公益財団法人日本国際フォーラム

はじめに

2020年のフィリピン外交を振り返ると、いくつかの局面で対中対峙路線ともいうべき姿勢が顕在化した。例えば、国連総会の場において、ドゥテルテ大統領は明確に、「フィリピンは、国連海洋法条約と2016年の仲裁裁判所判決に則った南シナ海に対する関与を支持する」と発言したことが特筆に値するだろう[1]。また、スプラトリー諸島でフィリピンが実効支配しているパグアサ島の港湾整備は、中国政府の反対にもかかわらず進んだ。他方、対中対峙のために頼りになるはずの米国との関係に関しては、訪問米軍協定(以下VFA)破棄通告とその後の撤回にみられるように、極めて分かりにくい姿勢が印象的である。以下では、2020年の南シナ海情勢に関連するフィリピン政府の主な対応を振り返り、フィリピンの対中対峙路線の可能性と限界について整理したうえで、今後の動きを考える際に留意すべき点を明らかにしたい。

2020年に最も意思を通したのはフィリピン国軍

表1は、2020年の一年間に起きた南シナ海関連の出来事とその評価を整理したものである。

まず、6つの出来事のうち、4つが港湾・資源開発である。いずれの出来事についても、見方によっては中国による新たな拠点づくりとなる可能性がある。残りの二つは、VFAや常設仲裁裁判所判決など、法的問題に関連する。

港湾開発に関して、中国による新たな拠点づくりに利用されるのではないかと国内外の注目を集めた事例が二つ、他方で南シナ海におけるフィリピン側の拠点整備に関するものが一つある。まず、スービック湾造船所問題の発端は、2019年1月の韓国系造船会社韓進重工業のフィリピン子会社が経営破綻したことにある。同造船所は、フィリピン最大の造船所であり、最盛期には3万人の雇用を生み出したとされる。また、西フィリピン海に面するスービック湾には東南アジア最大の米海軍基地が置かれたことがあるなど、安全保障上の要衝にあることも耳目を集める理由である。この造船所破綻後、いくつかの中国企業が経営に興味を示したことに対し、フィリピン国軍を中心に警戒の声が高まった。2020年1月には、米国の投資会社の支援を受けた豪州の造船大手オースタル社が造船所を買収することが決まり、さらにその一部にフィリピン海軍の施設を建設することが決まった。次に、フィリピン北部のバシー海峡に面するフガ島をめぐっては、中国資本によるスマートシティ構想が噂されており、同じくフィリピン軍を中心に警戒の声が高まっていた。これに関して、2020年8月、同島の経済特区を主管するカガヤン経済特区は中国資本による開発計画は存在しないと表明した。さらに、ドゥテルテ大統領はフガ島の特区の一部を海軍施設として開発する方針を示した。他方、スプラトリー諸島内でフィリピンが1970年代から実行支配するパグアサ島について、海軍は長年の懸案であった港湾施設の増強を実施し、将来の滑走路整備に向けた地ならしを行った。いずれの事例においても、結果的にはフィリピン国軍の拠点の拡大につながったと評価できる。

評価の分かれる法的な対応

他方、評価が一筋縄ではいかないのが法的問題である。まず、訪問米軍協定の破棄通告問題のように、国内政治が外交問題を引き起こした事例がある。2020年1月、ドゥテルテ大統領の側近といわれ、欧米から人権侵害に対する懸念が表明されている「対麻薬戦争」の陣頭指揮を執ったロナルド・“バト”・デラローサ上院議員の米国ヴィザが失効したことがニュースとなった。これに対してドゥテルテ大統領は、公務に従事したフィリピン人が米国で不利益をこうむるのであれば、フィリピンに訪問する米軍人に保護を与えることは公平性を欠くと主張、VFA破棄を一方的に通告した。6か月間の破棄通知発効を待つ間の4月、ドゥテルテ大統領と米国のドナルド・トランプ大統領との電話会談があった。その後6月には、南シナ海における中国の活動活発化を主な根拠としてフィリピン外務省が破棄通告を中断すると通知し、問題は沈静化した。しかしながら、デラローサ上院議員自身、首脳会談後に在フィリピン米国大使館からヴィザに関する連絡があり、ヴィザを取得した旨を公表し、首脳会談はある種の「手打ち」の機会であったことを示した。一連の騒動の時系列を整理すれば、デラローサ上院議員のヴィザ失効が問題の発端となり、その解決が問題の鎮静化につながったことは明らかである。

2020年9月、ドゥテルテ大統領は国連総会の場で突如「フィリピンは、国連海洋法条約と2016年の仲裁裁判所判決に則った南シナ海に対する関与を確認する。…。判決は、今や国際法の一部であり、いかなる政府もそれを希薄化したり、損なったり、あるいは放棄することはできず、妥協することもできない。我々はそれをなし崩しにしようとする試みを拒絶する」と明言した[3]。これは、仲裁裁判所判決を「紙屑」と呼ぶ中国政府の立場と真っ向からぶつかる立場といえる。ただし、この発言後に具体的な対中外交が変わったとは言い難く、フィリピン大統領府報道官も、ドゥテルテ大統領の発言はこれまでの政府の対応からの変更を示すものではないと発言した[4]。また、表1にあるように、南シナ海における中国との資源共同開発には前向きな姿勢を示しており、国連総会での演説を機に対中対峙路線にかじを切ったというような評価は適当ではない。

おわりに

2020年の南シナ海問題に対するフィリピン政府の姿勢をどう考えるべきだろうか。明確なのは、一方的な対中対峙や対米協調路線は取られなかったということである。他方、中国側への一方的なすり寄りも見られない。6つの事例で最も意思を通したといえるのはフィリピン海軍であろう。特に、港湾開発はいずれもフィリピン海軍の能力強化に資するものである。国際政治学の表現でいいかえれば、対中バンドワゴン政策も対外バランシングも採用されず、自国の防衛力強化による対内バランシングを志向したといえる。ただし、中比間の防衛費の差を見るまでもなく、自国の防衛力強化だけで十分な均衡を確立することは不可能である 。また、能力構築そのものも、米国、豪州や日本といった同盟国やパートナー諸国との協力なしに進めることは困難である。対内バランシングは自国の意思のみで追求できるために自由度が高いといえるが、それを実現する能力そのものは、他国との関係強化を視野に入れない限り簡単に獲得できない。2021年、能力開発分野でどのような国とどのような協力を志向するのかを注視したい。(2021年2月28日脱稿)