活動
2026年6月1日
高畑 洋平
日本国際フォーラム上席研究員・常務理事
ロシアによるウクライナ侵略、米中戦略競争の激化、中東情勢の不安定化、経済安全保障の台頭、そしてグローバルサウスの存在感の拡大。今日の国際社会は、冷戦終結後の楽観的な国際秩序観が大きく揺らぐ時代を迎えている。こうした状況を前に、多くの論者は「自由主義国際秩序の危機」を語る。また、世界は「新冷戦」に向かっているとの見方も根強い。しかし本当にそうだろうか。
確かに米中間の競争は激化している。ロシアと欧米の対立も深刻である。しかしその一方で、世界は冷戦期のように明確な陣営へと分裂しているわけではない。中国と米国は激しく競争しながらも巨大な経済関係を維持している。インドや中東諸国、多くのグローバルサウス諸国は、特定の陣営に全面的に与することを避けながら、多元的な外交を展開している。国際機関も機能不全に陥ったわけではなく、限定的ながら重要な役割を果たし続けている。世界は対立へ向かっているように見える。しかし同時に、完全な断絶にも向かっていない。では、いま何が起きているのか。
その問いに答えるためには、まず国際競争そのものの性質が変化していることに注目しなければならない。2007年、故伊藤憲一(日本国際フォーラム会長)は『新戦争論』において、冷戦後の戦争の変容を描き出した。国家間戦争の減少、非国家主体の台頭、軍事と非軍事の境界の曖昧化など、同書が提示した問題意識は、その後の国際政治を理解する上で重要な視座を提供した。
しかし、その後の国際社会は当時想定されていた以上の変化を経験している。
今日の競争は軍事領域だけではない。半導体や重要鉱物をめぐる争い、サプライチェーンの再編、技術標準をめぐる競争、AI開発競争、SNSを通じた認知戦や情報戦、海底ケーブルや宇宙空間をめぐる競争など、国家間競争は経済・技術・情報空間へと急速に拡大している。もはや戦争と平和、軍事と非軍事、国内と国際の境界は明確ではない。
今日の国際政治を特徴づけているのは、軍事・制度・情報という複数の空間で競争が同時進行する「多次元競争」である。
興味深いことに、多次元競争は必ずしも全面的な対立を生み出していない。軍事面では対立していても、経済面では相互依存が続く。技術分野では競争しながらも、気候変動や感染症対策などの分野では協力が必要となる。つまり、多次元競争が進むほど、国家は完全な断絶や単独支配を選択することが難しくなる。その結果として生じるのが、秩序形成機能の分散である。
冷戦後の国際秩序においては、米国が安全保障、経済、制度設計など多くの領域で中心的役割を果たしてきた。しかし現在では、それらの機能を単一の国家が担うことは難しくなっている。安全保障では米国が重要な役割を果たし続ける一方、中国は経済やインフラ分野で影響力を拡大している。EUは規制や標準形成で存在感を示し、ASEANやアフリカ連合などの地域機構も独自の役割を果たしている。
私は、このような変化を捉える視点として「分有化」という概念に注目している。分有化とは、複数の主体が秩序形成の機能や役割を分担しながら、競争と協力を通じて国際秩序を支える状態である。ここで分有されるのは、単なる権力ではない。安全保障、経済ルール、技術標準、インフラ整備、地域秩序の維持といった、国際秩序を支える様々な機能である。この視点から見ると、現代世界において生じているのは秩序の崩壊ではなく、秩序形成主体と秩序形成機能の多元化である。
この変化の中で重要な役割を果たしているのが、いわゆる「狭間国家」である。インドは米国との戦略協力を進めながらロシアとの関係も維持している。トルコはNATO加盟国でありながらロシアや中東諸国との独自外交を展開している。中央アジア諸国は中国、ロシア、欧州、日本など複数の主体との関係を同時に追求している。
これらの国家は、大国間競争の受動的対象ではない。むしろ複数の秩序圏を接続し、ときに調整しながら、秩序形成そのものに影響を与える主体となっている。同様に、国際機関、地域機構、企業、市民社会もまた、それぞれの領域において秩序形成の一翼を担っている。
こうした変化は、日本外交にとっても重要な意味を持つ。日本は自由主義国際秩序の受益者であり、その維持と発展を重視してきた。しかし秩序形成のあり方そのものが変化しつつある現在、日本外交にも新たな発想が求められている。その一つの可能性が「接続外交」である。分断や対立が進む世界において、日本は単に特定陣営の一員として振る舞うだけではなく、異なる地域、異なる制度、異なる主体を接続する役割を果たし得る。中央アジアやコーカサスとの関係強化、ASEANとの連携、インド太平洋と欧州との接続、さらにはグローバルサウスとの協力は、その具体例である。もちろん日本が覇権国家になることはない。しかし日本には、異なる秩序圏の間に橋を架け、接続と調整を促進する能力がある。
本研究会「管理され始めた世界秩序と日本の戦略的位置―分有化時代における接続と調整の外交モデル―」は、こうした問題意識のもと、現代国際秩序の変化を検討する試みである。「分有化」という概念は、まだ発展途上にある。むしろ本研究会を通じて、その意義や限界を含めて議論を深めていきたいと考えている。世界は無秩序へ向かっているわけではない。しかし、かつてのような単一秩序の時代でもない。その変化をどのように理解し、どのように向き合うのか。それは日本外交のみならず、現代の国際社会全体に問われている課題なのである。
はじめに:世界は本当に「新冷戦」に向かっているのか
