公益財団法人日本国際フォーラム

はじめに

中国の対日外交を考える上で、歴史問題が重要な要素であることに異論はないだろう。江藤名保子氏による一連の研究は、中国の国内政治と対日外交の連関のなかに「歴史認識問題」を位置づけ、改革開放期におけるその構造と展開を見事に論じた[2]

本稿は、公益財団法人日本国際フォーラムが実施する研究会「中国の対外行動分析枠組みの構築」(主査:加茂具樹慶應義塾大学教授)において、筆者が研究を進める習近平政権の対日外交における歴史問題の位置づけ、ならびにその構造と展開に関する事例研究の素案をまとめたものである。

現在、筆者が特に取り組んでいるのは、第1期習近平政権期の対日外交における歴史問題の位置づけに関する調査・研究である。もちろん、研究会が主たる分析の対象とする中国の国内政治過程の解明に重点を置き、これを基礎としつつ、中国の対外行動、すなわち対日外交の分析枠組みの構築に寄与することを目的とする。

とはいえ、もとより筆者が専門とする研究対象は「国交なき時代」(194972)の中国の対日外交であり、中国の現政権の外交行動を分析するには、十分な知見を有しているとは言い難い[3]。だが、いわゆる歴史研究の視点からこの問題に取り組んだ場合、どのような考察が可能か、無謀ながらも挑戦をしてみたいと考えている。

なお、本研究では、「南京事件」に関連する現代的事象に照準を合わせて分析を行う[4]。すなわち、「南京大屠殺死難者国家公祭日(以下、国家公祭日)」(1213日)の制定に関する政治過程(2014227日に全人代にて承認)を跡づけ、さらにその制定が中国の国内政治上ならびに対日外交上において有する意義について初歩的な考察を加える。

また、本事例研究の最終的な着地点として、「南京事件」追悼の公祭日制定とほぼ平行して実現した「南京事件」の世界記憶遺産への申請・決定(20151010日)にもあわせて触れることで、より立体的な考察を加えたいと考えている。

Ⅰ 第1期習近平政権期の日中関係―その構造的理解

  第1期習近平政権期(201211月から201710月)の日中関係は、20129月の日本政府による尖閣国有化を契機に戦後史上最悪とも言われる状態から始まった。

中華人民共和国成立以来、中国にとって対日外交は対米外交の従属変数であったとされる[5]。この点は現在の習近平政権においても大きく変わることがないと筆者は考えている。このような認識に基づき、第1期習近平政権期の対日外交にかかわる思想・理念ならびに政策・方針、戦略の大枠を捉えると、以下のように把握することができよう。

すなわち、習近平の領導の基本思想・理念として、「中華民族の偉大なる復興」という「中国の夢」の実現があり、そして、これを基礎とする外交の基本政策・方針として「大国外交」ならびに「新型大国関係」の提起があり、さらにこのような思想・理念ならびに外交の基本政策・方針を背景としつつ、日本政府による尖閣国有化による「戦後史上最悪」ともいわれる日中関係への対峙、すなわち第1期習近平政権期の対日外交が展開されていったと考えられる[6]

興味深いのは、この「戦後史上最悪」と評された状況が、いわゆる第二次世界大戦後の日華和平条約の締結(19524月)によって断絶された戦後初期の日中関係の姿と重なることである。当時、誕生したばかりの中華人民共和国は朝鮮戦争の真っただ中にあり、反米帝国主義を掲げ、国際社会における生存空間の拡大を求め、日米離間ならびに日本中立化を目指して、「以民促官」の対日外交を展開した。つまり、中国自身が「アメリカ帝国主義の走狗」と呼んだ日本との関係改善を目指し、経済・文化・「人道問題」解決などの領域で積極的な対日和平攻勢を展開したのである 。

