公益財団法人日本国際フォーラム

この7月下旬、関西の大学で社会人や学生を対象に、今日のロシア・ウクライナ情勢と日本の対応について講演をした。講演の後、出席者から「ウクライナの親露派の、今日の情勢に対する認識や反応について」解説を求められた。良い質問だが実は答えるのが難しい問題でもある。私は、およそ次のように答えざるを得なかった。
 「ウクライナの親露派だけでなく、ウクライナ全体の国民意識や、ロシアの国民の意識も昨年2月のロシアによるウクライナ軍事侵攻以来、大きく変化した。しかも、それぞれの国や地域で、住民の意識や心理が統一されたり(主としてウクライナ)、亀裂が生じたり(主としてロシア)した。しかし両国で、事態の是非・解釈を巡って、夫婦や親子、兄弟間でも分裂や対立が生じることも少なくない。したがって、一概にウクライナの親露派の今の事態に対する見解はこうだ、と説明できる状況ではない。」 この場を借りて少し説明したい。そして最後に、私自身の知人たちの具体例も示したい。まず、予備的に昨年2月のロシアによるウクライナへの軍事侵攻以前のウクライナ人とロシア人の政治意識を説明しておきたい。
 ソ連邦崩壊後の1990年代のエリツィン大統領時代には、ロシアは政治の民主化と経済の市場化を目指したが、実際には政治も経済も社会も、無政府・無秩序の混乱状態に陥った。そこで欧米や日本など先進国は、「対露支援」を実施した。それは親露的だったからではなく、核を有するロシアが、ユーゴスラビアのような凄惨な混乱状態に陥ったら人類の危機だと強く懸念し、旧ソ連諸国の政治・経済改革を軟着陸させる為だった。しかしこれは成功しなかった。1999年の大晦日にエリツィンは新年を迎える恒例の大統領テレビ演説を涙ながらに行い、次のように述べて、任期を数カ月残して辞任を表明した。
 「私は皆さんに、失敗の許しを請いたい。……灰色の停滞した全体主義の過去から、明るく豊かで文明的な未来へ一足飛びに移るという希望は実現しなかった。私は、あまりにもナイーブ(単純)であった。そして、問題はあまりにも複雑であった。」

ウクライナでは2004年に「オレンジ革命」と称される下からの政権批判や変革運動が生じた。親露的なクチマ大統領政権に対し、より自由で民主的な政権を求める抗議運動だ。ウクライナ以外でも、2003年にはジョージアで「バラ革命」、2005年にはキルギスで「チューリップ革命」が生じた(カラー革命)。さらに2012、13年にはアフリカやシリアなど中東でも反体制運動(アラブの春)が生じた。
 このような下からの民衆による政権批判の行動は、プーチン大統領が最も恐れるもので、彼はこのような民衆の反政府運動は、西側諸国の陰謀と資金によるもの、旧ソ連地域のカラー革命は、最終的にはロシア政権を打倒する為の反露謀略だと偏執的に強く信じ込んでいる。つまり、当初は民衆の自発的な行動もNGO運動も、すべて西側の反露的陰謀だとの信条である。私は、90年代の日本政府による対露支援や「日・米・露フォーラム」にも関与したが、その実際は、反露どころか純粋にロシアにおける改革支援の意図からだったことを知っている。しかしプーチンから見ると、これらは全て「カラー革命」の陰謀と見えたのだ。
