公益財団法人日本国際フォーラム

1.「地経学」の誕生

かつてE. H. カーが「ルネサンス期から18世紀中期にかけての主な国際戦争は、すなわち貿易戦争であった」[i] と述べた様に、経済問題は古来より国家の中核的利益であり、国家間関係を左右してきた。しかし二度の世界大戦を経験した20世紀においては、国家の生存や独立を巡る安全保障問題が政策決定の場では優先されることが多くなり、経済活動は「補給部隊」の領分という認識を有する政治指導者[ii]も存在したように、国際社会の中で政治と経済の関係性とその連関性の捉え方は時代とともに変化してきた。

長きにわたり国際構造要因として世界各国の対外政策に大きな影響を及ぼしてきた冷戦が終結した1990年、戦略思想家のエドワード・ルトワックは、「商業の文法における対立の論理」という表現で「地経学」という概念を打ち出した[iii]。冷戦後の大きな流れとして、ルトワックは国家間競争のフィールドが軍事から経済へその中心を移しつつあることに着目して、地理的な環境が国家に対し政治的、軍事的に与える影響を俯瞰したものが地政学(geo-politics)であるとし、さらに国家による産業(研究開発R&Dの支援)政策や関税を巡る貿易政策等の経済的側面を付加することで、地経学を提唱している。それ以降、政治あるいは戦略的な目的の達成に、ある国家が経済的な手段を用いることを意味する際に、「地経学」という用語が使用されるようになったが、昨今の米中覇権競争の激化や、インド太平洋地域概念の進化・浸透を背景に、国家・地域安全保障と経済外交の両領域にまたがる新たな国際関係の課題を浮き彫りにする形で、地経学という概念は再び脚光を浴びるようになってきている。

米中覇権競時代の今日、両国、そして日本が位置するインド太平洋地域においては、主として経済的手段を通じて他国に影響力を行使し、自らの利益を達成する様な強制性(coerciveness)を伴う対外経済政策の分析に関心が集中している。しかし、そこでは例えば、近年「過去最悪」と称される日韓関係や中豪関係のような個別事象の散逸的・単発的な課題を扱うことが多く、地経学の「Geo-(地理性)」の要素が抜け落ちており、元来の意味からこの点をどの様に、現在のインド太平洋地域の国際関係に基づいて政策的に分析できるのかという、包括的かつ建設的な議論は殆どなされていない。こうした背景から本稿では、半ば「混乱」状態にある地経学分析の各種成果を一旦、整理し直す必要があるとの認識に立脚し、経済制裁、Economic Coercion、経済安全保障やEconomic Statecraft等、地経学と関連する類似の諸概念との比較・検証を通じて、現実に即した形で「インド太平洋地経学」を再定義し、社会科学的に説明可能な分析枠組みであると同時に、積極的に活用すべき政府の政策手段の一形態と捉えて、『米中覇権競争とインド太平洋地経学』研究会における共通認識を提示する。

2.地経学の定義と研究トレンド、問題の所在

米国の駐印大使を務め、現在は外交評議委員会(CFR)の上級研究員であるブラックウィルらは、2016年に出版した地経学研究の代表的著作とみなされている“War by Other Means: Geoeconomics and Statecraft”(未邦訳『戦争の代替手段:地経学と国政術』)にて、地経学を「経済的な手段を用いて国益を追求し、守ること。また、地政学的に望ましい結果を生み出すこと。そして、自国の地政学的な目的に資する他国の経済活動を引き出す効果の総称」と三段階で定義している[iv]。同書は地経学的戦略を、貿易政策・投資政策・経済金融制裁・サイバー・開発援助・金融財政政策・エネルギーの7つに分類し、主に中国やロシアのような非民主的国家の意思決定は、その規模とスピードという二点において米国とは決定的に異なるとした上で、巻末に米国のとるべき20の地経学的政策提言を行なっている。同著の詳細かつ包括的な記述は国際的な議論を巻き起こしたが、特に有用な功績として、国家の4大地経学的資質(endowments)が1)対外投資をコントロールする能力、2)経済規模や自国経済へのアクセス(介入度合い)や他国との経済関係における非対称性等の国内市場形態、3)商品市況やエネルギー流通網に与える影響力、そして4)国際金融システム(準備通貨や経済制裁)における位置関係、の4要素であると簡潔に分類し、分析の応用性に優れている点が挙げられる。[v]

