世界におけるロシア研究第一人者のフランス人、エレーヌ・カレール・ダンコース女史が昨年8月5日に、94歳で亡くなった。
彼女は世界の学会でも最高の権威を有する「仏学士院」の終身議長、欧州議会議員、欧州中央銀行顧問、レジオンドヌール勲章受章、フランス、ロシア、その他多くの国のアカデミー会員や名誉博士号などを受けている、文字通りロシア研究の第一人者だ。彼女が亡くなったことと関連して私もダンコース女史について小文を複数書くことになり、久しぶりに彼女の幾つかの著書を読み返した。今日の視点から、彼女のロシア観やその今日的な意義について、本報告においても簡単に述べたい。
彼女は、1978年に『崩壊した帝国』を著し(邦訳『崩壊した帝国』高橋武智訳 新評論 1981年 増補版『崩壊したソ連帝国』高橋武智訳 藤原書店 1990年)、ソ連の崩壊を予言した歴史家として世界的に有名になった。本書の副題は「諸民族の反乱」であるが、彼女が強調したことは、1917年のボリシェビキによる十月革命後、1922年に成立した「ソビエト連邦」政権が最も力を入れた問題は、多民族国家のソ連において「ソ連民族」という新たな民族意識を形成することであった。彼女は本書では、国家としてのソ連邦崩壊について明示的には述べていないが、副題がすでにソ連という「ソ連民族」の形成に失敗した事、つまりソ連という国の崩壊を示している。フランス語版の表紙も、ソ連がバラバラになる印象的な図案だ。
実は、新たな「単一のソ連民族」という民族意識は、ロシアの歴史上一度は形成されている。それは、1941年6月22日にナチス・ドイツがソ連を攻撃し、ソ連国民が一丸となってナチス軍と戦った時期、すなわち1941年6月からナチス・ドイツが降伏する1945年5月迄の期間である。
それ迄のソ連は、およそ統一国家とは程遠い状況であった。レーニンが米国のウィルソン大統領と共に「民族自決」を認めたのは、逆説的だが、旧帝政ロシアの版図を守るためであって、ソ連内の諸民族の独立のためではなかった。つまり、旧ロシア帝政下の各民族は、ロシア人に完全に支配されていた。帝政ロシアに何十年も反抗して戦った、シャミールを筆頭とするコーカサス人を知っていたレーニンは、ボリシェビキの共産党政権下では何時でも独立が可能、つまり独立が許されていると知れば、諸民族は共産党政権をむしろ支持するとレーニンは考えたのだ。この問題についてレーニンとスターリンを対立的に捉える現在のプーチン大統領は、この点を充分理解していない。
2022年成立のソ連は、実際には民族意識がバラバラだっただけでなく、1930年代の大粛清の時代には、多くの共産党員や知識人、篤農たちが粛清された。つまり、共産党員でもオールド・ボリジェビキと称された古くからの共産党員は、知識人やユダヤ人が多数いたし、彼らの多くが欧米諸国で生活し、幾つかの外国語も習得していた。これに対して、1920年代後半から30年代にかけて、スターリンを支持して入党した共産党員たちは、その多くが教育と言っても工業専門学校を卒業していればよい方で、識字率が問題になるほどだった。芸術家や文化人たちも、欧州で最先端にあった19世紀末から20世紀初頭のロシア象徴主義やロシアの前衛芸術(ロシア・アヴァンギャルド)の洗礼を受けていた。しかし、マヤコフスキーのようにボリシェビキ支持者たちはやがて自殺したり、弾圧されたりした。共産主義の同伴者(シンパサイザー)たちも、第一回ソ連作家大会(1934年8月)で打ち出された「社会主義リアリズム」の反芸術政策(芸術家も知識人も、単なる政権の宣伝係とされた)には失望した。彼らの多くは、政権側からは退廃的ブルジョワ芸術家とか反人民主義者といったレッテルで粛清あるいは収容所送りとなった。農業面でも篤農は「クラーク」つまり「農村の資本家」とされ、やはり反人民主義者とされて追放、粛清され、ネップ(新経済政策)期の後の1920年代末以来の強制的農業集団化の結果、1930年代初めにはウクライナでも豊かな農業地帯ボルガ川周囲でも、数百万の餓死者を出した。つまり、ソ連邦はナチス侵攻以前には、統一国家の体を成していなかったのだ。ヒトラーの対ソ連攻撃の「お蔭で」ソ連は初めて単一国家となった。この事は、皮肉な言い方だが、プーチンの対ウクライナ攻撃の「お蔭で」、ウクライナが初めて統一国家になったことと比べられるかもしれない。
