公益財団法人日本国際フォーラム

ウクライナを侵略したロシアと、ウクライナへの武器供与などの支援を続けるNATO(北大西洋条約機構)は、直接の戦闘状態にはなくても、敵対的な関係にあるのは当然だろう。2022年6月末にマドリッドで開催された首脳会合でNATOは新たな「戦略概念」を採択し、ロシアを「最も重大かつ直接の脅威」と位置付けた[1]

しかし、冷戦後のNATOとロシアは、NATO拡大問題などでは対立しつつも、戦略的なパートナーシップの構築を目指してきた。あるいは、もう少し実態にそくしていえば、好むと好まざるとにかかわらず、欧州大陸の平和と安定を考えるうえでNATOとしてもロシアとの関係は無視できなかった。加えて、NATO拡大へのロシアの反対に対処するうえでも、同国との関係構築は不可欠だった。

その基礎を長年提供してきたのが1997年5月に署名された「NATO・ロシア基本議定書(Founding Act)[2]」である。それは、当時進められていた初めての東方拡大を前に、ロシアの懸念を和らげるための、いわば「手打ち」のための文書だった[3]

NATOとロシアの間のパートナーシップ構築を謳い、NATO拡大に関するロシアの具体的な懸念への対応として、核兵器と通常兵力(NATO部隊)の双方に関して新規加盟国への配備の制限を表明したのが同議定書である。これがNATO・ロシア関係の基礎になった。

現実には、特に通常兵力に関する規定は、NATOとロシアとの関係において常に争点になってきた。バルト諸国やポーランドなどへのNATO部隊の配備を、ロシアは議定書違反だと主張し、NATOがそれを否定することが繰り返されてきた。新規加盟国へのNATO部隊配備に関する制約は、武力行使やその威嚇を慎むことや他国の独立や領土的一体性の尊重など、同議定書が定めた原則を遵守してはじめて成立するものだが、ロシアはそれを相次いで破ってきた。2022年2月からのロシアによるウクライナ侵略は、ロシアによるNATO・ロシア基本議定書違反の到達点のようなものである。

同議定書は無効になったのだろうか。結論を先どりすれば、無効になったようでいながら、亡霊のように登場するのがNATO・ロシア議定書の特徴である。以下では具体的な争点を検証することにしよう。

NATOによる一方的な意図表明

まずは文書全体の位置付けである。端的にいってこれは法的拘束力を有する条約ではなく、政治的な宣言にとどまる。そのうえで、新規加盟国へのNATO部隊の常駐問題については、 文言上、NATOとロシアの間の「合意」になっていない点に着目する必要がある。それを規定しているのは下記のパラグラフである。

「NATOは、現在および予見し得る安全保障環境において、集団防衛およびその他の任務を、実質的な戦闘兵力(substantial combat forces)の追加的な常駐(additional permanent stationing)ではなく、必要な相互運用性、統合、増派能力の確保により遂行することを再度表明する[4]。」

主語はあくまでもNATOである。しかも「再度表明する」となっており、ロシアとの議定書における新たなコミットメントですらない。実際 NATOは1997年3月にすでに同じ内容の意図表明を独自におこなっている[5]。上記文言は、それを確認した格好である。

さらにいえばこれは――当時の政治的文脈としてはロシアへの説明なわけだが、文言としては――、部隊の常駐を「しない」ことに力点を置いたものではなく、新たな加盟国を防衛する方法を示すものだった[6]。それでも、自国の安全保障を空間で捉えるロシアは、NATOの基地が自国の国境に近づかないことを重視し、これをNATOによる譲歩と捉えて受け入れたのだろう。

ただし、繰り返しになるが、上述文言はNATOによる一方的な意図表明である点が重要である。そのうえで具体的な論点をみていこう。3点存在する。

「現在および予見し得る安全保障環境」

第1は上述パラグラフの冒頭にある「現在および予見し得る安全保障環境」である。1997年当時の状況が「現在の」であり、その時点で予見し得る安全保障環境下においてのみ、同パラグラフの規定する制限が有効だという構造になっている。

つまり、実際の安全保障環境がそこから逸脱すれば、この意図表明自体が無効になる。2008年8月のロシア・ジョージア戦争は、NATO内で集団防衛に対する認識が高まるきっかけにはなったものの、ロシアへの対応という観点で結果として大きな転換点にはならなかった。実際、翌2009年の1月に発足した米オバマ(Barak Obama)政権はロシアとの関係の「リセット」を試みることになった。

その後、2014年のロシアによるクリミアの一方的併合、東部ドンバス地域への介入を受け、NATOの対露観が厳しくなるなかで、NATO・ロシア基本議定書の破棄は同盟内でたびたび議論されてきた。

それでも、ロシアとの後戻りのできないような対立は避けるべきだとの考え方がドイツを中心に強かった他、実際、ロシアとの全面的な対峙をするにはコストも高かったため、同盟全体としては躊躇せざるを得なかったのが実態である。少なくとも、NATOの側からロシアとの対立を深めるような行動には出たくなかったのだろう。対立のエスカレーションの責任を負いたくないということでもあった。

