公益財団法人日本国際フォーラム

1.インドの対中イメージ

デリーに古くからある中華料理店には日本風の店名が付けられている。1962年に勃発したインドと中国の国境紛争の際に、市民からの攻撃を逃れるために名前を変えたものであるという。筆者がデリーに留学していたころに聞いた話であり、真偽のほどは定かでない。ともかくインドにおいて中国へのイメージは非常に悪いというのが定説であり、1962年の国境紛争については中国がインド(とくに当時の首相ジャワーハルラール・ネルー)を裏切って攻撃をしかけてきたというストーリーで、歴史教育を通じて若い世代にもすり込まれている、と考えていた。

市民の認識とはまた別次元の話ではあるが、政府の安全保障戦略においても、21世紀に入ってパキスタンに対する脅威認識が弱まって以降[1]、インドにとって中国は最大かつほぼ唯一の脅威として認識されていた[2]。他方で中国側はそのようにインドを強力な脅威とは見なしていないと考えられ、その認識の非対称性がかねてから指摘されてきた[3]

市民レベルの認識に話を戻そう。国際世論調査の結果を見ると、インド市民の抱く中国へのイメージは、筆者が想像していたほどずば抜けて悪いものではなかった。Pew Research Centerの調べによると、2013年から17年までの間、中国を好ましいと見る人の割合は30%前後で推移していた(下のグラフ)。当時、尖閣諸島をめぐる対立から中国との関係が悪化していた日本のほうがはるかに低い割合であった。両国でこの調査が行われた2013~19年の間で、インドにおける好ましい見方の割合が日本を下回ったのは、唯一2018年のみであり、その年の調査対象国25カ国中ではインドが最も低い値であった。これは、2017年に国境紛争でインド軍と中国軍が対峙したドクラム危機の影響であったと考えられる。つまり、2019年まで、インドはヴェトナムや日本とともに対中世論の悪い国のひとつではあるが、日本に比べればマシ、という状況であった。

日本とインドの対中好感度 (%)

そして世界がコロナ禍にみまわれた2020年、世界各国で対中イメージは著しく悪化した。同じくPew Research Centerの調査によると、調査対象14カ国のほとんどで中国の印象が悪化しており、それも小幅ではなく劇的に悪化していた[4]。2020年の調査対象にインドは含まれていないが、インドでも大幅に悪化していることは間違いない。それは2020年6月に起こった国境地帯での衝突のためである。

2.2020年6月、ガルワン渓谷での衝突

事件のあらましを手短に振り返っておこう[5]

インドと中国の国境をめぐる争いは、インド側の地名で言うと、東のアルナーチャル・プラデーシュ州、ネパールとブータンの間に位置するシッキム州とその周辺、北部ラダック地区(連邦直轄地)の3箇所で行われている。今回の事件の舞台は、これらのうち、ラダックのガルワン渓谷という地域の実効支配線付近であった。

ガルワンでは同年5月から小競り合いが起きており、緊張緩和のために現場司令官レベルの合意に基づいて双方が部隊を後退させる過程で今回の衝突が発生した。印中の国境紛争が長らく続いてきた結果として、両国間で緊張緩和のための様々な取り決めが行われており、そのため今回も発砲を伴わない衝突となった。しかし石や棒などの銃火器以外の武器を用いた激しい乱闘となり、また場所が高地の渓谷であったため、多数の死者が出た。インド側の死者は20人で、中国側にも死者が出たと見られたが公式発表はなく不詳となっていた(後述)。印中国境紛争で死者が出たのは1975年以来のことであった。

両軍ともに現場への展開を強化し、大規模な衝突が懸念された。インド側は従来禁止してきた発砲を許可した。あるインド陸軍将校は、2020年8月に特に戦争の危険が高まっていたと振り返っている[6]

幸い、本稿執筆時点までに次の衝突は起きていない。2021年2月には、現場からの部隊の撤退を開始したと両国政府が発表した[7]。ただし2020年6月の衝突も同様の合意後に起きたものであり、収束したと言うのは時期尚早であろう。