結果的に中国の国内政治の急進化を背景として、対日外交も強硬化したことにより、1950年代半ばの「積み上げ」方式の「日中友好」期は19585月に途絶えたが、その関係改善の政治過程は、現在の日中関係を考察するうえでも数多くの示唆を与えてくれる[7]。少なからず「我田引水」の感もあるが、このような理解を前提として第1期習近平政権の対日外交の展開を跡づけた場合、このような「古めかしい」理解の枠組みも決して無意味でないのではと考える。

端的に言えば、第1期習近平政権の対日外交は、習近平版の対日「以民促官」戦略に基づき展開されたと評価できよう[8]201211月に発足した習近平政権は、元A級戦犯であり、「中国敵視」を貫いた岸信介の孫である安倍晋三首相の「右傾化」への批判を当初から強めつつ、尖閣周辺の日本の領海に公船を頻繁に侵入させ、領土問題の既成事実化を図った。他方、安倍首相は、領土問題自体が存在しないとの姿勢を崩さず、「対話のドアは常に開いている」と繰り返し、中国側の出方を粘り強くうかがった。

膠着状態が続くなか、習近平政権が繰り出したのが、「以民促官」戦略に基づく積極的な経済交流の推進だった。その背景には自国経済の減速に対する危機感もあったことも想定できる。20139月、常振明中国中信集団(CITIC)会長率いる中国大手企業トップ10社の代表団の訪日が実現したが、これがその幕開けであった。一行は経団連の米倉弘昌会長や菅義偉官房長官らに中国経済界の日本重視の姿勢を強烈にアピールした。

また、翌145月には、青島のAPEC貿易相会合で茂木敏充経産相と高虎城商務相が会談し、尖閣国有化後初となる中国本土での日中閣僚の公式会談が実現し、この流れが加速した。同月下旬、米倉会長が、李源潮国家副主席や唐家璇前国務委員(外交担当)と面会し、「政経分離」で経済交流を進めるよう提案した。9月には経済同友会や日中経済協会の200名超の大規模代表団が相次いで中国を訪れた。

だが、決定的だったのは、同月30日の所信表明演説で安倍首相自身が「戦略的互恵関係」という言葉を用い、首脳会談実現に向けて明確なメッセージを送ったことだった。周知のように、「戦略的互恵関係」とは、第1次安倍政権が提起した日中関係の基本理念で、小泉純一郎首相の度重なる靖国参拝で「政冷経熱」に陥っていた両国関係を打開するため、就任後、最初の外遊先に中国を選んだ安倍首相が胡錦濤総書記に語ったものだった。安倍首相の演説には、11月の北京でのAPEC首脳会議で首脳会談を実現したいとの強い想いが込められていた。

ただ、ようやく実現した両国の初顔合わせは、国内向けの「配慮」から、「笑顔なき握手」となった。だが、これ以降、各領域での日中協力が再開され、さらに20154月のバンドン会議60周年記念の首脳会議では、「笑顔での握手」が実現、財務・経済や安全保障、省エネ・環境の分野で実務協議が動き始めた。

また、記憶に新しい現象としては、この時期には日本を訪れる中国人観光客の激増があった。同年1月、日本政府はビザの発給要件の緩和に踏み切り、この年2月の春節にはいわゆる「爆買い」現象が巻き起こった。人民元高の影響もあったが、習近平政権の「意向」もあり、中国の多くの人々が「現実の日本」に触れる機会を獲得し、中国国内においても日中接近の前提が整えられていった。

2015年後半からしばらくの期間、日中関係改善の歩みは緩慢となったが、20175月、自民党の二階俊博幹事長が一帯一路国際協力サミットフォーラムに参加し、「安倍親書」を携えて習近平総書記との会見し、「一帯一路」構想への協力や日中シャトル外交の実現などについて前向きな姿勢を示したことで、日中関係改善は一気に加速したといえる。

自民党の有力者であった二階幹事長への接近という手法は、かつて毛沢東や周恩来が行った自民党実力者であった高碕達之助や松村謙三への接近を髣髴とさせる[9]。このような点からも、第1期習近平政権の対日外交を建国初期中国の対日外交に重ねて考察することの意義を筆者は感じるのである。