 2004年のウクライナのオレンジ革命と言われる民主化運動が高まる中で、クチマ大統領の任期終了に伴う同年のウクライナの大統領選挙では、親欧米民主派のユシェンコが46%、親露派のヤヌコビッチが49%獲得したが、後者に選挙不正があったとして再選挙が行われ、結果は逆転して、ユシェンコが52%、ヤヌコビッチが44%の得票率で、前者が大統領になった。しかしユシェンコの任期終了に伴い2010年に行われた大統領選挙では、ユシェンコに近かったティモシェンコとヤヌコビッチがそれぞれ得票率45%、48%で、結局親露派のヤヌコビッチが勝利した。ただヤヌコビッチは2013年に、進んでいたウクライナとEUの連合協定(経済その他の分野での協力協定)の署名をロシアの圧力で中止して、「ユーラシア経済同盟」との協力を強化しようとした。これに対して、ウクライナの多くの民衆が憤慨して、2013年末から14年2月にかけて、いわゆる「ユーロ・マイダン革命」と呼ばれる国民の抗議運動が強まり、14年2月22日、ヤヌコビッチはキーウからロシアに逃げた。その直後、14年3月に生じたのが、露軍統制下の「人民投票」による「クリミア併合」だ。
 近年の歴史や大統領選の得票率まで述べたのは、ソ連崩壊後のウクライナでは国民が長年、親西欧派と親露派にほぼ2分されていたことを示すためである。ちなみにロシアが侵攻の最大の口実にするNATO加盟支持派は、ウクライナ国民の半数よりはるかに少なかった。しかもこの2分された政治傾向は、大まかに言えば、ウクライナの西部と東部に分かれていた。地図上では、北方のキーウから南方のオデッサを結ぶ線が大体の西部と東部を分ける目安だ。ただ、エカテリーナ2世皇帝時代(18世紀後半)には、ウクライナ南部は露支配下に入り、「ノヴォロシア(新ロシア)」と呼ばれた。オデッサにエカテリーナ2世の銅像が建てられた所以でもある。
 私はソ連時代、キエフにもオデッサにも行ったが、市民の普通の会話は、親西欧派でさえもロシア語であった。つまり、ウクライナ語は努力しないと使えないという者が大部分であった。それに関連して、次のような小話がある――ウクライナ独立後、自由なウクライナ国会のある委員会で会合があった。以下は、議長の開会の言葉である。「この中にロシア人はいないな。では会議はロシア語で行おう。ドアは閉めなさい。」
 いずれにせよ、多くのウクライナ人が親西欧派でも親露派でも、ロシア語を使っていた。しかし、昨年の2月24日のロシア侵攻以来、状況が一変した。オデッサでは親露感情が吹き飛び、親露派の政治家たちでさえ、ロシアに対する徹底抗戦を呼びかけ、エカテリーナ2世の銅像は撤去され、街でも聞こえるのはもっぱらウクライナ語。ロシアの侵攻が「ウクライナ人」という意識を生んだのだ。これは私が以前から「2022年2月に『プーチンのお蔭で』ばらばらだったウクライナは一つの主権国家として統一した。1941年6月、『ヒトラーの対露侵攻のお蔭で』、初めて統一したソ連国家とソ連国民が生まれたように」と述べていたことでもある。ただ、深刻なのは、現在のウクライナには地域によって、また個人によって、親露派も実際にいること、その結果、前述のように「夫婦や親子、兄弟間でも深刻な分裂や対立が生じることも少なくない」事態が生じていることだ。このことは、ウクライナへの軍事侵攻に対するロシア国民の見解に関しても、より強く言えることである。
 先日、訪日したウクライナ系のロシア人(モスクワ在住)と話し合った。その人の兄弟など肉親はウクライナ在住だ。その人の言が印象的だった。今日、肉親や友人と話すときには、人間関係を壊さないために、政治問題については、敢えて話さないようにしていると言う。やはり先日来日したベラルーシ系のロシア人と会って話した。彼の妻や子はモスクワに、母はベラルーシに住んでいる。彼は現在のロシア、ベラルーシ、ウクライナの状況を、パステルナークの「ドクトルジバゴ」を例にして、「1917年の内戦時代と同じだ」と述べていた。
 つまりロシアの対ウクライナ政策に対する国民の評価も、内戦状態にあるということだ。以上が、「ウクライナ人やロシア人の意識」について簡単には言えないと述べた理由である。