はじめに
南シナ海で東南アジア諸国と島嶼の領有権や海洋権益をめぐって争っている中国は、2012年にフィリピンからスカボロー礁(黄岩島)の支配を奪う行動に出た。これは、1995年に中国がミスチーフ礁(美済礁)の支配をフィリピンから奪って以来、17年ぶりの中国による島嶼への支配拡大であった。本小論では、スカボロー礁への支配拡大をめぐる中国の政策過程を、「政策過程のサイクル」 [1]に当てはめながら分析を試みる。
1「政策課題の設定」(agenda-setting)4月10日
中国にとってスカボロー礁をめぐる政策課題の設定は、スカボロー礁をめぐる中国とフィリピンの公船による対峙の発生という、危機管理の問題として中国指導部に突然もたらされたものであった。対峙の発端は4月10日、フィリピン海軍のフリゲートがスカボロー礁に停泊していた中国漁船を違法操業の疑いで検挙しようとしたところ、現場に現れた中国の海上法執行機関の公船がこれを妨害したことであった。その後フリゲートに代わったフィリピン沿岸警備隊の公船と、中国側の公船(海監および漁政)によるにらみ合いが続いたのである。
2「政策の形成」(policy formulation)4月10日〜5月初旬
スカボロー礁をめぐる危機対応に関する政策形成において、外部から観察可能なアクターとしては外交部、海上法執行機関、人民解放軍をあげることができる。公船による対峙という突発事態に直面して、それぞれが自らの政策指向や権限、利害などに基づき、当初は独自に政策を展開していった。
外交部は、話し合いによる問題の穏便な解決を目指したものと思われる。4月11日の記者会見で外交部の劉為民報道官は、スカボロー礁に対する中国の主権を主張しつつも、「我々はフィリピン側が中比友好と南シナ海の平和と安定の大局から出発し、新たなもめ事を作り出さず、中国側と共に努力することで、両国関係の健康で安定した発展のために良好な条件を創造するよう促している」と指摘した [2]。4月16日には劉報道官が、「当面の黄岩島の情勢はすでにある程度緩和しており、中比双方はこの問題について外交交渉をさらに一歩進めている」と発言した [3]。さらに4月18日には、駐中国フィリピン臨時大使と会見した外交部の傅瑩副部長が、「双方の話し合いを経て、情勢は初歩的に緩和に至った」と指摘したのである [4]。
他方で海上法執行機関は、スカボロー礁をめぐる中国の主権と権益を守るために、徹底してフィリピンに対抗することを目指したものと思われる。中国漁船を保護するために最初に現場海域に現れたのは海監の公船2隻であったが、その2日後の4月12日に漁政の公船2隻も現場海域に到着し、2つの海上法執行機関の公船が共同でフィリピン公船と対峙する体制が組まれた。海監と漁政はともに、2008年ごろから南シナ海でフィリピン、ベトナム、マレーシアなどの船や調査船に対して物理的な妨害行為を行うなど、中国による海洋での権利主張活動において中心的な役割を果たしてきた。スカボロー礁をめぐる対応も、その延長線上に置かれていたといえるだろう。
人民解放軍は、海上法執行機関を支援する姿勢を明確にした。4月26日に行われた記者会見で国防部の耿雁生報道官は、「中国軍は国家の領土主権の保衛と海洋権益擁護の任務を担っており、国家の統一した配置の下で自らの使命を履行することを堅持している。その職責と任務に基づき、中国軍は漁政や海監などの部門と密接に連携し、共同で国家の海洋権益を擁護する」と発言したのである [5]。
3「政策の決定」(decision-making)5月初旬
公船による対立状況が長期化し、国際的な関心も高まる事態に至ると、中国指導部はこの問題に対する政策の決定を迫られた。スカボロー礁問題への対処をめぐって、話し合いによる穏便な解決を目指す外交部の政策と、力に依拠した支配の拡大を目指す海上法執行機関と人民解放軍の政策が提示されたが、中国指導部は最終的に後者を選択した [6]。
外交部の劉為民報道官は5月5日の記者会見で、問題の話し合いによる解決を目指す姿勢を再確認していた [7]。しかしその二日後の5月7日には、傅瑩副部長がフィリピンの臨時大使を呼び出し、フィリピン側がスカボロー礁から公船を撤退させず、事態の拡大を図っていると非難し、情勢は楽観できないと言及した。その上で傅瑩副部長は、スカボロー礁から公船を撤退させ、中国漁船の操業を妨害せず、中国の公船による法執行を妨げないようフィリピン側に要求し、「中国側は、フィリピン側による事態の拡大に対応する各種の準備を整えた」と言明したのである [8]。