3.中国側の犠牲者数をめぐって

中国側の犠牲者数については、長らく中国側からの発表がなされず、不明なままであった。インドでは、インド側と同程度かやや上回る程度の犠牲者数が中国側にも出ているとの見方がされていた。2021年2月には、ロシアの国営イタルタス通信が前述の部隊撤退に関する記事のなかで、ガルワン事件における中国側の犠牲者数が45人であったと報じた[8]。イタルタスの報道はインドでも注目され、その死者数が事前のインド側での推測と近いものであったため、これが実際の数字であろうと考えられた[9]

しかしその直後、中国人民解放軍の機関誌である『解放軍報』は死者数が4人であったと報じた[10]。また、中国中央電視台は衝突時の様子を収めた9分近い映像を公開した[11]。映像ではインドを名指しせず「外国軍」としており、インドに対する配慮か、あるいは国内世論を刺激しないための一定の配慮が見られる。

本稿の趣旨から逸れるのでこの点について深入りはしないが、中国当局もこの問題をめぐる世論に敏感になっているようである。上記の4人という中国側死者数の発表をうけて、SNSで死者数がもっと多かったはずなどと書き込んだ6人が中国国内で身柄を拘束されている[12]

4.ガルワン後インドの対中イメージ

さて、すっかり前置きが長くなったが、ガルワン事件後のインドの対中世論について見ていこう。週刊誌India Todayと調査会社Karvy Insightsが実施し、2020年8月と2021年1月に公表された世論調査の結果を参照する。

India Today「Mood of the Nation」2020年8月における対中関係項目

上記が、ガルワン事件から日が浅い2020年7月に実施された調査(8月公表)における中国関連の設問の結果である。

中国製品ボイコットに9割が賛成していることなどから、インドにおける対中感情が非常に悪くなっていることがわかる。ただし、自分自身が中国製品の代わりのものに高いお金を払うと考える人は3分の2程度であり、自己犠牲を払ってまで反中を貫徹する意思はない人たちも少なからずいることがわかる。

対中世論の悪化は想定通りであるが、筆者が驚いたのは、軍事バランスに関する世論の認識であった。言うまでもなく実際のインドの軍事力は中国に劣るが、7割超の人々はインドが中国に軍事的に勝てると考えている。また、そうした軍事バランスの認識を反映してか、6割弱が中国と戦争すべきと答えている。このように、世論が強硬な対応を政府に求めていることがこの調査からわかる。

他方で、政府の対応については高い評価がなされていることも見てとれる。なお、ここでデータは示していないが、コロナ禍への政府対応についても評価は高く、コロナ禍と対中紛争という困難に直面した政権が国内的には支持をつなぎ止めることに成功していることがわかる。

つぎに、ガルワン事件から半年経った2021年1月に行われた同調査の結果を見よう。

India Today「Mood of the Nation」2021年1月における対中関係項目

中国製品等の禁止への支持は相変わらず高く、反中感情が治まっていない。ただし、戦争ではなく外交による解決を求める意見が多く出ている点は注目に値する。前回の調査とは質問の選択肢が異なるので単純な比較はできないが、事件直後に比べれば、世論は冷静になったと言えるのだろう。政権の対応への高い評価は相変わらずである。

上記2回の世論調査からの示唆は、以下のようにまとめることができよう。

  • インドの反中感情が高まっており、強硬な対応を望んでいる
  • 前提として、中国に劣らない軍事力をインドが持つと考えている
  • 経済的な犠牲を伴ってでも中国との関係を断つべきと考えている

ガルワン事件が印中関係に及ぼす影響については本稿で論じきれるものではないが、インド市民の対中感情が大いに損なわれたことは重要な要素であろう。インドの対外政策を実際に指揮するS. ジャイシャンカル外務大臣は、2021年1月のインド国内の会議で、ガルワン事件の影響について、「世論に甚大な影響を及ぼし、そして本当に中国や中国との関係についてインドにおける信頼と自信に影響をもたらした」と語っている[13]。このように強硬な世論であれば、弱腰と見られうる対応を政府が行うことは困難である。今まで以上に、インド政府は中国との関係において難しい舵取りを迫られることになったと言えよう。