では、1945年5月のナチス・ドイツの崩壊で、ソ連はどうなったか。英作家ジョージ・オーウェルは1949年発表の小説『1984年』で、国民の日常生活まで完全に共産党によって統制し尽された共産主義社会の未来を描いた。これは、ロシア人作家エヴゲーニイ・サミャーチンが1921年に書いた反ユートピア小説『我ら』によく比せられる。将来のソ連邦あるいは「単一国家」では、政治、経済だけでなく、個人の食事から仕事、散歩、性生活まで全て完全に統制下に置かれる未来社会を描いたものだ。
ダンコース氏はソ連邦下での「諸民族の反乱」という、ちょうど逆の状況を描いた。なぜ彼女にそれが出来たのか。彼女はフランス生まれだが、父はジョージア出身、母はロシア人で、私も彼女と個人的な知己を得たが、ロシア語は自由であった。つまり、ロシアの歴史とロシア人の生活を、単なる研究者の知識としてではなく、リアルに認識していたからこそ、自ずとソ連崩壊が見えてくるのだ。私も1967年から72年までモスクワ大学大学院に留学し、その後も年に数回ソ連(ロシア)や東欧諸国を訪問して、ソ連(ロシア)の指導者たちから庶民に至るまで広く付き合ってきた。私の見た共産党支配下のソ連人の生活や行動は、共産主義の思想とは全く無関係で、彼らは皆、国家や組織の上部が強制する法や規則は、潜り抜けて生きるのが生活の知恵と心得ていたし、その実態をじっくり観察して来た。ダンコース氏もオーウェルなどとは逆に、「共産党のイデオロギーや指令に完全に支配されているソ連国民」ではなく、「民族の反乱」にしっかりと目を向けたのだ。
私が驚くのは、彼女の『崩壊したソ連帝国』(増補版 1990年)を読むと、今日のロシアとウクライナの対立を明快に予言するような認識も明快に述べられていることである。以下、その部分を紹介したい。
「ウクライナはロシアではありません。……ウクライナは急激なロシア化の脅威にさらされているのです。……ウクライナの作家イワン・ジューバは、彼の(ウクライナ共産党第一書記宛ての)公開状のなかで、ウクライナ民族は、プロレタリア・インターナショナリズムの圧力のもとではなく、変わらざるロシアの圧力のもと、絶滅の過程にあることを示したのです……その第一書記のシェレストも、1970年に『わがソビエト的ウクライナ』という本を発行しました。もちろん第一頁から彼は、ウクライナはソ連の一部だと指摘していますが、そのあとでウクライナの歴史を称揚し、ウクライナは民族国家であって、その歴史は継続すべきだと主張しています。……1972年にシェレストは姿を消し、そして彼の失脚と共に知識人や、古い歴史を持つ彼らの国を立て直すことが可能だと信じていた全ての人々の逮捕が始まりました。(p.508、509)」
これは、増補版に加えられたダンコース氏へのインタビュー記事「ソ連――マホメットがマルクスを脅かす」(同書p.491~512)からの引用である。このインタビュー記事の質問は端的で鋭く、著者の思考の本質が鮮明に現れている。そして、ソ連邦の崩壊だけでなく、まるで今日のロシア・ウクライナ戦争さえも予言したような記述である。別の場でも彼女はソ連指導部のウクライナへの対応を、戦車でチェコスロバキアの改革を潰した「プラハの春」に比している(増補版p.386)。
彼女にとってなぜこのような「予言」が可能となったのか。それは、目まぐるしく変わる時代の事象の表面より、ロシア史とロシア帝国、ソ連邦内の諸民族の歴史と心理構造を深く探求しているからだ。彼女と並べるのは僭越だが、ロシア及び旧ソ連邦研究の心構えだけは、小生も共有している。
以下は、2000年3月にプーチンが大統領選挙に勝利した後、5月の就任式の前、つまり4月に私が予想される「プーチン政権」の本質に関して雑誌に書いた記事の結びの言葉だ。当時プーチンは、ロシアは専制や独裁が蔓延るアジアの国ではなく、法が厳しく守られる文明的な西欧の一員であるべきだと強調し、「法独裁」という言葉さえ使用していた。欧米諸国はそれを歓迎し、「ロシア・NATO理事会」さえ立ち上げた。しかし私は、既に他の場でも紹介したが、プーチン政権化でもロシア国家の本質は簡単には変らないことを述べたつもりだ。
「国際社会としても、ロシアの法治国家確立の努力はむしろ支持しなくてはならない。……もし警戒するとすれば、今後プーチン政権がその基本課題の枠を超えて、反人権的で対外的にも危険な軍事国家や警察国家になる時である。もちろんこの可能性は排除できず、もしその兆候が現れたならば、そのとき国際社会は、あらゆるアプローチを通じてそれを阻止すべきなのである。ロシアという国は、われわれの国の物差しで計ってはならない。」
(袴田 『フォーサイト』 2000.4)