ウクライナ侵略のロシア側論理とその歴史的背景
2022年2月24日のロシア(以下露とする)による隣国ウクライナ(以下宇とする)への軍事侵略は、世界秩序の安定に最大の責任を負う国連安保理常任理事国が隣国に軍事侵略をし、国際法・国際秩序の基礎が崩壊したと言う意味で、第二次世界大戦終了後の国際社会における最も深刻な事態である。「クリミア併合」(2014.3)以来世界に激震をもたらした強烈な露の対外軍事侵略は、近年の露・宇・独、仏による2回のミンスク合意(2014年9月、2015年2月――最重要課題は露と宇の休戦)の破綻の結果とかプーチン個人の考えが最近急変した結果ではない。多くの専門家も気付いていないことだが、プーチン時代の比較的初期にすでにそのルーツがある。まず、宇侵攻の露側の言い分と、近隣国への侵攻の歴史的ルーツを説明し、次いで、現在の対欧米政策、近隣諸国への対応、グローバスサウスへの対応を説明したい。
公式的なロシア政権側の言い分は、「独立国である(侵攻の3日前に露が独立を認めた)ドネツク人民共和国、ルハンスク人民共和国の要請に基づき、宇のネオナチ政権(ゼレンスキー政権)が宇東部で行っている大量虐殺に対処し平和を維持するために軍を派遣したもので戦争ではなく平和のための特別軍事作戦だ。目的は、ネオナチ政権に代わる非武装中立のキーウ政権樹立にある」とした。つまり、露の隣国に対する一方的な軍事侵略ではなく、独立諸国の要請に応じた、国際法的にも合法的な行為である、と。
もちろん世界のほとんどの国は、かかる明白な詭弁を認めていない。2023年3月2日に、ウクライナ情勢を協議する緊急特別会合として開催された国連総会で、193カ国中141カ国が露への非難決議に賛成した。前年10月22日にも、143カ国が同様の決議に賛成している。
2014年3月27日の「クリミア併合」後の国連総会で対露批判に賛成した国が100カ国だったことを想起すると、今回の露の宇への軍事侵略が国際社会の秩序を根底から揺るがしていることを示している。ちなみに、軍事侵略決断にあたり、当初プーチン大統領は「クリミア併合の成功」体験から、数日で宇を支配できると考えた。しかしこれは彼の致命的な誤算で、軍事侵略開始から1年3カ月経った23年5月末でも露軍は欧米などの支援を受けた宇軍に苦戦しており、露軍の弱体性を世界に晒す結果となった。このことは、その後の露の対外政策にも決定的な影響をもたらしている。
露政権は、23年3月31日に、新しい「露外交政策概念」を発表した。そこでは建前としては国際紛争の平和的解決の必要性が述べられている。国際紛争は、外交、交渉、会談、仲介などによって解決すべき、との主張である。宇との今日の紛争に関しても、プーチン氏や露政権が、「交渉による停戦、解決」に言及することがある。しかしプーチン氏は、和平交渉では「住民投票(自決権)で露領となった」クリミアや、ドネツク、ルハンスク、ザポリージャ、ヘルソン州の帰属問題については議論しないとの条件を付けている。これらの地域を国内法上で露領とした上で、停戦(休戦)ラインをこれらの地域のどこかに設けたとしても、朝鮮戦争におけるように、それが事実上の国境となる可能性もある。更に、2020年7月に改定された露憲法によると、「領土割譲」は禁止されている。現行の露憲法では、国内法は国際法よりも優先されるとされている。つまり、露の「和平提案」なるものは、宇が到底受け入れられないものである。
2024年3月予定の大統領選挙では、選挙統制と有力対立候補の不在ゆえ、プーチン政権にそれまでに想定外の異変がない限り、「7-8割のプーチン支持」という世論調査の結果から見ても、また露選挙の政権による支配という特殊性から見ても、プーチン氏が当選する。
G7など西側諸国の支援を受けた露と宇の戦争の今後の見通しだが、プーチン氏は宇内でこれまで「露領になったと宣言した地域」を宇に返還するつもりはない。これらのことと2022年2月以来の戦況を考えると、露と宇の戦争は今後2、3年以内に集結する保証は何もなく、今後数年から10年、あるいはそれ以上長期化する可能性も否定できない。長期化の最大の原因は、露の軍事侵略前は、「宇国民」という自覚を有していなかった人々が、自国を「命を賭しても守るべき主権国家」だと自覚するようになったからだ。露の軍事侵略の皮肉な結果でもある。
以下、露のウクライナ侵攻の歴史的背景として、一般に見過ごされていることに関し、簡単に述べておきたい。一般的には、ロシアが旧ソ連諸国を主権国家と見なさず軍事侵攻する行為の起源としては、2008年8月の「ジョージア戦争」が挙げられることが多い。ジョージア内の南オセチア自治州とアブハジア自治共和国を事実上軍事力で「独立」させ、露の傀儡国家にした事件だ。この時露政権はジョージアに関して露の「特殊権益圏」だと公然と述べた。もちろん国際法無視の古い地政学的理念である。
しかし日本だけでなく世界の多くの政府関係者や専門家も気付いていないことだが、ロシア外務省は、2006年6月1日に、対外政策の重点を「領土保全」から「自決権」に移すと声明した。同日の『イズベスチヤ』によると露外務省は次のように述べた。「我々は領土保全(統一性)の原則に敬意を払っている。しかし、グルジアに関しては、今のところ、この領土保全については、可能性の状態にとどまっており、政治的・法的に現存する現実ではない。南オセチアの基本的立場は、自決権に基礎を置いている。」ラブロフ露外相もこの時、ジョージアの領土保全に敬意を払うと言いながら、次のように述べた。「この地域(南オセチア)がグルジア政権のコントロールの外にある、という状況を考慮せざるを得ない。」(同上) つまり、ジョージアは現実的には主権国家ではなく、ロシアは南オセチアをジョージアの一部とは認めなかった。つまり、「自決権」即ち「住民投票」によって独立国となる可能性を示唆したのだ。それが現実となったのが2008年8月のジョージア戦争で、「南オセチア自治州とアブハジア自治共和国の自決権を守るために、露軍がジョージアに軍事侵略をした」という構図になっている。これらは、「クリミア併合」や「宇4州の併合」と同じパターンで、この方向に露外務省が対外政策の重点を公式に転換させたのが2006年6月1日なのである。
問題なのはジョージア戦争の翌年1月に発足した米オバマ大統領政権(バイデン副大統領)が、発足最初に「米露関係のリセット(改善)」政策を打ち出したこと、またその年の4月にオバマは有名な「プラハ平和演説」を行い、10月にノーベル平和賞を受けたことだ。つまり米国だけでなく世界が、「ロシアのジョージア軍事侵略は問題にしない」と宣言したことになる。露政権がこれをどう見たか、容易に想像は着く。欧米は口では露のジョージアへの対応を「制限主権論の復活」と非難しながら、結局何もできないのだ、と。また、まさにこれがその後の「クリミア併合」と今の露・宇戦争の背景になっている事は説明不要だろう。