他方、これとは異なる文脈で地経学を研究するフィンランド国際問題研究所の研究者らによる整理[vi]によれば、先述の“War by Other Means”も含めて従来の研究の多くは地経学という概念に「地理的要素」を加味していないと論じており、地政学・地経学の定義上、経済的手段や軍事的能力は地理的要因ではないため、用語上の混同を指摘している。これら地経学における「フィンランド・スクール」の分析的特徴は、地理的条件が経済的成果を構成し、特定の場所や空間を経済力行使の対象とするという解釈前提に基づいている点にある。つまり国家以外の企業や民間人等のアクターも参加する経済相互依存的なコネクティビティ(接続性)という空間的広がりを特に重視した上で、従来の研究が進める軍事的手段に代替する経済的手段の戦略的行使の在り方に着目すべきだとしている点は、今日のインド太平洋の地経学を考察する上で一考に値しよう。

3.地理的近似性と地経学

本研究会の前身である、日本国際フォーラムが進めた「『地経学』の時代の日本の経済外交」研究会(2016~2020)では、地経学を「戦略的な観点から国益を追求するにあたり、最も有効な経済的な手段を見出し、その効果を分析する」手法と広義の定義付けをしていたが[vii]、特定の地域に限定して敢行される主要国の地経学戦略を説明するには必ずしも最適とは言えなかった。確かに、国家の役割は国境で区切られた領土を排他的に支配することに由来する[viii]ため、冷戦後のグローバル経済の広がりは当初、地理的距離が意味を失うという「地理の終焉」とも称する現象が生じ、世界経済は脱領土化される時代が到来すると論じられていた[ix]。今や国際貿易の約8割がグローバル・バリュー・チェーン(GVC)上で行われている中、これまでサプライチェーンと地域枠組みのあり方はボールドウィンらが「(GVCは)国際的な生産ネットワークというよりはアジア工場、欧州工場、北米工場といったほうが適切だ」と指摘するように[x]、地理的要素(“Geo” modifier)や距離と貿易を巡る関係から説明されてきた[xi]。こうした地理的近接性(Geographical closeness)の重要性は、例えば領土係争を巡る利権問題では明らかであるが、比較地域主義研究の観点からも経済のグローバル化や経済相互依存との関係について、国家の利害は地理的近接性のある国々の間で起きやすく、その利害を一致させる必要性から統合や連携が生じるとの主張がなされている[xii]

しかし、自由主義経済諸国によるリベラルな国際秩序、すなわち、国際社会における「ルールに基づく国際秩序」の確立と共に、市場経済が世界を覆うようになると、自由民主主義の下で体制を越えて人々が企業やNPO等の多様なネットワークを介して結びつくとする「新しい中世」論の予想に反し、現実には、自由民主主義諸国と、戦略的に対抗関係にある中露などの権威主義国家との間にも経済交流が形成されるようになった。つまり、国家の領域的支配は意味を失うどころか、両陣営の経済相互依存関係により、「国家間の競争関係において軍事的安全保障に並ぶ、一つの重要な新しい次元が加わった」と理解されよう[xiii]

その代表例は、習近平国家主席下の中国が広域経済圏「一帯一路(BRI)」を通じて国際的なサプライチェーンを握る接続性の構築を目指し、基幹産業へのインフラ投資による勢力圏の拡大を図ろうとしている戦略に見出せる。その最初のプロジェクトの一つが、中国内陸部の西安とドイツのデュイスブルクを結ぶ鉄道網の建設であった。一方、日米豪印といったアジア域内の主要経済各国は、アジア太平洋からインド洋を経て中東・アフリカに至るインド太平洋地域を法の支配に基づく自由で開かれた海洋にして、国際社会の安定と繁栄を図ろうとする「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」の構築に取り組んでいるが、同地域の途上国の多くはすでに中国の多額の援助を受けており、米中が進める両経済イニシアチブが交錯し、その関係が複雑化する大きな要因となっている。

