1週間先の事態さえ予見できないほど目まぐるしく激変する現在の国際情勢を理解するためには、何十年も前の歴史書など無意味と思うのが当然だろう。しかし、このような常識に反して、ひと月前に私は、1974年に「ソ連邦の崩壊」を予言し、昨年94歳で亡くなったE・カレール・ダンコースの本を紹介した。今回は、彼女の著作よりも更に10年前に、世界的名作『ロシアへの旅』を著した南アフリカ生まれ・育ちでロシア・ウクライナ問題、さらには日本問題についても深く分析をし、ロシアとウクライナの対立の必然性を見抜いた人種差別反対の白人作家ロレンス・ヴァン・デル・ポストの考えを紹介する。以下は、彼のロシア、ウクライナ対立必然性の叙述だ。後で、彼の個人史も紹介する。
ポストは1960年代初にソ連を数か月旅行し、次の様にウクライナをロシアと対置する。
「ウクライナの4,200万の人間は、自分たちのスラブ語で読み書きし、自信に満ちた自尊心を持っている。またロシアに負けないウクライナ芸術の伝統もあり、強い自尊心を持っている。ウクライナ人は西欧人と同じく、個人の権利を第一に考える。これに対してロシア人は『サボール(集会)』『ミール(共同体)』を、また集団の指導者を第一に考える。これはアフリカ人(黒人)と同じで、アフリカ育ちの経験がなかったらロシアは理解できなかった。西欧人である多くのポーランド人は、ロシア人のことを『畜生』と呼ぶが、南アフリカの白人も、アフリカの黒人を『動物』としか見ない。アフリカ人とロシア人の自然人としての類似点は幾らでも挙げることが出来る。キエフの教会を中心とした都市は西欧の都市と同じく自然だが、初めて見るレニングラード(イタリア人建築家の設計)は、無理にロシアに押し付けられたようで、黒人のシルクハットの如く不自然だ。」
私のソ連経験からしても、1960年代、70年代のモスクワ大学大学院の知人、友人達は、ロシア人でありながら、欧米人以上に欧米の最新の芸術や文化、情報に精通していた。それは、ポストがレニングラードについて述べたと同じく、ロシアの一般的な雰囲気を代表するものではなかった。ポストはさらにロシアについて次のように述べる。
「ロシア人はアフリカ人に近い。私は黒人部族で本質的にソビエト体制を実践している部族を1ダースは知っている。アフリカでは共同体は部族の強力な中央権力者の手に任せられる。権力者は、絶対主義と民衆への親近感の混ざった不思議な政策を実践する。ソ連体制も先進的どころか極度に古風だ。それがアフリカ諸国民に対して持つ魅力の秘密は、マルクス主義の仮面の中ではなく、その自然主義的側面にある。」
今日の、グローバル・サウスのアフリカ諸国とロシアの結びつきを想起させる。ソ連体制の崩壊で、ロシア人とその体制が変ると見るのは間違いだと彼は指摘しているのだ。
スターリンが遂行した農業集団化は農民を苦しめたが、ポストは特にウクライナでの弾圧が最も酷く、集団化に反対して何百万の餓死者が出たと述べる。1942年6月にドイツ軍がソ連に侵攻した時、「当初は、ウクライナ人はドイツ人を熱狂的に迎え、何千、何万ものウクライナ人が投降したのは、ウクライナでの個人主義と、ウクライナ農民に対するスターリン政権の非情なまでの集団化政策のゆえだ」とも述べる。
これは、今日のロシアのウクライナへの対応と無関係だろうか。私には、ポストは今日のロシア・ウクライナ戦争の源流を的確に見抜いているのではないかと思える。
ちなみに、ポストの父はオランダ系、母はドイツ系の南アフリカ白人で、生まれた時から黒人と共に育ち、人種差別には一貫して反対してきた。また父は有力な知識人で、ポストは父所有の多数の世界文学を読み漁って育った。彼が20歳の時にはすでにジャーナリストだったが、南アフリカで親しくなった日本人船長と共に彼の船で訪日し、清潔で文化的な日本を理解するにあたっては、アフリカ人社会の知識は全く役にたたなかったと述べている。彼は1940年には英国軍に入隊し、1942年初頭、日本軍が東南アジアに侵攻した時、オランダ領インドネシアの連合軍に派遣されたが、連合軍は42年4月20日に日本軍に降伏、ポストは終戦まで日本軍の捕虜収容所へ入れられた。収容所内では酷い目にも遭ったが、しかし「収容所大学」「収容所農場」などを組織して名が知れた。英国人で日本の捕虜収容所に入れられた者は少なくないが、彼らの多くは酷い待遇ゆえに、その後も強い反日感情を有していた。しかしポストは収容所での日本人の行動も、人類学者的な目で観察して、日本人の欠点も長所も客観的に観察しようとしており、日本の社会や文化にも深い関心を有する親日家だ。彼は後に、自らの体験を通じたその深い国際理解により、イギリス政府首脳陣の政治顧問となり、現英国チャールズ国王が皇太子の頃は、彼の側近中の側近、チャールズの息子ウィリアム王子の代父にもなった。
なお、佐藤佐知子訳の翻訳『ロシアへの旅』(平凡社1974年)を、そのままの引用ではないが、参考にさせて頂いた。