公益財団法人日本国際フォーラム

ロシアのウクライナ侵攻から約120日を超えたが、未だ終戦の兆しが見えているとは言い難い。この戦争の背景には、D.リーベンが『エコノミスト誌』に発表した、「最終的に帝国は血と屈辱で終結する」やS.コトキンが『フォーリン・アフェアーズ誌』に発表した、「冷戦は終結していない」などの論考などに見られるように、冷戦期との連続性やポスト冷戦のあり方などが指摘されており、日々の戦闘を巡る短期的な視点だけでなく、長期的な視座からロシア・ウクライナ戦争を理解する兆候が見られつつある。さらにウクライナは、ロシア侵攻に対して徹底抗戦していることから、ロシア侵攻の動機や欧米の支援だけでなく、冷戦後のウクライナの秩序観も理解する必要がある。

従来では、ウクライナ外交は欧州の一員になることを目指しながらも、欧州偏重の外交と多方向の外交で揺れ動いてきたと理解されてきた。欧州偏重の外交では、ウクライナは主権と独立を保障するために、欧州の安全保障構造に統合されるべきという方針であり、ユシチェンコ大統領やポロシェンコ大統領に代表される。他方で、多方向の外交では、欧米諸国だけでなく、ロシアとの関係も重視し、両者からの外的な圧力を緩和させることで、主権の維持や経済発展などを目指すという方針であり、クチマ大統領やヤヌコヴィチ大統領に代表される。

だが、約30年間のウクライナ外交を振り返ったとき、見過ごされてきたのは、非同盟の地位であると考えられる。このウクライナの非同盟の地位は、2014年のロシアのクリミア併合やウクライナ東部の紛争後に破棄されるが、それ以前においては、歴代大統領の外交政策の選好を問わずに採用された点で、ウクライナの秩序観の根幹をなしていた。ここでいう非同盟とは、文字通り、いかなる軍事ブロックにも属さないという意味である。その起源は、ソ連末期のウクライナ共和国における主権宣言にある。当時のソ連のウクライナ共和国は、東西対立の終焉の文脈において、欧州共通の家が建設されるという発想を持ち、東西の軍事ブロックが消滅し、最終的に欧州に統合されると見なされていた。独立後では、この非同盟の地位をもとにして、ウクライナは欧州とロシアの「架け橋」になるという発想も持っていた。これらの点で、非同盟の地位は冷戦終焉の副産物ともいえる。

2000年代に入ると、国際社会において、主要国間の対立やテロなどが拡大し、またNATOとEUの東方拡大が起こるなかで、非同盟を堅持することが地域の軍事的な緊張を低下させることに繋がると見なされるようになった。オレンジ革命後のユシチェンコ大統領は、欧州偏重の外交路線を採用していたものの、国内の支持基盤が脆弱だったこともあり、この非同盟の地位は欧州編重の外交を制約していた。

しかし、2014年にロシアがクリミアを併合し、東部ではロシア支援のもとに分離独立運動が活発化すると、この非同盟の地位が地域の緊張を緩和するどころか、むしろロシアの軍事介入を招いたと見なされ、その地位は破棄された。さらに、ウクライナはロシアを脅威認定するとともに、NATOを特別なパートナーとして位置づけるようになり、欧州偏重の外交路線が強まった。2022年2月のロシア侵攻は、この欧州偏重の外交路線をさらに強化することになった。今後ウクライナが非同盟の地位を復活させることは、ロシアの軍事介入が続く現状を鑑みると、かなり難しいようにも考えられる。

このように非同盟の地位に注目して、ウクライナ外交を長期的に振り返えると、冷戦終焉の副産物ともいえる非同盟の地位は、ウクライナの欧州偏重の路線を制約し、ロシアとの関係を維持することに繋がっていたものの、ロシアの軍事介入は、その地位をウクライナに放棄させ、両国の関係を断つことになったと言えよう。その点で、「2014年」はポスト冷戦のウクライナ・ロシア関係の大きなターニングポイントになったと考えられる。