4.制度的近似性と地経学

現下の米中覇権競争は、直接的な軍事衝突や貿易摩擦ではなく地域覇権を形成するための新たな支配プロセスとしての競争であり、相互排他的で、自らの勢力圏を作るために地域協力・統合へ強く関与するなどして国家間協力を推進してきている。特に、協力案件や統治ルールの設定は、米中それぞれの意向が強く反映される等、その影響力の源泉と行使の方法、その帰結については、学術的のみならず政策研究としても重要なイシューとなっている。現在、バイデン大統領が就任後から「中国による国際経済システムの基盤を損なう不公正な経済慣行や威圧的行動に対抗する必要がある」と繰り返し主張するように[xiv]、日米豪などが対中交渉力を高める狙いから、重要戦略分野で国際協調路線の方向へシフトしており、地理的近接性に基づく生産ネットワークに加え、法や技術体系などの制度的近似性(Institutional proximity)によって結ばれたネットワークへと、国家間の紐帯の性質が移り変わっている。

制度的近似性とは、制度的に類似した国家群は互いに経済的な相互作用を行う傾向が高く、最終的には同等の成長レベルを達成し、国同士のスピルオーバーも大きくなるとの特徴を意味し、実際に、空間的な相互作用やスピルオーバーは国が地理的に近いことに加えて、本質的には国の制度的特性の共有によって促進されることが例証されている[xv]。これまでも国際制度の「質」が貿易やサプライチェーンの参加にどのような影響を及ぼすかという研究で、法や政策運営の実効性、政治的腐敗の程度等の要素が注目されていたが、米中覇権競争時代においては、経済分野でも人権や環境といった普遍的な「共通価値」への配慮が現実的なビジネスへの圧力としてより強く求められており[xvi]、新たな距離や壁を生じさせる要因にもなっている。こうした文脈では、同じ経済ルールを形成する同志国間で、制度的近似性が経済圏形成の求心力・促進要因となっていると捉えることが可能であり、具体的には、法整備支援、ソースコード開示、知的財産権保護制度、政府調達基準、許認可制度等の事例研究が挙げられるだろう。

2022年2月に発表されたバイデン政権の『インド太平洋戦略』は、インド太平洋地域への米国の関与強化を象徴しており、2021年10月以降、度々言及されている「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」も議論の本格化が待たれる。この中でバイデン政権は、法や技術体系を巡る経済圏と同質国家の関連性や、サプライチェーン編成の際の決定要因として、これまで以上に「中国外し」を意識しながら、地理性に経済ルールを追加し、規制面での制度変更を行ってきている。これに先んじた2020年7月、日本は閣議決定された「骨太方針2020」において、リスクに対応できる強靭な経済社会構造の構築に向けて、経済安全保障の観点から、サプライチェーンの多元化や価値観を共有する国々との物資融通のためのルール作りを進めるとの方向性を打ち出した。こうした有志国の連携による「集団経済安全保障」は抑圧的な経済の武器化への有効な対抗策または抑止力としても期待されており、特に米中争覇の時代においては、第一に、インド太平洋という新しい地域概念の出現、第二に、冷戦後の国際社会における「ルールに基づいた国際秩序」への挑戦及びそれに伴う不確実性の時代への突入という構造的要因、第三に、米中両国による超大国同士の覇権競争という大局的な国際政治の潮流を、それぞれを漏らさず加味しながら、現在の国際情勢に合う形で地経学の定義を発展させ、分析していくが益々重要になってきている。

5.新しい地経学の分類

以上のことを踏まえ、協力と競争という国家の利害を一致させる必要性から地理的近接性と制度的近似性、もしくは両特性を中核とした経済分野の統合や国家間連携が生じており、他国に自ら望む行動を強いる動きを意味する地経学アクションへの対抗措置としての形成過程やその手段の実証分析が可能であるとの分析仮説が成り立つ。ただし、価値観を共有しない国同士の連携は破綻する可能性が高い傾向があるため、地理性と価値観を共有する国家群は必ずしも一致しない点には留意を要する。そこで本稿以降では具体的に、地経学と関連する諸概念の定義や対象とする射程を視野に入れながら、1)どの国が、2)何の目的で、3)どの国、どの制度・体制に対して、4)いかなる経済手段をとって、5)どの様な行動をとったか、という形式で、象徴的な事例とともに地経学の分類を提示し(下図)、インド太平洋地経学においては、経済重視から価値観重視への発想の転換で、地理的近接性だけでなく制度的近似性も分析枠組みとして考慮していく必要があると結論づける。

(資料)筆者作成.