ペレストロイカを実行したソ連のゴルバチョフ大統領(以下敬称略)が辞任し、その翌日ソ連邦が崩壊した(1991年12月26日)。以後、1999年12月末まで10年足らずエリツィン時代が続いたが、 トッドが言うように、まさにロシアは混乱と無秩序、アナーキーの時代で、伝統的規律感覚を根底に有している日本社会では想像できないカオスだった。
元共産党幹部だったエリツィンは、その後改革派指導者に変身して、ロシアを一挙に民主主義と市場経済の国にしようとしたのだが、結果はアナーキーな混乱時代となった。エリツィンは99年の大みそかの国営テレビ演説で、任期を残して突然辞任を発表したが、その時彼は、実際に泣きながら次のように国民に述べた。
「……私は皆さんに許しを乞いたい。それは、多くの夢が実現しなかったからである。……灰色の停滞した全体主義の過去から、明るく豊かで文明的な未来ヘー足飛びに移るという希望は実現しなかった。このことに対して、私は皆さんの許しを願いたい。私は、余りにもナイーブ(無知)であった。そして、問題はあまりにも複雑であった。」
人工衛星や宇宙飛行士を世界最初に打ち上げ国民の教育水準も高いロシアは、先進国にすぐ追いつくとロシア人たちは思っていたが、1990年代には発展した市場経済と民主主義体制ではなく、私が「屈辱の90年代」と呼んでいる大混乱が生じた。かつてソ連は対立する二つの世界陣営で、超大国の米国と対峙して覇を競った。その誇り高いソ連人にとって、90年代の欧米や日本からの「対露支援」は、「物乞い」に落ちぶれたようで耐え難い屈辱だったのだ。
ただし、その混乱の理由はトッドが言うように、「疑似宗教だった共産主義体制が消滅した」からというより、「国家そのものが消失」した、或いは「権力(統治)システムが崩壊」したからである。私は1967年から72年まで、ブレジネフ時代のソ連に5年間モスクフ大学大学院に留学し、中央アジアなどソ連の各共和国の人たちとも親密に付き合い、その後も毎年数回、ロシアや東欧諸国に足を運んで、旧社会主義国の人々の発想法やメンタリティを注意深く観察して来た。したがって、次のことは自信を持って断言できる。
つまリソ連においても、社会主義国となった旧東欧諸国においても、共産主義がトッドの言う「疑似宗教」の役割を果たしていたのではない、ということだ。ソ連、東欧などの共産主義国では、支配者も一般国民も、共産主義の理念を宗教のように信じていたのではなく、為政者はただ共産党を支配や統治の道具として利用していただけであり、また一般国民は、共産党政権下で、権力と衝突せず、利用できる場合はそれを利用して、共産主義の理念ではなくプラグマチックな利害損得で生きていたのだ。
例えば、ゴルバチョフ時代の初期、1986年に私が訪問した社会主義時代のポーランドでは、私が深く付き合った一般庶民の大部分はカトリックの信者で、心からそれを信仰し、共産主義は疑似宗教でさえもなく、単なる統治の手段と見ていた。隣国により国家が幾度も滅ばされたポーランドではドイツとロシアに、即ちプロテスタントとロシア正教会に挟まれ、カトリックは民族のアイデンティティを守るのに不可欠であった。共産党は公式的には無神論を標榜していた。
ただ、90年代はトッドが言うように、民主主義の伝統の無いロシア・旧ソ連諸国が一気に市場経済、民主主義体制を導入しようとして、アナーキーなパニック状
況に陥ったのは事実だ。ソ連が支配していた東欧諸国も統治機構がなくなり、相当の混乱に陥った。
これに関連する話だが、ソ連邦崩壊の約1年後に、米コロンビア大学人権問題センター長のピーター・ジュビラー教授が来日して講演し、食事時間に彼と二人で個人的に話し合う機会を持てた。テーマはロシア問題やイスラム問題とも関連して、基本的人権と民主主義、経済発展の問題などについてだった。最初は軽い雑談のつもりだったが、結果的に相当突っ込んだ議論となった。(以下、拙著『沈みゆく大国』 新潮社 1996年より)
私が、ロシアが欧米型の民主主義や人権思想をいきなり導入しようとしたことに間違いがあり、それが混乱を生んだと述べたことが、真剣な議論になったきっかけだった。私の論に対してジュビラーは、いやそれは逆だ、基本的人権や民主主義を導入しなかったが故に、混乱や経済停滞が生じたと主張したのだ。私は、韓国、台湾、香港などアジアのNIES諸国では人権思想は薄いが、当時混乱中のロシアや東欧より経済は急速に発展していると指摘した。いわゆる「開発独裁」を念頭に置いていた。これに対しジュビラーは、それは逆で、NIES諸国では人権思想が広まったからこそ、経済も発展したのだ、と言う。