この外交部による方針転換の表明から見ると、中国指導部による政策の決定は5月の初めに行われたものと推察できよう。この決定がどのような場で行われたかについての公開情報は存在しないが、スカボロー礁問題がフィリピンとの二国間関係のみならず、米国との関係にも影響を及ぼす大きな問題であることや、決定した政策を実行するうえで全政府的な対応が必要とされることなどから、外交と安全保障に関するハイレベルの議事協調機構である中央外事工作領導小組で統一した方針が作成され、党中央政治局ないしは同常務委員会で最終決定されたものと思われる。
4「政策の実施」(policy implementation)5月7日〜6月5日
フィリピンに対する圧力を強化し、中国によるスカボロー礁の支配拡大を目指す政策の下で、中国は様々な手段を動員してその実施を図った。外交部はフィリピン側との協議を続ける一方で、フィリピンに強い圧力を加える言辞を展開した。例えば外交担当の国務委員で中央外事工作領導小組弁公室主任でもある戴秉国は、5月15日に、中国の謙虚で慎重な姿勢は他国による侮りを受け入れるものではなく、「フィリピンのような小国が大国を侮ることはできない」と強調した [9]。
人民解放軍は、武力による問題の解決を図る可能性を示唆するなど、フィリピンに対する圧力を高めた。例えば『解放軍報』の論評は、中国がスカボロー問題で耐え忍んでいるのは軟弱だからではなく、自制しているからであり、「黄岩島の主権を奪う試みに対しては、中国政府は容認せず、中国人民は容認せず、中国軍はなおさら容認しない」と警告した [10]。国務委員兼国防部長の梁光烈は訪米した際に、米側に対して「中国の核心的利益」を尊重するよう要求するとともに、南シナ海問題に関する「原則的な立場」を表明した [11]。また、フィリピンのガズミン国防大臣と会見した梁光烈は、事態をさらに複雑化、拡大化させる行動をとらないよう要求した [12]。
また中国政府は、フィリピンに対する経済的な圧力も強化した。国家質量監督検験検疫総局は、フィリピンから輸入されたバナナから多種類の有害生物が検出されたとして検疫を強化し、フィリピンから中国へのバナナの輸出が事実上禁止された [13]。さらに国家旅游局は、中国人によるフィリピンへの観光ツアーをすべて禁止し [14]、フィリピンの観光産業に制裁を加えることで、フィリピン政府へのけん制を強めた。
5「政策の評価」(policy evaluation)6月5日
中国外交部の劉為民報道官は6月5日、スカボロー礁からフィリピンの公船が撤退し、中国の漁船が妨害されることなく操業していることを公表するとともに、「中国の公船は黄岩島海域の現場での法執行、管理およびサービス提供の必要性に応じて配置され監視を行っている」と主張した [15]。スカボロー礁において中国の公船がフィリピンの公船を追い出し、中国による事実上の支配を確立したという勝利宣言である。
中国においてスカボロー礁問題に対する政策は成功だったと評価されている。スカボロー礁でフィリピン公船との対峙にあたっていた海監の公船編隊を慰問した国家海洋局の劉賜貴局長は、スカボロー礁と周辺海域において中国が有効なコントロールと監督・管理を実行しているとしたうえで、海監が「最後の勝利」にむけて引き続き断固とした闘争を続けることに期待を示した [16]。
スカボロー礁問題に対する政策の成功は、その後の中国の関連政策にも影響を与えていると思われる。例えば、2012年9月の日本政府による尖閣諸島の国有化への対応である。中国政府は、尖閣諸島の日本領海に多数の公船を侵入させると同時に、外交や経済など多方面にわたって日本に対する圧力を加える政策を実行した。また、海洋権益を維持・拡大するうえで全政府的な対応の必要性と有効性が認識されたことが、同年後半とされる「中央海洋権益工作領導小組」 [17]の設置につながったと考えられよう。さらに、海洋権益の維持・拡大における法執行機関の統合的な運用の有用性が評価された結果、2013年3月に全国人民代表大会で、海監、漁政、海警、海関の4つの海上法執行機関を統合して中国海警局を設立することが決定されたとも思われる [18]。