公益財団法人日本国際フォーラム

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みなさんは、「気候安全保障」という言葉をお聞きになったことがあるだろうか。

「気候安全保障」とは

「気候安全保障」とは、気候変動が遠因となって起きる紛争や暴動から国や社会を守ることである。

気候変動がもたらす異常気象、自然災害、海面上昇などの環境変化、あるいは脱炭素、エネルギー転換、地球工学などの対策は、複雑な因果のプロセスを経て、時に反政府暴動、民族紛争、内戦、さらには国家間の衝突につながりうる。特に、農業への依存度が高い国、低開発の国、ガバナンス能力の低い国などは気候変動の影響に対して脆弱であるため、これを遠因とする紛争や暴動のリスクもその分高くなる。(Sekiyama, 2022a)

日本は、気候変動の影響に対する適応力が比較的高く、また、激しい民族対立などの紛争の温床も国内にないため、気候変動が日本国内で内戦や大規模な反政府暴動を招く事態は想像しにくい。しかし日本も、①周辺海域における領有権や排他的経済水域を巡る対立激化、②アジア太平洋諸国からの気候移民の増加、③アジア各国を中心としたサプライチェーンや現地市場の損壊による経済低迷などによって、近隣諸国との衝突や国内治安の悪化といった事態に晒される可能性は十分ある。(Sekiyama, 2022b)

気候変動とともに顕在化する安全保障リスク

こうした気候安全保障リスクは、気候変動の影響とともに今後顕在化してくるものだ。また、気候変動による紛争や暴動のリスクには議論の余地があり、不透明なところもある。仮にそれが現実味を帯びてくるとしても、今日明日のことではない。

しかし残念ながら、気候変動は現実のものとなりつつある。

気候変動に関する最新の科学的知見をまとめたIPCC(気候変動に関する政府間パネル)第6次評価報告書によれば、世界平均気温は19世紀後半と比べて既に1.1度ほど上昇しており、年間降水量の増加や平均海面水位の上昇も加速している。近年、世界中で深刻化している干ばつ、猛暑、豪雨などの異常気象も、気候変動との関係が指摘されている。(IPCC, 2021)

気候変動の影響は今後さらに顕在化してくる。世界は今、2050年のカーボンニュートラル達成に向けて努力を始めているが、仮にこれが達成されても、今世中ごろ(2041~2060年)の世界平均気温は19世紀後半と比べて1.2℃から2.0℃上昇するという。カーボンニュートラルが達成できず、今世紀半ばまで現状の水準で温室効果ガスの増加が続く場合には、平均気温は1.6℃から2.5℃上昇する見通しだ。(ibid)

平均気温がたった2度上昇しただけで、気候変動前の19世紀後半には50年に1回の頻度でしか発生しなかったような異常な熱波の発生確率が13.9倍になるという。同様に、19世紀には10年に1度の頻度でしか起こらなかったような深刻な干ばつも、平均気温が2度上昇した世界では2.4倍発生しやすくなる。(ibid)

気候安全保障リスクは、こうした気候変動の影響とともに現実味を増してくる。それは今日明日のことではないが、気候変動は「脅威の乗数」として増幅的に社会の平和と安定を脅かしかねず、また、いったん歯車が動き出せば不可逆的かもしれない。環境政策の基本原則である予防原則(precautionary principle)に鑑みれば、気候安全保障リスクの存在を今から意識し、回避の策を先んじて講じておくことは、それほど馬鹿げたことではない。

国際社会で重ねられてきた議論

実際、気候変動に伴う異常気象や自然災害がもたらす紛争や暴動の脅威には、環境保護主義者のみならず、世界の安全保障専門家も注目している。

例えば国連安全保障理事会では、2007年以来、気候変動、資源・エネルギー・水の枯渇、生態系変化などの問題が安全保障に与える影響について議論を重ねてきている。またEUも、その共通外交・安全保障政策にかかる文書の中で、気候変動、自然災害、環境の劣化は、コミュニティの回復力や生命が依って立つ生態系に広範囲な影響を及ぼし、世界中で多くの紛争を招いているとの認識を示している。

政府機関のみならず、カナダのトロント大学、米国のスタンフォード大学、ノルウェーのオスロ国際平和研究所、スウェーデンのストックホルム国際平和研究所、シンガポールの南洋理工大学など、多くの機関が気候安全保障の研究を積極的に進めてきた。