私が、基本的人権や民主主義は、たいへん価値のある思想だが、それらは歴史的に形成された観念で、その意味ではフィクションでもあると述べた。この時は英会話だったが彼は日本語では虚偽・虚構とも訳される「フィクション」の言に引っ掛かったようで、それには同意できない、それらは極めて重要で「現実的な価値」だと強く反論した。
これに対し私は、文学や映画など真の芸術はフィクションだが、芸術は時に現実以上の現実性(リアリティ)あるいは真実性を持つと指摘した(拙著 『文化のリアリティ』 筑摩書房1995参照)。また日本の江戸時代や多くのイスラム国には基本的人権の思想は存在しないか希薄だが、独自のリアリティがあり、いきなり民主主義を導入するとかえって混乱を生むとも述べた。彼は、そうかも知れない。しかし問題は、例えばイスラム国の女性に自由があったかだと、やはり人権思想の立場から応じた。
それに対し私が、フロムの『自由からの逃走』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を挙げて、自由が苦痛になることもあると言うと、彼は即座に、イワンの言ですね、と言う。その通りと私は答える。さらに私が、マルティン・ルターの考えは、基本的人権という考えに合致しているわけではないと述べた。すると彼は、ルターの説く権力と民衆の関係はたしかに人権思想に合致していない。聖書のロマ書でもこの世の権力は全て神によるものであり、誰もが権力には服従すべきだと説いている、と話した。
結論として私は、①社会の安定 ②経済の市場化 ③政治の民主化は、本質的には何れも優劣をつけることができない同様に重要なことであるが、実践レベルではこの①②③の順番に実行せざるを得ないのではないか、と述べた。
以上がジュビラー教授との対話の核である。議論としては真っ向からの対立に思えるが、お互いに共通の認識を多く共有しながら生き生きと議論できたことに満足し、何かある種の爽快感を抱いた。彼が私に、米国に来る機会があったらコロンビア大学に寄れと誘ったのも、基本的人権や民主主義の問題を考えている米国の仲間たちと一緒に、私ともっと話そうという気持ちがあったからだろう。誘いは実現していないが、 トランプ、習近平、プーチンなどが政治的に象徴する現代世界においては、自由、民主主義、人権、国家主権、市場経済など歴史的に形成された概念の土台そのものが崩れている。
さて、最後にもう一度トッドの言に戻りたい。彼は、共産主義は疑似宗教で、その信仰が崩壊したから大混乱のパニックが生まれ、その混乱をプーチンが終わらせたと述べた。ではプーチンは共産主義という疑似宗教に替え、何をもって混乱を終わらせたのか。
今日のウクライナ問題を想起するまでもなく、プーチンのロシアが安定した民主主義国でないことは事実だ。しかし、90年代のエリツィン時代を体験したロシア人の多くは、当時と比べると少なくともプーチン時代は安定している、と口を揃えて言う。
私の結論を述べよう。ソ連時代もプーチン時代も、ロシアの為政者は疑似宗教として、共産主義でも人権擁護の民主主義でもなく、伝統の「ロシア愛国主義」「力による統治」に頼ってきたのである。歴史的には、帝政ロシア時代には「ポグロム」を、スターリン時代には「反コスモポリタニズム」を生み、プーチンも「法の独裁」、「垂直統治」を唱え、さらに「ロシア民族とウクライナ民族は同じ一つの民族だ」と述べて、この「ロシア愛国主義」を意図的に利用し、両民族を統一した国家と権カシステムを再構築しようとした。今日のプーチン政権による体制批判活動の禁止もウクライナ侵略も、その延長線上にある。
ただ、今の多くのロシア国民は、伝統のロシア愛国主義は有しながらも、同じ愛国主義を共有してきたと思っていたウクライナ人との現在の凄惨な戦争状態に、多かれ少なかれ戸惑っている。客観的にはプーチン流の「ロシア愛国主義」の当然の結果ではあるが……。
プーチン流「ロシア愛国主義」と「権力統治」に反発した約100万人のロシア人は(インターネット世代の有能な若者が多い)、ウクライナ軍事侵略直後に国外脱出した。
最近、フランスの有名な国際問題・八日問題専門家のエマニュエル・トッド氏が、日本の雑誌に載せた記事に、次のような論があった。
「1970年代にソ連崩壊を予言できた私も、その後のロシアの『狂乱(パニック)』状態は想像できなかった。共産主義は経済体制に留まらず、ロシア社会を一つにまとめていた疑似宗教だったことを理解していなかったからだ。この信仰が崩壊することで、ロシアの人々は、方向を見失い、プーチンがそれを終わらせるまで『苦難の時代』が長く続いた。」(『文藝春秋』2025年7月号 p.141-142 「ロシア・ハンガリーから愛をこめて」