ウクライナに対し国際法的にも人道的にも許されない侵略を続けているプーチン大統領(以下肩書省略)だ。不謹慎な言い方だが彼は、戦後「正規の軍隊」も持たず、世界的にも稀な平和主義を貫いてきた日本国民に対して、一つだけ大変良いことをした。それは、念仏のように「平和を」「戦争反対」と唱えていれば平和になると信じていた多くの日本国民に、「平和を欲するなら戦争に備えよ」との古代ローマの格言を想起させたことだ。もし10年前にわが国の誰かが、日本の防衛費を「対GDP比3%」と主張したら(長年1%以下だった)、間違いなく、気が触れた人と見られただろう。プーチンのお蔭で、わが国の防衛費は現在3%、欧州諸国の国防費は5%が目標となったが。
前置きはこれだけとして、侵略後に国連総会で141カ国から批判され、今もG7や民主主義国から制裁を受けている侵略国ロシアのプーチンを、民主主義の代表国とされていた米国トップのトランプが8月15日に、自国のアラスカに招待し赤絨毯の最高栄誉で迎えた。結果的に、世界から孤立していたプーチンに、大きな自信を持たせた。 トランプの野心は、「ウクライナとロシアの和平仲介」等でノーベル平和賞を受賞することと、不動産王としてロシアやウクライナで大規模な鉱山開発および不動産事業を展開することだ。このトランプの野心をしっかり見抜いているプーチンは、8月15日の会談でそれらの「餌」を使って米露関係改善を唱え、 トランプを誘惑した可能性が高い。 トランプは直後(18日)のホワイトハウスでのゼレンスキーと欧州首脳との会談で、ウクライナ和平に関し、「まずプーチンとゼレンスキー会談を、続いて私も加わっても良い」と述べた。
私が驚くのはプーチンとの近い関係を嘯くトランプが、プーチンがゼレンスキーと大統領会談をし、停戦合意とか和平合意をする意思が全くないということを理解していないことだ。つまりこの期に及んでも、ロシア・ウクライナ紛争の解決に関して、「プーチンとゼレンスキーの会談」に期待していることだ。
その理由の説明は難しくない。というのは、「カナダを51番目の米州にする」と平然と述べるトランプには、プーチンと同様、戦後の国際秩序の要、即ち「国家主権」や「領土保全」尊重の観念が全く無いからである。つまリトランプは、国際秩序の根本問題に関して、侵略者プーチンとほぼ同じ発想なのだ。換言すれば、領土問題などは当然ウクライナが少し譲歩すべきだし、そうすれば両国の問題など簡単に決着すると考えているのである。オバマの前までは自由世界の雄として国際秩序の保護者を自認していた大国米国である。その米国の今日の有様がこうであるとすれば、日本が自国の安全保障の要を米国の「拡大抑止(核の傘)」とみなすとしても、このような米国にのみ頼る危うさも、自ずと明らかになる。欧州諸国首脳は、ハンガリーやスロバキアなど一部の首脳を除き、ロシアの危険性や対露自衛の必要性を今は明確に理解している。残念な事ではあるが、この事を欧米諸国だけでなく、日本国民にも目に見える形で自覚させたのも、プーチンである。
私は、ロシア・ウクライナの首脳会談は、問題発生の当初からほぼ不可能と見ていた。理由は、プーチンがゼレンスキーを「ネオナチ」と断定し、その後も「任期切れで正統性なし」、「独裁者」と決めつけていたからだ。プーチンは2036年まで大統領の座に留まる可能性がある。彼がウクライナ大統領と会談するとすれば、ゼレンスキーが何らかの理由で大統領の座を誰かと代った後になるのではないか。
ただトップを除くロシアとウクライナの代表団は、これまで何回も会談をしてきた。しかし、トランプが両国の首脳会談を提案する度に、ロシア側は代表団の「格を上げる」と答えただけで、首脳会談には決して言及しなかった。それに関連したプーチン側近の関連発言をロシアメディアも伝えている。以下『MK』紙記事(8.20)より。
「プーチン大統領の対外政策補佐官ユーリ・ウシャヨフは次のように述べた。プーチン氏とトランプ氏は共に、ロシアとウクライナの代表団の直接交渉の継続は支持すると表明した。また、代表団のレベルを引き上げることも検討すると述べた。」
ラブロフ外相も次のように述べている。「我々は両国の会談の準備を、専門家レベルから始めて、段階的にすべての必要なステップを踏んで行う。これは、われわれが常に支持しているやり方だ。」これらの発言を受けて『MK』紙は次のように補足している。
「ロシア側代表団のトップがプーチン氏である必要はない。というのは、現代ロシアの権カシステムの「官位階級表」に従うと、歴史問題に関する大統領補佐官は、これまでのメディンスキー団長よりも位階の高い高官が多数存在するからだ。」
これらの記事を読めば、トランプが妄想するように、プーチン・ゼレンスキー会談での問題解決は不可能だということが分かる。
これに関連して、最近のロシアメディアに、気になる情報が掲載された。それはウクライナの「フィンランド化」に関する記事だ。以下、8月27日の『独立新聞』より。
「政治家や政治学者はしばしば『フィンランド化 финляндизация』という用語を使用する。隣国が大国で強国である場合に、それに政治的に依存するか、あるいは中立性を保つかという、国家主権の問題である。ウクライナは、現在の紛争を終わらせるために、定期的にウクライナのフィンランド化を進めようとしている。」
「フィンランド化」には単純化すれば、「否定的」、「やむを得ず」の2つの解釈がある。「否定的」解釈とは、「資本主義国、民主主義国でありながらソ連に服従した」との見解だ。「やむを得ず」の見解は、フィンランドはロシア革命前はロシア帝国の一部で、戦後はバルト三国や東欧諸国と同じ立場に置かれる可能性が極めて高かった。しかし1940、50年代のJ・パーシキヴィ大統領は醒めたリアリストとして、スターリンの関心は社会主義体制の拡大ではなくソ連の防衛にあると見抜き、ソ連の危機感を強める政策さえ控えれば、資本主義、民主主義を守れると見抜き、資本主義体制を守った、との見解だ。
私は、パーシキヴイに好意的だが、フィンランドは1939年の「冬戦争」でソ連に甚大な打撃を与えた。しかしウクライナは、2014年に戦わずしてクリミア半島を「奪われた」。当然、ロシア側の対応も異なる。この問題に関しては、欧州問題専門家に譲りたいが、「フィンランド化」に関して私が強調したいことは、フィンランドの資本主義、民主主義は、歴史的な与件つまり所与の事実ではなく、パーシキヴイの慧眼の結果、ということだ。ただ、フィンランドは戦後復興のマーシャルプランもNATO加盟も拒否して頑張ったが、言論の自由、即ちソ連批判の自由は自ら封じた。しかし侵略国と戦っている今のウクライナにそれらを求めるのは酷である。