「実質的な戦闘兵力」

そのうえで第2に、より具体的に問題になるのが「実質的な戦闘兵力」の意味である。NATO・ロシア基本議定書の同用語については公式の定義がないものの、その後も欧州通常兵器条約(CFE)の修正に関する交渉において関連する議論が続けられ、結局、「旅団(brigade)」レベルが敷居になることがおおむね了解されている[7]。NATOの場合、旅団は3,000名から5,000名規模である。

ただしNATOは、部隊の規模にかかわらず、新規加盟国への部隊の配備を控えてきた。これは、NATO・ロシア基本議定書に沿った方針であったと同時に、前方展開が不可欠とされるような脅威認識自体が存在していなかったことによる。

NATOが新たな一歩を踏み出したのは、2016年7 月のワルシャワでの首脳会合であり、バルト諸国およびポーランドに「強化された前方プレゼンス(enhanced Forward Presence: eFP)」としてNATO部隊を配備する決定をおこなった[8]。1,500名程度の大隊(battalion)規模の部隊のローテーション配備がその中身である。それら諸国への、実質的にはじめてとなるNATO部隊の展開だった。

これは旅団規模にはいたらないために、議定書の範囲内という理解になる。なお、当初から議定書の規定は常駐の禁止ではなく、上限までの規模の部隊であれば常駐も可能だという意味である。ロシアは、eFP部隊がNATO・ロシア基本議定書に違反すると度々主張したが、NATO側は明確にそれを否定してきたという経緯がある。

ロシアによるウクライナ侵略を受けて、2022年6月のマドリッドNATO首脳会合は、対露抑止・防衛態勢の強化の一貫として、「前方防衛」への転換を打ち出し、これには、バルト諸国およびポーランドなどに配備されるNATO部隊の増強が含まれた。この具体的内容は、今後、それぞれのホスト国とeFP部隊の主導国(枠組み国)との間の個別の協議によって詰められることになる[9]。それぞれ、エストニアは英国、ラトビアはカナダ、リトアニアはドイツ、ポーランドは米国である。

そうしたなかで、旅団レベルの部隊展開が言及されるようになっているが、例えばドイツは、旅団の司令部はリトアニアに置きつつ、実際の部隊はドイツ国内にとどまり、有事の際に迅速に展開するモデルを検討していると伝えられている。米国も、ポーランドに常設の司令部を設置しつつ、部隊(旅団戦闘団:brigadier combat team)はローテーション配備という位置付けになっている。

旅団規模の場合、NATO・ロシア基本議定書で許容される上限に到達するが、それを超えない限り本来は文書に抵触しない。しかしNATO側は、今日においても議定書の文言に相当の配慮をしているようにみえる。実際、米国防省のウォランダー(Celeste Wallander)次官補は、常駐は司令部にとどまるために米国による今回の決定が議定書に抵触しない点を記者ブリーフで強調している[10]。これまでのNATOとロシアの間の議論では、実質的な戦闘兵力に該当するのは陸海空の部隊のみであり、司令部機能などは含まれないとされてきた。同次官補の発言はそれを踏まえたものだったのだろう。

「追加的な常駐」

上記とも関連して第3に問題になるのが、「常駐」の意味である。2016年にはじまったeFPが常駐ではなくローテーション配備だとされる最大かつおそらく唯一の理由は、この点での議定書への抵触の回避である。eFPにおいては、ローテーションとは呼びつつも、実際には隙間のない連続した展開であり、部隊は常に存在している。その意味で「ほとんど常駐」なのだが、NATO・ロシア議定書との整合性を確保するために、ローテーションと呼び続けるのである。

ただし上述のとおり、旅団レベルまでは常駐も認めているというのが、同議定書の本来の解釈である。つまり、大隊レベルの部隊について、常駐ではなくローテーションとしなければならない必然性は、実は存在しない。このことが示しているのは、NATO側の「自己抑制」の強さである。文言が求める以上の慎重さなのである。

ローテーション配備と常駐の実態面での最大の相違は、家族帯同の有無だといえる。兵士が家族とともに赴任するのが常駐部隊であり、その場合、家族用の住居や兵士の子女のための学校の整備なども必要になる。派遣国と受け入れ国双方でコストが増大する。

作戦面では、常駐部隊であれば、部隊として現地の地形などに通じ、ホスト国部隊との連携が強化されることの利点などが指摘される。ただし、ローテーションではあっても、特定の部隊が繰り返し派遣される場合には、同様の効果を期待できる。加えて、常駐部隊ではあっても、個々の兵士は異動するのであり、個人がローテーションするか、部隊がローテーションするかの違いだともいえる。

核兵器に関する「3つのノー」

NATO・ロシア議定書に関してもう1つの重要なNATOによる意図表明は、核兵器に関するものである。同議定書は、「NATO加盟国は、新規加盟国領土に核兵器を配備する意図も計画も理由もなく、NATOの核態勢や核政策のいかなる側面についても変更するいかなる必要性もなく、それらを将来変更するいかなる必要性も予期していないことを再度表明する」と述べている[11]