新型コロナウィルス感染拡大の影響もあり、習近平総書記の「国賓」としての訪日はいまだ実現していないが、「アメリカ第一」を掲げたトランプ政権の発足を背景として、習近平政権の対日「以民促官」戦略による日米離間は、一定程度の成果を上げたと評価できよう。

Ⅱ 「国家公祭日」制定への道

前節で確認したように、第1期習近平政権は巧みな対日「以民促官」戦略を展開し、日中関係を改善の基調に導くことに成功した。長期的な視点からも、「大国」となった中国が「超大国」であるアメリカを「主要敵」として位置づける以上、日本との関係はかつてなく中国にとって重要な存在になっていると想定される。

歴史的に見た場合、中国が対日接近を試みる際、常にいわゆる「歴史認識問題」は「後景化」する傾向があった。例えば、1950年代の対日「以民促官」戦略展開期には、中国は対日戦犯裁判を実施したが、いわゆる「寛大処理」を行い、日本への秋波を送った。また、1960年代の「二つの中間地帯論」に基づく「半官半民」交流推進期には、対日賠償請求の放棄を内部的に政策決定したともいわれる[10]

1970年代の日中国交正常化期には、中国国内の反対を抑え込みつつ、日本に対して「賠償請求の放棄」を実際に行った。1980年代の「蜜月期」には、教科書問題や中曽根康弘首相の靖国公式参拝などで歴史問題が顕在化したが、これも「対話」を通じて鎮静化を図っている。

このような事実を踏まえれば、対日関係の改善を目指して「以民促官」戦略を展開していた第1期習近平政権が、日中関係の「鬼門」でもある歴史問題をどのように位置づけ、どのように扱ったのかという問題は、その対日外交政策を評価するうえで重要な問題であるといえよう。

では、この時期に話題となった歴史問題にはどのようなものがあったのか。細かい事象まで網羅できないが、目立つものとしては、全人代における国家公祭日ならびに抗日戦争勝利記念日の制定決定(20142月)や中国人労働者の強制連行関係集団訴訟の提起と人民法院(北京市第一中級)による受理決定(同年3月)[11]、「南京事件」世界記憶遺産登録申請(同年6月)・登録決定(同年10月)、抗戦勝利70周年をめぐる「侵華」関連記念・追悼施設の大幅拡充・修復事業[12]や大型歴史資料集の編纂・刊行事業の推進[13]などがあった[14]

本稿では、筆者が参加する研究会「中国の対外行動分析枠組みの構築」で最終的に解明を目指す国家公祭日の制定をめぐる習近平政権の政治的意図ならびにその政治過程を考察する前提として、これに関連する事実関係の概要を整理しておきたい。

国家公祭日(日本では「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」などと呼ばれる)の制定は、2014227日に開催された第12期全国人民代表大会常務委員会第7回会議で決定された。翌年は抗日戦争勝利70周年にあたり、習近平政権としては、初めて迎える重要な歴史問題に関するイベントであったといえる。これに先駆けて「国家公祭日」は制定された。

とはいえ、国家公祭日制定の動きは、習近平政権成立後に始まったものではない。「南京事件」追悼の本格化の始点をどこの置くべきかについて、あらためて慎重な議論が必要だが、日本との関係で「南京事件」がクローズアップされ、なおかつ中国国内で際立った動きが始まるのは、1980年代半ばであった[15]

もっとも、国家公祭日の制定に照準を合わせた場合、論じるべきその始点は、いわゆる靖国参拝が繰り返された小泉純一郎政権期の「政冷経熱」期に顕在化した「南京事件」の国家公祭化の動きであろう。20014月の小泉政権成立以降、小泉首相は「終戦記念日」を巧みに避けながらも靖国参拝を繰り返し、中国の官民の感情を刺激し続けた。20047月には重慶開催のサッカー・アジアカップで反日騒動が発生し、さらに翌年3月には日本の国連安保理常任理事国入り反対署名運動が中国で起こると、日中間の緊張状態は頂点に達した。