ロシアによるウクライナ侵略、米中戦略競争の激化、中東情勢の不安定化、経済安全保障の台頭、そしてグローバルサウスの存在感の拡大。今日の国際社会は、冷戦終結後の楽観的な国際秩序観が大きく揺らぐ時代を迎えている。こうした状況を前に、多くの論者は「自由主義国際秩序の危機」を語る。また、世界は「新冷戦」に向かっているとの見方も根強い。しかし本当にそうだろうか。
確かに米中間の競争は激化している。ロシアと欧米の対立も深刻である。しかしその一方で、世界は冷戦期のように明確な陣営へと分裂しているわけではない。中国と米国は激しく競争しながらも巨大な経済関係を維持している。インドや中東諸国、多くのグローバルサウス諸国は、特定の陣営に全面的に与することを避けながら、多元的な外交を展開している。国際機関も機能不全に陥ったわけではなく、限定的ながら重要な役割を果たし続けている。世界は対立へ向かっているように見える。しかし同時に、完全な断絶にも向かっていない。では、いま何が起きているのか。
多次元競争の時代
その問いに答えるためには、まず国際競争そのものの性質が変化していることに注目しなければならない。2007年、故伊藤憲一(日本国際フォーラム会長)は『新戦争論』において、冷戦後の戦争の変容を描き出した。国家間戦争の減少、非国家主体の台頭、軍事と非軍事の境界の曖昧化など、同書が提示した問題意識は、その後の国際政治を理解する上で重要な視座を提供した。
しかし、その後の国際社会は当時想定されていた以上の変化を経験している。
今日の競争は軍事領域だけではない。半導体や重要鉱物をめぐる争い、サプライチェーンの再編、技術標準をめぐる競争、AI開発競争、SNSを通じた認知戦や情報戦、海底ケーブルや宇宙空間をめぐる競争など、国家間競争は経済・技術・情報空間へと急速に拡大している。もはや戦争と平和、軍事と非軍事、国内と国際の境界は明確ではない。
今日の国際政治を特徴づけているのは、軍事・制度・情報という複数の空間で競争が同時進行する「多次元競争」である。
なぜ分有化が進むのか
興味深いことに、多次元競争は必ずしも全面的な対立を生み出していない。軍事面では対立していても、経済面では相互依存が続く。技術分野では競争しながらも、気候変動や感染症対策などの分野では協力が必要となる。つまり、多次元競争が進むほど、国家は完全な断絶や単独支配を選択することが難しくなる。その結果として生じるのが、秩序形成機能の分散である。
冷戦後の国際秩序においては、米国が安全保障、経済、制度設計など多くの領域で中心的役割を果たしてきた。しかし現在では、それらの機能を単一の国家が担うことは難しくなっている。安全保障では米国が重要な役割を果たし続ける一方、中国は経済やインフラ分野で影響力を拡大している。EUは規制や標準形成で存在感を示し、ASEANやアフリカ連合などの地域機構も独自の役割を果たしている。
「分有化」という視点:狭間国家の存在
私は、このような変化を捉える視点として「分有化」という概念に注目している。分有化とは、複数の主体が秩序形成の機能や役割を分担しながら、競争と協力を通じて国際秩序を支える状態である。ここで分有されるのは、単なる権力ではない。安全保障、経済ルール、技術標準、インフラ整備、地域秩序の維持といった、国際秩序を支える様々な機能である。この視点から見ると、現代世界において生じているのは秩序の崩壊ではなく、秩序形成主体と秩序形成機能の多元化である。
この変化の中で重要な役割を果たしているのが、いわゆる「狭間国家」である。インドは米国との戦略協力を進めながらロシアとの関係も維持している。トルコはNATO加盟国でありながらロシアや中東諸国との独自外交を展開している。中央アジア諸国は中国、ロシア、欧州、日本など複数の主体との関係を同時に追求している。
これらの国家は、大国間競争の受動的対象ではない。むしろ複数の秩序圏を接続し、ときに調整しながら、秩序形成そのものに影響を与える主体となっている。同様に、国際機関、地域機構、企業、市民社会もまた、それぞれの領域において秩序形成の一翼を担っている。
日本外交への示唆
こうした変化は、日本外交にとっても重要な意味を持つ。日本は自由主義国際秩序の受益者であり、その維持と発展を重視してきた。しかし秩序形成のあり方そのものが変化しつつある現在、日本外交にも新たな発想が求められている。その一つの可能性が「接続外交」である。分断や対立が進む世界において、日本は単に特定陣営の一員として振る舞うだけではなく、異なる地域、異なる制度、異なる主体を接続する役割を果たし得る。中央アジアやコーカサスとの関係強化、ASEANとの連携、インド太平洋と欧州との接続、さらにはグローバルサウスとの協力は、その具体例である。もちろん日本が覇権国家になることはない。しかし日本には、異なる秩序圏の間に橋を架け、接続と調整を促進する能力がある。
おわりに
本研究会「管理され始めた世界秩序と日本の戦略的位置―分有化時代における接続と調整の外交モデル―」は、こうした問題意識のもと、現代国際秩序の変化を検討する試みである。「分有化」という概念は、まだ発展途上にある。むしろ本研究会を通じて、その意義や限界を含めて議論を深めていきたいと考えている。世界は無秩序へ向かっているわけではない。しかし、かつてのような単一秩序の時代でもない。その変化をどのように理解し、どのように向き合うのか。それは日本外交のみならず、現代の国際社会全体に問われている課題なのである。