通常戦力に関する前述文言の主語がNATOであるのに対して、核兵器に関しては「NATO加盟国」になっているのは、核兵器に関する判断をする最終的主体が核兵器保有国である現実を反映したものである。また、ここでも「再度表明」となっているのは、同じ内容がすでに1996年12月のNATO外相会合で表明されているからである[12]。内容的にはこれを繰り返したに過ぎない。

この文言は、核兵器に関する「3つのノー(no intention, no plan and no reason)」と呼ばれており、ロシアの安全保障条の懸念に応える観点では重要な役割を果たした。ただし、その後、 NATOの新規加盟国に核兵器を配備する議論は、現実には存在しないため、通常戦力に関する文言ほどには争点になってこなかった。それでも、例えばフィンランドやスウェーデンのNATO加盟にあたって、この文言によって、それら諸国への核兵器配備への懸念が生じないのであれば、それなりに役割を果たし続けているのかもしれない。

なお、上記文言を厳密にみれば、通常戦力に関して言及されている「現在および予見し得る安全保障環境」という条件が、核兵器に関しては付されていない点に気付かされる。しかも、「将来変更するいかなる必要性も予期していない」とかなり強い文言を用いている。この背景には、やはり1990年代後半というNATO・ロシア基本議定書が合意された時点において、核兵器――この文脈では、米国の非戦略(戦術)核――の前方展開の価値自体が低くみられていたという事情もあったのだろう。

ロシアにとっては好都合な文書

ところで、ロシアにとってNATO・ロシア基本議定書は都合がよい文書である。新規加盟国へのNATO部隊展開に関する件がNATO側の一方的意図表明に過ぎなかったとしても、それを根拠に、「国際的コミットメント」に従うようにと求め続けることができる。その観点で、ロシア側からこの文書を破棄する合理的動機はない。ただし、武力の不行使や他国の主権や領土的一体性の尊重などの同議定書の原則を破ってきたのはロシアの側である。この点は強調しておく必要があろう。

他方で、自国の国境近くにNATO部隊(特に米軍)の基地ができることを安全保障上の脅威とするロシアの安全保障観にも変化はなさそうである。フィンランドとスウェーデンのNATO加盟問題に関して、ロシアのプーチン(Vladimir Putin)大統領は、それら諸国にNATOの基地ができない限り、直接的脅威ではないと表明している[13]。これも、NATOの基地が自らの国境に接近することの阻止を何よりも重視している証であろう[14]

また、ウクライナの国境地帯に大量の軍隊を展開して同国に圧力をかけていた最中の2021年12月にロシアが発表したNATOとの間の条約提案では、NATO戦力の配備を1997年5月27日以前の状況に戻すことを要求していた[15]。この日付は、当然のことながらNATO・ロシア基本議定書の署名日である。

ここから窺われるのは、同文書がNATO拡大を許す根拠になってしまったという、ある種の後悔の念である。ロシアにとっては、無かったことにしたい歴史である。それでも、NATO・ロシア議定書がNATOの行動を抑制しているのであれば、それはロシアにとっては実質的利益であり、たとえ自らに都合のよい部分の「つまみ食い」であったとしても、NATO側にはその遵守を求めるという構図である。

亡霊としてよみがえる基本議定書

NATO・ロシア基本議定書の文言に関する議論を振り返ったときに、あらためて浮き彫りになるのは、それがNATO側によって、文言上禁止されていないはずのものも控えるという意味で拡大解釈され、極めて慎重な運用がなされてきた実態である。

そうしたなかで、2022年2月からのロシアによるウクライナ侵略を受け、同議定書を破棄すべきだとの議論が米国の一部やポーランドを中心に噴出したのは自然なことだった。ロシアを抑止し領土を防衛するために必要なNATO部隊の前方展開が同議定書によって妨げられているとすれば、その破棄や効力停止を求めるのは当然である[16]

しかし、2022年6月末のマドリッドNATO首脳会合は、明示的な破棄を見送った。そのかわりに、新たに採択された戦略概念においても、首脳会合の結論文書においても、NATO・ロシア基本議定書に全く言及しなかった。いわば完全無視である。これが偶然や言及のし忘れであるとは考えられない。触れないことで、事実上効力を失っていることを示しつつ、明治的な破棄はしないという決定をしたのである。

この「事実上無効」と、「明確な破棄はせず」のどちらの色彩が強くなるかは、今後の状況次第だ。NATO部隊の増強を求めるバルト諸国やポーランドは、NATO・ロシア基本議定書の規定、あるいはそれをさらに慎重に解釈したものに縛られ続けることを受け入れるわけにはいかない。

しかも、そうしたNATOの姿は、ロシアにとっては、NATO部隊が自由に常駐できる国と、そうでない国という、同盟に2つのカテゴリーが存在するようにみえるかもしれない。そのため、後者の方が安全保障のレベルが低い、つまり介入できるかもしれないというロシア側の計算を招き、不安定要因になりかねないという指摘もある[17]

NATO・ロシア基本議定書の明確な破棄がない以上は、縛られていないといっても縛られているかもしれないし、実際、やはり縛られているという状況は続く可能性が高い。公式に言及されなくなればなるほど、亡霊としてよみがえるのかもしれない。