公益財団法人日本国際フォーラム

共同通信は3月22日に、「ロシア外務省は21日、北方領土問題を含む日本との平和条約交渉を中断すると発表した」と報じた。NHKや朝日新聞、その他の日本メディアの多くも同様の形で報道したので驚いた。私はロシア外務省が「北方領土問題を含む日本との平和条約交渉」という言い方をするはずはないことを知っているからだ。

プーチン大統領は2005年9月に国営テレビで「第2次大戦の結果として南クリル(北方領土)は露領となり、国際法的にも認められている、これについて議論するつもりはない」と一方的な見解を述べていた。また2018年9月のウラジオストクでの「東方経済フォーラム」でも、安倍首相に向かって、「無条件で(領土問題の解決といった条件なしで)今年中にも平和条約を締結しよう」と述べた。つまり、現在のプーチン政権は「日露間に領土問題は存在しない」との前提で、平和条約を締結するという立場になっているのである。ロシア外務省が発表した声明文の翻訳を本【安保研報告】の資料篇に紹介した。そのロシア語の声明文には当然「北方領土問題を含む」という語はない。

私が問題に思うのは、わが国のメディアが、「近年のプーチン政権は日露間に領土問題が存在すること自体を否定している」という事実をきちんと報じていないことだ。あるいは、報道関係者がその基本的な事実をはっきり理解していないということだ。

ロシア政権は、日本との平和条約交渉とは4島の帰属問題を解決して平和条約を締結するという、かつてはプーチン大統領自身も認めていた「東京宣言」の立場を無視して、単に「協力関係を高めて平和条約を結ぶ」との立場に移行したのである。このことを、日本の多くの専門家もメディア関係者もきちんと説明していないし、理解していない。

それ故、シンガポール合意もしばしば誤解されて報道される。2018年11月に安倍首相とプーチン大統領はシンガポールで「日ソ共同宣言を基にして平和条約交渉を加速する」と合意したと報道された。わが国では、これを歯舞、色丹島の「2島先行返還論」とか、「2島プラスα論」と説明されることが多い。しかし、プーチンは56年宣言をたとえ認めたとしても、2島返還は拒否する発言をしている。

以下は、1956年の日ソ共同宣言第9条の関係部分である。

ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要請にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

これは平和条約締結後に、歯舞群島と色丹島の2島(面積で北方領土の7%)の返還がなされるとの合意であった。しかしプーチンは、2012年3月1日、朝日新聞の若宮啓文主筆やルモンド代表などとの懇談会で、「そこ(56年宣言)には、2島が如何なる諸条件の下に引き渡されるのか、またその島がその後どちらの国の主権下に置かれるかについては、書かれていない」と述べている。

これが詭弁であることは、自明だ。56年当時は、島を日本に引き渡すとは日本領土になることだと日ソ双方が理解していた。つまり2島の主権の引き渡しと理解していたのであるが、若宮主筆との懇談では事実上プーチンはそれを否定した。前述の2005年の彼の「第2次世界大戦の結果」論からすると、このような詭弁が出るのも当然のこととなる。

また56年宣言には、如何なる諸条件の下に2島が引き渡されるのか書かれていない、ともプーチンは述べた。つまり平和条約を結んでも、2島の引き渡しは条件次第、という意味だが、これも詭弁だ。というのは、第9条には、「……引き渡すことに同意する。但し……平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と述べられており、明確に引き渡しの条件は一つだけ、つまり平和条約締結と述べられているからだ。

ただ当時、朝日新聞はこれらプーチンの強硬な発言はすべて削除して、柔道用語の「ヒキワケ」「(交渉の)ハジメ」といった、一見柔軟と思える言葉だけをスクープとして大きく伝え、NHK、共同通信を始め他の日本メディアは全て朝日を後追いした。つまり、柔道家で親日家のプーチンは北方領土問題でも日本に対して柔軟な姿勢を持っているとのイメージが日本の首相や政府関係者だけでなく、メディアを通じて一般国民にも広がった。筆者はその時、ロシア政府のサイトに掲載されたプーチンの発言録を読み、日本の報道と全くニュアンスが異なることに驚いて、日経ビジネス・オンライン(2012年3月7日)にこの事を指摘した警告の記事を載せたが、残念ながらその影響は限られていた。

私がここで述べたいことは、プーチンは領土問題を日本側と真剣に交渉する意図は、2005年以後は(正確にはその数年先から)全く有していなかったということである。つまり、シンガポール合意を「2島先行返還論」「2島返還プラスα論」と言うのは、プーチンの論理を全く理解していないか、日本に少しでも期待を持たせて(幻想を抱かせて)経済協力などを進めさせる意図的発言ということになる。

したがって近年は、ロシア外務省なども、日露間には領土問題は存在しないと公然とのべているが、それはプーチンの意向をそのまま反映したものだ。ロシアにおける一昨年の憲法改定では、北方領土問題の存在を認めること自体、「領土割譲」問題を提起することにもつながって、犯罪扱いされかねない。

したがって最初に述べたように、ロシア外務省が、わが国で報じられているように、「北方領土問題を含む日本との平和条約交渉を中断する」などと言うはずがないのである。

このような報道が批判されるのは、状況が変化して日本が今日の対露政策を変更すれば、プーチン政権下でも北方領土交渉が進展するかの如き幻想を抱かせるからだ。ロシア外務省の声明が、「現在の諸条件下においては(в нынешних условиях)」と述べているのも、状況が変われば、日本の対露経済協力などの継続の可能性に含みを持たせているのだろう。

ロシアの日本専門家も、日露関係は以前から悪化しており、「平和条約交渉」の中断や「4島における共同経済活動」の中止は、実質的な意味は何もなく、単なる象徴的な意味しかない、と述べている(『独立新聞』2022.3.23)。つまり、「北方領土問題を解決して平和条約を締結する」ための交渉も「4島における共同経済活動」も実質的には行われていなかった、ということである。