2月24日の露によるウクライナ侵攻1年に先立ち、プーチン大統領が2月21日に、年次教書演説(施政方針演説)を行った。プーチンの年次教書演説は、昨年はウクライナ情勢の混乱ゆえに行われなかったが、通例は毎年、国会(上・下院)議員と各界の代表を招いて行う。それだけに、プーチンが現在見通しの立たないウクライナ侵攻の今後にどう対応しようとしているのか、世界の関心が強く向けられていた。
私は2月23日掲載の新聞論説「露の侵攻1年、日本人の意識変化」(産経新聞 正論)の執筆を頼まれていたが、締め切りの関係もあり、年次教書は全く無視して書いた。結果的には正解だった。演説内容のほとんどは、コメントする価値のない、これまでの彼の独善的、詭弁的な言説に終始したからだ。一つだけ、内容についてもしコメントするとすれば、「新戦略兵器削減条約(START2)」についての発言だが、それは後述する。
むしろ私が関心を向けたのは、放映されたプーチンの年次教書演説の会場の雰囲気である。
彼は、ウクライナは歴史的に露から独立した国ではなかったとか、今回の特別軍事作戦(露の侵攻)は、米国を中心とする欧米諸国の対露攻撃への対応で、ウクライナのネオナチ政権(ゼレンスキー政権)はその単なる操り人形に過ぎない、といった言に終始した。演説では彼が従来述べてきた、反論にも値しないこの独善的な見解あるいは偏執的詭弁を、書かれたテキストを早口で読む形で、1時間46分続けた(途中、何回かの拍手と黙祷の時間を含む)。前日にバイデン大統領は電撃的にキーウを訪問してゼレンスキー大統領と会談した(米国は数時間前に露に通知)。これに対してプーチンは無視を装ったが、実際には「バイデンのキーウ訪問は、まさに米主導のNATOがキエフのネオナチ政権を操って露攻撃をしているという私が述べて来た主張の本質を暴露した」と言いたかったであろう。
プーチンの話しぶりには、その場の聴衆やテレビを通じて国民に、じっくり真実を話かけようという姿勢はほとんど感じられない。ただ、独善的な詭弁を「公式見解」として、くどくど述べただけだ。プーチンは近年、「露の歴史」に執着し、「露を潰そうとしている敵国の包囲」という被害妄想を強めている。今日の露ではこの「公式見解」を外れる歴史観や国際政治の見解は許されない。事実上、歴史学や国際政治学が成立しないということでもある。
テレビに映るプーチン演説を聞く露の首脳陣や国会議員たちの表情も、聞き飽きた言葉を延々と聞かされることにウンザリしている様子がありありだった。カメラの焦点を当てられた幾人かの聴衆の1人が、手で口を覆いながら欠伸をする場面が映ったが、カメラは慌てて焦点を他に移した。また、最後に全員が起立して国歌の斉唱をする場面では、出席者の約3分の1は歌わず口を噤んで、お付き合いで起立しているだけで、気合が全く入っていない。
ただ、政府系の「全露世論調査センター」が2月23日に公表した年次教書演説に対する露世論は、国民の78%がプーチン講演は「正直で誠実」と答えている。その理由は ①国民の多くは「公式見解」しか知らない。 ②世界の情報に日頃接する知識人は国民の一部にすぎない。 ③指名して電話で行われる世論調査には、正直に答えない。などの理由がある。
プーチン発言に関し、内容的面で一言コメントしておきたいことがある。それは、START2に関して、彼はその「履行停止」を宣言したが、条約からの「脱却」ではないとわざわざ念を押したことだ。これは何を意味するか。
バイデンは2020年1月に大統領に就任すると、真っ先にSTART2(今日残っている米露間の唯一の軍縮条約)の無条件5年延期をプーチンに伝えた。プーチンがSTART2の継続に大喜びしたのは勿論だ。翌月の2020年2月初めにその有効期限が切れるからである。
START2が無効になるということは、再び米露の軍拡競争が始まることを意味するが、今日の露にはその経済力がなく、かつてソ連邦は米国との軍拡競争で崩壊したことをプーチンは熟知している。トランプ大統領時代には、無条件でなく、取りあえず1年延期とか、様々な条件をプーチンに突き付けていた。今回、プーチンが「脱却」ではなく「一時停止」と強調したのも、軍拡問題とは別に、ウクライナでの戦況悪化の下で、「核の脅し」を暗示しながら、START2で定められている相互査察を拒否するためでもあろう。
では、プーチンは喜ばしい提案をしたバイデンを尊敬したか。逆である。プーチンは擦り寄る相手よりも、むしろ緊張感を与える相手を、内心は尊敬する。バイデンは与し易い相手だとむしろ見下した。それはオバマ元大統領のシリアでの化学兵器使用に関する「レッドライン発言」の時と同じだ。オバマはシリアのアサド政権が化学兵器を使ったら、それが米のシリア軍事攻撃のレッドラインだと世界に公言したが、2013年にシリア政権が実際に化学兵器使用すると、大統領としての決断ができず対応を米議会に振り、結局、「化学兵器の国際管理」というプーチン提案に救われた。プーチンはオバマを内心見下した。
最後に、最近あるウェビナーで受けた重要な質問に関して、私見を述べたい。
質問は、「現在のウクライナ問題は、露の一方的な軍事侵略と言われる。しかし、2008年のブカレストにおけるNATO首脳会議で、ウクライナ、ジョージアを将来NATOに参加させると決めた。ここに問題はないか」というものだ。
J・ミアシャイマー・シカゴ大教授を始め、古くはJ・ケナンやH・キッシンジャーなど、NATOの東方拡大を批判した著名な学者や政治家がいることはよく知られている。プーチンは「米国やNATO指導部は、NATOは東方拡大をしないと約束したにもかかわらず、騙した」と、常に欧米を批判してきた。これに対して私は、【安保研報告】でも、敢えて露側の資料を使って、「NATO拡大の約束はなかった――プーチンの神話について」と題する見解を発表しているので(「日本国際フォーラム」サイト2022.1.31で一般公開)、再述はしない。
ここでは、ブカレストのNATO首脳会議に絞って私見を簡単に述べる。2008年のNATO首脳会議で議題になったウクライナ、ジョージアのNATO参加認定には、当時のドイツのメルケル首相、フランスのサルコジ大統領などが参加に反対し、「将来の参加」承認は、事実上は「参加の棚上げ」決議だった。またウクライナ国内でも、1990年代は国民のNATO参加支持率は10%台から40%台で、2008年にもそれを支持する国民は半数以下だった。つまり、ウクライナやジョージアのNATO加盟に現実性がないことは、国際的な常識であった。
プーチンたちのNATO拡大への強い被害者意識は、露指導部の心理面として正確に理解すべきであろう。しかし、旧ソ連諸国や旧東欧諸国を国際法上の主権国家と認めるならば、それらの国々のNATO加盟やその機運を促進したのは露の大国主義やウクライナ侵攻だということを認識すべきだ(2023年1月のウクライナ国民のNATO加盟支持率は86%)。