世界の議論に乗り遅れてきた日本

この点、日本では、2020年代になるまで、ごく限られた例外を除いては、気候安全保障という概念が語られることはほとんどなかった。

実は日本も、当初は世界の流れに遅れることなく、気候安全保障の議論を始めていた。中央環境審議会の地球環境部会・気候変動に関する国際戦略専門委員会は、早くも2007年2月に気候安全保障の議論を開始し、5月には『気候安全保障(Climate Security)に関する報告』をとりまとめていたのである(環境省, 2007)。これは、前述のとおり国連安保理で気候変動の問題が初めて議論されたのと同じ時期であり、国際的に見て決して遅い動きではなかった。

しかし日本では、その後、気候安全保障に関する政策議論は続かなかった。例えば、2007年度から2019年度までの環境白書を見てみても、環境安全保障ないし気候安全保障という語は見当たらない。同様に防衛白書について1970年度から2019年度までの語句検索を調べてみても、環境安全保障や気候安全保障は載っていない。

こうした政策的な関心の低さを反映してか、日本では学術界でも気候安全保障への注目度は高くない状況が続いていた。国立情報学研究所の論文索引データベースCiNii Articlesで「気候安全保障」のキーワード検索をしたところ、検出された論文等は2001年から2021年の20年間の合計でわずか17件であった。近似概念である「人間の安全保障」の検索結果が1222件に上ることと比較すると、気候安全保障に対する日本国内の関心の低さが際立つ。

しかし気候安全保障は、日本が無視してよいほど重要度の低い問題ではない。

世界のどの地域も何らかの気候安全保障上のリスクに、それも複合的なリスクに、今後直面する可能性がある。だからこそ欧米各国は、気候安全保障に関する研究と議論を進めてきた。

日本は、そうした世界的な議論の流れに乗り遅れてきたのだ。

日本でも高まる関心

日本において、気候安全保障という言葉がしばしば聞かれるようになったのは、2021年ごろからだ。2021年4月には日本経済新聞と朝日新聞が相次いで気候安全保障をテーマにしたコラム記事を掲載した。両紙ではその後も度々このテーマを扱うコラムや連載寄稿が掲載されている。全国紙が気候安全保障を取り上げたことで、より多くの人がこの言葉を知ることになったことだろう。

防衛省も、2021年5月に省内で「気候変動タスクフォース」を新たに立ち上げた。同年8月末に発行した令和3年度版『防衛白書』では、「気候変動が安全保障環境や軍に与える影響」に一節を割き、同白書として初めて気候安全保障に言及している。

もちろん、2007年から2021年の間に、日本で全く気候安全保障の議論がなされていなかったわけではない。例えば2017年1月には、外務省が「気候変動と脆弱性の国際安全保障への影響」に関する円卓セミナーを開催している。また、2020年10月には、国立環境研究所の亀山康子・社会環境システム研究センター長と防衛研究所の小野圭司・特別研究官が、日本における気候安全保障論についてまとめた共著論文を国際学術誌に発表するとともに、「気候安全保障とはなにか」と題して記者発表を行った。こうした動きも、日本で再びこのトピックに関心が集まるきっかけとなったであろう。

また、2020年にはパリ協定の運用が開始され、翌2021年は米国がバイデン大統領の就任によって気候変動を外交安全保障の中心課題に据えるという国際的な動きがあった。加えて、国際財務報告基準を作成するIFRS財団が、企業による気候変動リスクの情報開示基準を作成する動きを2021年に始めたことも、日本で従来以上に気候変動問題への関心が高まった重要な背景の一つと言えよう。こうした一連の出来事が、2021年というタイミングに日本でも、気候変動のリスクについて官民の関心をにわかに高めることになったと思われる。

日本とその周辺諸国も今後、複合的な気候安全保障リスクに直面する可能性が十分ある。気候変動が「脅威の乗数」として増幅的に社会の平和と安定を脅かしうること、そして、いったん歯車が動き始めれば不可逆的かもしれないことを考えれば、日本も気候変動を遠因とする暴動や紛争を回避する努力に今から取り掛かるべきだろう。

日本でも今後さらに「気候安全保障」に関する議論が重ねられ、対応が進むことを期待したい。

<参考文献>

  • IPCC. (2021). Climate Change 2021: The Physical Science Basis. Contribution of Working Group I to the Sixth Assessment Report of the Intergovernmental Panel on Climate Change. Cambridge University Press, Cambridge, UK.
  • Sekiyama T. (2022a). Climate Security and Its Implications for East Asia. Climate. 10(7), 104.
  • Sekiyama, T. (2022b). Examination of Climate Security Risks Facing Japan [Paper presentation]. RSIS Roundtable on “Climate Security in the Indo-Pacific: Strategic Implications for Defense and Foreign Affairs” held by Centre for Non-Traditional Security Studies, Nanyang Technological University, Singapore, November 2, 2022.
  • 環境省.(2007b).『気候安全保障(Climate Security)に関する報告』