このような情勢を背景に、江蘇省の人民代表大会常務委員会副主任であり、全国人民政治協商会議常務委員会委員であった趙龍が動いた。200539日、趙は第11期全国人民政治協商会議第3回会議に政協委員49名との連名で「関于将侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館昇格為国家紀念館并申報世界文化遺産的提案」を提出し、南京にある侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(以下、南京大虐殺記念館)の国家級施設への昇格ならびにその「世界文化遺産」への申請を建議したのである[16]

その申請の論理は、「南京事件」が「第二次世界大戦において発生した人類の三大惨事のひとつ」であり、アウシュヴィッツ・ビルケナウ記念館と広島平和記念資料館が国家級の施設となっており、いずれも世界文化遺産であることが強調され、「抗日戦争及び世界反ファシズム戦争勝利60周年」や「愛国主義教育基地としての役割のさらなる発揮」「世界平和と発展の共同推進」などが理由として挙げられた[17]

結果的にこの提案が成就することはなかったが、「南京事件」国家公祭化の種は確実に蒔かれた。その後、胡錦濤政権後半期、一時、日中関係は「戦略的互恵関係」を基礎として、安定的に推移したが、20109月、いわゆる「中国漁船衝突事件」が発生するなかで尖閣をめぐる日中間の領土問題が注目を集め、さらに20122月、河村隆之(たかし)名古屋市長が「南京大虐殺否定」発言をすると、再び現地南京の動きは活発化した。

201239日、趙龍は第11期全国政協第5回会議に「関于将侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館上昇為国家級紀念館并申報世界警示性文化遺産的提案」を提出し、これらを実現することで「悪意を以て南京大虐殺を否定する言論に対する有力な反駁」を行うべきだと強く訴えた[18]

2005年と2012年の2度にわたって趙龍は全国政協に「提案」を提出したが、いずれも内容的には、南京大虐殺記念館の国家級施設への昇格ならびにそのユネスコ世界文化遺産への申請が明記されているのみで、「南京事件」追悼の国家公祭化には触れていない。だが、20053月の第11期全国政協第3回会議で趙龍が「毎年1213日を国家公祭日に定めるべきだとの提案を最初に提出した」とされており[19]、「提案」の報告に際して、これにかかわる発言があったことがうかがえる。

趙龍が再び「提案」を行った20123月には、国家公祭日設立に向けてさらなる大きな動きがあった。ほぼ同時期に開かれていた第11期全国人民代表大会第5回会議(310日)でも、江蘇省代表の鄒建平委員(南京芸術学院院長・中国国民党革命委員会江蘇省副主任委員)が、河村名古屋市長の発言を挙げ、「中日関係の健全な発展に極めて大きな影響を与え、中国人民の感情を傷つけた」と批判しつつ、「南京事件」追悼のための国家公祭日の制定を強く「建議」したのである[20]

そこでは、「南京事件」が「第二次大戦における三大惨事のひとつ」であり、「中華民族の災難」であることが説明され、さらに国家公祭日の制定ならびに公祭の挙行によって「中国人民の戦争反対・平和維持の立場を表明する」必要があると訴えられた。そして、「今年1213日より最初の「国家公祭日」として開催し、全人大あるいは全国政協の副職領導の追悼式典への出席を要請する」ことが「建議」された。

このような動きがあるなか、同年9月には日本政府による「尖閣国有化」が行われ、日中関係は戦後史上最悪とも言われる状況に陥った。すでに触れたように、この年末には日中両国でそれぞれ新たな政権が発足し、さまざまが外交上の駆け引きが始まったのである。

Ⅲ 「国家公祭日」制定の法的手続き

では、最終的に国家公祭日の制定はどのような過程を経て実現したのか。2014225日、国家公祭日制定法案である「全国人民代表大会常務委員会関于設立南京大屠殺死難者国家公祭日的決定(草案)」が第12期全人代常務委員会第7回会議に提出された。これに際して、全人代常務委法制工作委員会主任の李適時が立法趣旨や「決定(草案)」の起草過程について説明を加えている[21]。立法趣旨については今後の筆者の研究のなかでより詳細な考察を行っていくが、ここでは、まず「決定(草案)」の起草過程を確認しておきたい。

