃ミサイル)条約からの離脱、1999年のNATOの対セルビア攻撃と2003年米国のイラク攻撃によっていっそう大きくなった。プーチンは、それらは米国の国際法違反だと批判した。

そうした中で、今回のウクライナ攻撃の発端となったNATO加盟問題はロシアの西側国境に隣接する国をめぐる問題であっただけに、ロシアの態度が一層硬化したのはロシア側の論理で自然であった。この問題が顕在化したのは、20084NATOブカレスト首脳会議だった。この会議でGWブッシュ米大統領はウクライナとジョージアのNATO加盟に対する期待を述べ、「加盟アクションプラン(MAP)」を掲げた。20143月のロシアのクリミア併合はそうした米欧の圧力に対するプーチンの「危機感」の表れであった。これもプーチンの国際法を無視した暴挙だったが、厳しい経済制裁をすぐに発動させたのはアメリカであった。欧州の本格的な経済制裁の実施は8月マレーシア航空機撃墜事件後だった。

「NATO加盟」—「力の平和」の論理による安全保障体制の捩じれ

戦争に訴えたプーチンの行為は暴挙であるが、この戦争は冷戦後の欧州安全保障体制の歪みの産物である。この戦争に対する国際社会の責任が問われるとすればその点にある。欧州安全保障秩序の在り方についての議論を真剣に考えない限り、この戦争が提起した問題の真の解決はない。

その最大の問題点は、ウクライナ戦争の原因に見られるように欧州安全保障体制の建設がNATO加盟拡大をめぐる議論に集約されていったことだ。冷戦が終結してソ連が崩壊し、旧東側の集団防衛機構ワルシャワ条約機構が解体したのだから、NATOも不要だという議論は冷戦終結後にあったが、NATOは生き残った。

筆者は冷戦終結後のNATOの将来に大きな関心を持っていたので、90年代を通して毎年何度もブリュッセルのNATO本部を訪ねていた。当初NATO職員にとって最大の関心事は「失業」だった。つまりNATO消滅の不安だった。90NATO首脳会議で米国の軍事的プレゼンスの後退を主張する独仏首脳に対して、当時父Gブッシュ大統領が「誰のおかげで冷戦を乗り切ることができたのか」と声を荒げたというエピソードも伝えられた。紙幅の関係で詳細は触れないが、旧ユーゴスラヴィアと湾岸戦争がNATO軍の存続を可能にしたと一般には言われている。国連憲章に基いた武力制裁のための「本来の国連軍」の設立が不可能である以上、それに代わる危機管理部隊は冷戦後も依然として不可欠である、と考えられたからだった。

そうした中でロシアに対する脅威を払拭することができないポーランドやハンガリーなどの旧東欧諸国やロシア近隣諸国はNATOへの加盟を望んだ。しかしそれはロシアにとっては脅威となった。冷戦が終結したにもかかわらず東側の軍隊に対抗するための西側の「集団防衛機構」への加盟が冷戦終結後の「集団安全保障体制」の基本だという論法がそこにはあったからだった。それは敵対関係の中での「集団防衛=同盟体制」の形成こそが、敵対関係をつくらないための法制度的枠組みを意味する「集団安全保障体制」構築の前提であるという論理矛盾だった。どこまで本気であったかは分からないが、冷戦時代から集団安全保障体制を強調してきたのはソ連・ロシアの方であった。それは戦略核兵器で劣る弱者の論理でもあったが、軍備管理を第一とする米欧の発想はロシアにとって自分に対する敵視の議論に見えたのは確かであろう。決定的な解決策とはなったとは言えなかったが、集団安全保障体制の考え方は、「全欧州安全保障協力会議(CSCE 冷戦終結後「欧州安全保障協力機構OSCE)」となって1970年代半ばに、東西両陣営の軍事演習の国境から離れた地域での実施や事前通報など偶発戦争回避の制度を確立、冷戦終結に至る「デタント(緊張緩和)」の道筋を作った。

しかし冷戦終結後、それらの制度には限界があり、EUの共通防衛政策もなかなか実効性のある形で発展しないまま、欧州安全保障体制の要は依然として「力の平和」の論理のままだった。つまり冷戦が終結しても「対立構造」は潜在化していたのである。しかも米国はNATO東方拡大を急いだ。

このように欧州安全保障をめぐる議論が、ウクライナを含む旧東欧・ソ連諸国のNATO加盟か否かという選択に集約されていく議論そのものが歪みの源であった。冷戦後の欧州安全保障体制をめぐる議論において旧東西陣営間の相互不信感が依然として燻り続けていた原因はそこにあった。相互信頼に支えられた真の意味での安全保障体制が構築されていたわけではなかったからだ。