今年の1月から12月まで、日本がG7の議長国となる。日本はG7が、緊張している露・ウクライナ戦争や、中台問題、グローバルサウス(途上国)の国々に如何に対応すべきか、イニシアチブを取らなくてはならない。G7諸国は価値観や政治制度で「一応」まとまっているが、日本はG7の中では、アジアの国として際立った異質な面も抱えている。議長国として、そのプラス面を生かし、マイナス面を如何に自覚するか、簡単に私見を述べたい。
まず、G7では普遍的価値とされている基本的人権について。30年も前(1992.12)に、米国の人権問題権威、コロンビア大学人権問題センター長P.ジュビラー教授と個人的に意見交換をしたことがある。私はロシア問題の専門家として発展途上国も念頭において「途上国には途上国型の民主化、市場化しかあり得ない。世界のどの地域に対しても、欧米型の民主主義、人権思想を無条件に最優先課題として適用しようとするのは間違いだ。アジアその他の地域では開発独占も時代によっては必要だ」と述べた。これに対し彼は「むしろ逆ではないか。韓国、台湾、シンガポールの経済が発展したのは、人権思想と民主化が広まったからだ」と反論した。
私は、「混乱している途上国には①社会の安定、②経済の市場化、③政治の民主化と人権擁護という3課題がある。本来は何れも甲乙つけ難い課題だが、実践レベルでは①、②、③の優先順位をつけざるを得ない」と述べた。また、「基本的人権という観念は主権国家という観念と同様に、民主主義や国際秩序のために最も重要な価値観だと認めるが、しかしそれらは共に歴史的に形成された観念(フィクション)であり、江戸時代の日本にも、現在の中東諸国にも、そのような観念が一般化しているわけではない。ただフィクションと言っても、芸術に於けるように、それは現実以上に現実的な重みを持ち得るし、人類が生み出した最も重要な価値だということを否定はしない。欧米的価値観の基礎にあるマルチン・ルターの考えは人権思想に合致していない」と述べた。これ対し教授は「たしかにルターも新約聖書のロマ書も、誰もが権力に服従すべきだと説いているので、人権思想と合致しない」と認めた。
そこで私は次のように質問した。「E・フロムの『自由からの逃走』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章で見事に指摘されているように、自由が苦痛をもたらす状況もある。ちなみに教授は日本を市民社会と認めるか。」これに対し、教授はすぐに「(大審問官の)イワンの言葉ですね」と応じた後、「日本は最も自由度の高い国だが、半市民社会と言わざるを得ない」と答えた。これに私は「そう思う。日本には日本的な民主化、市場化の道があり、欧米的な市民社会をそのまま日本に移住するのは不可能だ」と述べた。
ジュビラー教授との30年前のやり取りを紹介したのは、G7が直面している最も重大な問題は、深刻な中国、ロシアの問題だけではなく、両国を巡って複雑な姿勢を示しているグローバル・サウスの諸国にG7として、如何に対応するかという問題があるからだ。
私は私立大学の国際学部の学部長をしていたことがあるが。学部で、ある改革やプロジェクトを推進する計画案が出た場合、大多数の教授が賛成すると分かっていても、誰々は反対するだろうと予測できる。民主主義の原則に従って、教授会で多数決にて決めるのは最悪のやり方だ。学部長として私は、反対すると思われる教授達と予め個別に会い、話し合いをして根回しをし、全会一致を目指した。勿論、その為には学部とし一定のコストは必要だ。
国際学部の教授たちは皆外国生活を経験しており、外国人もいる。しかし、この江戸時代の「村の寄り合い」のやり方が、しこりを残さない日本的な民主主義の最善策なのである。
G7の中で唯一のアジアの国である日本は、欧米よりも現実的な形での対グローバル・サウス政策を主導する能力を発揮すべきだし、それが可能だと、私は自らの経験から思っている。
勿論、対露政策に関しては、露に主権を侵されている日本は、2014年の「クリミア併合」時に、G7の中では最も強くウクライナとの連帯姿勢を出すべきだったのに、反対の態度を取った。中国の南シナ海や東シナ海への侵攻問題にも、もっと早い時期に対応すべきだった。
以上、G7の中で、日本がアジアの国としてイニシアチブを発揮すべき点を指摘した。
逆に、G7の一員でありながら、日本が抱える深刻な問題点を以下指摘しておきたい。
フリーダムハウスが毎年発表している世界各国の自由度に関する報告書「Freedom in the World」(2022年度版)では日本の自由度は、調査対象となった世界197カ国の内11位だ。G7諸国の中では、日本はカナダに次いで第2位で、ドイツ、イギリス、イタリア、フランス、米国よりも高い。ジュビラー教授の言うように、日本は最も自由度の高い国である。
しかしわれわれが気付いていないことだが、問題は、自由、民主主義、基本的人権などの基礎になる最重要の指標とも言える、「報道の自由度(言論の自由度)」である。残念ながら、この面では日本は、韓国や台湾、南アフリカやケニアよりも自由度が低い。毎年「国境なき記者団(Reporters Without Borders)」が各国の報道の自由についてのランキングを発表しているが、2022年は調査対象となった180カ国の内、日本は71位で、G7の中では最下位だ。G7の中では1位はドイツ、2位カナダ、3位イギリス、4位フランス、5位米国、6位イタリアである。ちなみに、この報道における自由度評価の指標は1、政治的コンテキスト、2、法的枠組み、3、経済的コンテキスト、4、社会文化的コンテキスト、5、安全性である。
日本における報道の自由度の国際ランキングがこれだけ低い評価になるには幾つかの理由がある。わが国の主要紙やテレビの報道の項目や内容は、驚くほど似通っている。国外で生活した人はご存知と思うが、独裁国は別として、少なくともG7の国々の主要紙やテレビ報道は、日本ほど画一的ではない。わが国の報道が驚くほど画一的になる原因は、私は日本独自の記者クラブ制や、「番記者」制とか記者の「談合」などにあると思う。
記者クラブ制とは、中央や地方の官公庁、政党、業界団体などを取材するために、大手メディアが中心となる任意組織で、全国に800以上あると言われる。大球団や著名スポーツ団体などにも記者クラブ的な組織が生まれている。日本の記者クラブからフリーランスや外国人記者などが排除されていると、国際的にOECD(経済協力機構)やEU議会から是正勧告を受け、2009年以降、首都など一部ではフリーランスや外人記者も参加可能となった。しかし、全体としては現在も基本的問題は残っている。その結果、ニューヨークタイムズの東京支局長が指摘するように、「記者クラブは官僚機構と一体となり、その意向を無批判に伝え、国民をコントロールする役割を担ってきた」ということになる。また、与党や官僚の政策に対する野党的な立場からの批判も、単なる政策支持論の裏返しで、極めて画一的となる。
番記者とは、著名な政治家などに密着取材する記者のことで、政治家などと飲食を共にして親密度を高め、特ダネを取ろうとするので、当然情報の客観性は失われる。また記者の談合とは、重大情報を逃すという最悪の事態を避けるために、異なるメディアの記者同士が、どのような形で報道するかもまでも話し合うことだ。報道が画一的になるのも当然である。