李適時の説明によれば、その起草はおおよそつぎのように進められた。

委員長の委託を受け、全人代常務委法制工作委員会が決定(草稿)の起草の責任を負った。法制工作委員会は、ここ数年来の全人代代表や全国政協委員、社会の各界人士による南京虐殺死難者国家公祭日の設立に関する意見・建議、ならびに関係する地方における南京大虐殺死難者追悼活動の状況などを研究し、南京大虐殺の史料や文献を調査・閲覧し、連合国やポーランド・アメリカ・イスラエルなど30余りの国家がナチスによる大虐殺に関する記念日を制定した際の規定と方法について比較を行った。そして、座談会を開催することで一部の全人代代表や中央の関係部門、関係する専門家の意見をそれぞれ聴取し、同時に侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館に赴き、実地での調査・研究を行った。各方面の意見の取りまとめと研究を経て、法制工作委員会は決定(草案征求意見稿)を起草し、中央の関係部門や関係省(市)ならびに関係する専門家にそれぞれ意見を求めた。法制工作委員会はこれらの基礎を踏まえて、草稿征求意見稿にさらなる修正を加え、同時に関係方面とともに繰り返しの研究を行い、決定(草案)を確立した[22]

一般的に中国の立法過程においては、形式主義的ながらも、担当部門が法律の草案の草案である「草案征求意見稿」を作成し、これをたたき台にして、中央の関係部門や関係省(市)、ならびに関係する専門家に意見を求めたうえで最終的な「決定(草稿)」が完成することが多いが[23]、本「決定」についても同様の手続きがとられたものと思われる。

26日午前には「分組審議」が行われ、参加した委員から修正意見が出された。「決定(草案)」は全人代常務委法律委員会で「逐条研究」され、若干の語句に修正が加えられた。もっとも、「践踏文明(文明を踏みつけ)」「泯滅良知(良知を滅ぼす)」という形容では、日本の侵略者の「残暴罪行」を充分に反映することができないため、「人類文明史上、滅絶人性の法西斯暴行」という表現に改められた。加えて、外国人の殉難者を含めるという観点から「死難同胞」を「死難者」に変更するなどの修正が施されたが、いずれもあくまでも字句修正の範囲にとどまった。

27日、「決定」は全人代常務委を通過した。筆者による訳出だが、「決定」に込められた意図を読みとるためにも、その全文を挙げておきたい。

1937年1213日、中国を侵略した日本軍は、中国の南京で我々の同胞に対して40日あまりの長きにわたってこの世のものとは思われぬほどの悲惨な大虐殺を始め、国内外を震撼させる南京大虐殺を行い、30万余りの人々を無残にも殺戮した。これは人類の文明史上において、正常なる人間性を失ったファシズム的暴行である。これは国際法に公然と違反する残虐行為であり、鉄の証は山の如くあり、早くから歴史は評価を下し、法は判決を定めている。南京大虐殺の死難者や日本帝国主義が中国を侵略した戦争の期間において日本の侵略者の殺戮にあった死難者たちを追悼するため、日本の侵略者の戦争罪行を暴露するため、侵略戦争が中国人民と世界の人民に与えた重大な災害を刻むため、中国人民の侵略戦争に対する反対、ならびに人類の尊厳の擁護や世界平和を維持するという確たる立場を表明するため、第12期全人代常務委員会第7回会議はつぎのように決定した。すなわち、1213日を南京大屠殺死難者国家公祭日と定める。毎年、1213日に国家は公祭活動を開催し、南京大虐殺の死難者や日本帝国主義が中国を侵略した戦争の期間において日本の侵略者の殺戮に遭遇したすべての死難者を追悼する[24]

