公益財団法人日本国際フォーラム

ウクライナを侵略しているロシアのプーチン政権が先月下旬、平和条約交渉の「中断」を発表した。言うまでもなく日本の対ロ制裁に対する報復だ。いかにもロシアらしい予想通りの反応であり、驚くには値しない。それよりも愕然としたのは日本メディアの誤った報道ぶりだ。ほとんどの記事が、「北方領土問題を含む平和条約交渉」と、わざわざ「北方領土問題を含む」という言葉を付け加えて、報じていたからだ。これについては安全保障問題研究会の袴田茂樹会長が安保研報告3月号で詳細に解説している。内容が一部繰り返しになるが、見逃すことのできない深刻な問題であり、メディアに身を置くものとして、私見を述べてみたい。

ロシア外務省声明では「現在の諸条件下ではロシア側は日本との平和条約に関する交渉を継続するつもりはない」としている。あらためて確認しておきたいのは、プーチン政権は、平和条約交渉と領土交渉を明確に区別しているというポイントだ。日ロ間で領土問題は決着済みで、平和条約交渉は行っているが、領土交渉は一切行っていないという最も強硬な立場だ。したがって日本の報道では、ロシア側があたかも北方領土交渉を容認していることになる。これほど基本的な事実誤認があると、多くの日本人が日露関係の実態を根本的にミスリードしてしまうだろう。

最も重要な点は、ロシア側のいう「平和条約」は、北方領土問題を盛り込まないかたちでの日露間の基本条約だ。これほど身勝手な主張はない。日ロ間で国際法上残された問題は、北方四島の帰属問題の解決以外にないからだ。1956年の日ソ国交正常化交渉で平和条約が締結できなかったのも、領土問題で合意できなかったためだ。

つまりプーチン氏らの提案する「平和条約」は、本質的には平和条約ではないということなのだ。では彼らが構想しているのはいかなる「条約」なのか? それは冷戦時代のソ連時代からロシアが対日戦略の大目標としていた「善隣条約」あるいは「善隣友好条約」のような、領土抜きの条約だ。外交関係者や専門家には釈迦に説法だが、万が一こうした「条約」が締結された場合、日米同盟を弱体化させることなどを意図した、恒常的な内政干渉が可能となることは言うまでもない。

プーチン政権は、この方針に従って、日露(日ソ)関係に関する、基本的な歴史的事実をこぞって歪曲、捏造し、それを北方領土交渉に応じない根拠として、内外でプロパガンダ(政治宣伝)を積極的に行ってきた。2016年12月、東京で行われたプーチン氏と安倍晋三首相(当時)との共同記者会見での、異様ともいえるプーチン発言を思い出す。

プーチン氏は、日露関係の歴史について、偽情報をふんだんに盛り込んだ「解説」を日本政府や日本メディアの前で、臆面もなく滔々と述べた。安倍政権時代の宥和的な対ロ交渉の雰囲気を、これほど雄弁に物語る事実はないだろう。

あらためて確認しておきたいのは、安倍政権の対露外交で日本は大きな負の遺産を抱えたということだ。安倍氏の提案による2018年のシンガポール合意によって、交渉の基礎が東京宣言から日ソ共同宣言に移行した。北方四島の帰属交渉という枠組みではなく、二島引き渡しを最大とする枠組みに「退行」したのだ。また「新しいアプローチ」で、経済協力と領土交渉のリンケージを事実上、自ら断ち切ることになった。この二点は決定的な意味を持つ。

安倍氏は、プーチン氏との信頼関係構築を最も重視したが、過去の日露交渉の事例を見ると、圧倒的にロシア(ソ連)の内部要因が重要で、首脳同士の信頼関係が効果を発揮するためには、良好な内政、国際環境が前提条件だった。

安倍首相の度を超したともいえるプーチン氏への信頼に基づいた対露宥和路線には、今でも謎も残っている。ロシア側が、得意の「反射的制御」(Reflexive Control)、すなわち偽情報等や情報統御を通じて、相手の意思決定に作用する心理操作技術を用いた可能性は高い。対日工作に関しても全面的な検証が必要だ。

あらためて強調しておきたいのは、プーチン政権は、2012年後半から翌2013年初頭、再び対日接近に動いたという事実だ。この時こそ、東京宣言に基づいた四島交渉の土台を再構築する機会だった。そうすれば、ロシアが平和条約交渉と領土交渉を公然と区別するような事態には至らなかっただろう。譲れない一線として、四島の帰属問題の存在をロシア側に再確認させることが必要だったが、日本はロシアに押し切られ、貴重なチャンスを逃した。

しかしロシアは現在、ウクライナに対して、剥き出しの侵略戦争を行っている。日本の一部に、冒頭の外務省声明で「現在の諸条件では」とやや含みを残した表現がある点をもって、日本側に配慮したかのような珍解釈があるがナンセンスだ。プーチン政権は、状況が変化すれば、従来のような欺瞞的な対日交渉に回帰することに未練があるだけなのである。しかしそうした余地はもはや全くなくなった。日本政府が指摘するように、国際秩序を揺るがすプーチン政権との間では、平和条約交渉は不可能になったと言ってよいだろう。

日本政府は侵攻直後からG7と足並みを揃える本格的な対露制裁を発動。情報収集や工作活動をおこなっていたとみられるロシアの外交官と通商代表部の職員計8人を追放するなど、日本の対ロ外交も従来の方針から大きく転換した。4月22日に公開された2022年度版の「外交青書」でもウクライナ侵略を「人類が過去1世紀で築きあげてきた国際秩序の根幹を揺るがす暴挙」だと厳しく批判し「力による一方的な現状変更をいかなる地域でも許してはならない」と主張。北方領土について「日本が主権を有する島々であり、日本固有の領土であるが、現在ロシアに不法占拠されている」と明記し、2003年以来、19年ぶりに「不法占拠」という用語を復活させたのは、適切な対応だ。

交渉中断の状況を、シンガポール合意など、安倍・プーチン交渉がもたらした負の遺産をリセットし、日本の対ロ戦略を全面的に再構築する機会と前向きに考えるべきだ。専制体制のロシアとの外交では、宥和路線は墓穴を掘る。ウクライナ侵略を見るにつけ、我々はこの点を肝に銘じるべきだ。交渉の中断に落胆する必要は全くないのである。