このような過程を経て、南京陥落の日は「南京事件」追悼のための国家公祭日として法律によって権威を与えられることとなった。

おわりに

冒頭で述べたように、本稿は研究途上の中間報告的な性質をもつものである。最終的な着地点としては、習近平政権の対日外交と歴史問題の関係、すなわち中国の対日外交政策の決定過程における歴史問題を国内の政治過程との関連において位置づけ、その構造を考察することを目的とする。本稿を執筆している現段階においても、このような考察のために重要と思われる諸要因について、多くの着想を得るに至っている。

なお、最終的な研究成果をまとめるにあたり、その前提として、国家公祭日制定後の国家公祭行事の概要について確認しておきたい。

これまで国家公祭として開催された「南京事件」追悼儀式は7回に及ぶが、特に「南京事件」70周年となる20171214日の「習近平国家主席、参加すれども演説せず」については、研究者によるさまざまな分析がなされた[25]。もとより、いわゆる「精日」問題への対応や「南京市国家公祭保障条例」の施行など、「南京事件」追悼の国家公祭化をめぐっては、その後も検討すべき多くの事象が発生している。

国家公祭日制定にかかわる「前史」「法的手続き」ならびに「公祭実施概要」について整理をしたうえで、最後に現在の筆者の考察の照準を示しておきたい。

まず習近平政権における「歴史教育」の強化と「南京事件」追悼の国家公祭化との関連である。習近平政権が「党の領導」を強化するため、「四史」教育の強化を進めていることは周知だが、その文脈において、本研究が扱う一連の事象がいかなる意味を有しているのかという問題である。

いうまでもなく、中共による「党の領導」の正統性は、抗日戦争勝利における中共の貢献が根拠のひとつとされてきた。第1期習近平政権の対日改善という外交目標のもと、「党の領導」の強化と抗日戦争における最大の屈辱である「南京陥落(「南京事件」)」という歴史の「政治的定義」をいかに行うのか。そこに込められた習近平政権の思惑を読み解くことは決して容易でないが、極めて重要な課題である。

つぎに国家公祭日制定の実質的な主体(領導機構)の解明である。本稿では、考察の導入として、全人代常務委の法制委員会や法律委員会が関与した表面的な過程は確認したが、実質的には中央宣伝部や中央組織部を主管部門とする事実上の「決定(草案)」の起草責任部門が存在していることが想定され、習近平政権による「歴史問題」に関する体系的な「統制」の意図と実態を理解するためには、その把握が不可欠である。史料的な制約は多いが、重要な課題である。

また、本稿が扱う一連の事象における中国人民の「民意」と中共との関係も考察の要点である。1980年代半ばの歴史教科書問題をめぐる歴史問題の紛糾を起点として、「南京事件」をめぐる対日批判の民意は常にくすぶり続けてきた。なぜ「南京事件」追悼の日が国家公祭日となったのか。筆者は、江蘇省や南京市の「人民」による1980年代半ば以降の「追悼」の積み上げの「実績」も重要な意味を有したのではないかと想定している。

いずれにせよ、「屈辱」「勝利」「追悼」「党の領導」「国際平和秩序の維持者としての正統性の主張」などの諸要素について、いわゆる「四史」[26]の「語り」と齟齬が生じないように注意深く考慮しつつ、本研究が対象とする「中国の対日外交と歴史問題」をめぐる諸々の「決策(政策決定)」も行われていったと考えられる。国家公祭日や抗日戦争勝利記念日の制定とほぼ同時期に進められた「南京事件」関連資料の「世界記憶遺産」への登録に関する一連の動きも、このような視点からあわせて考えることもできよう。

筆者の暫定的な結論を先取りすれば、いわゆる「新型大国関係」下における「戦略的互恵関係」に基づく習近平政権の対日接近の必要に基づき、まさに国内における歴史問題に関する諸言説を構造的に「統制」することを目的として、「南京事件」追悼の国家公祭化が実現したと考える。もっとも、日本人研究者が論じる課題としては極めて慎重を要するものでもあるため、その結論と論証は今後のさらなる研究の進展を待たれたい[27]