公益財団法人日本国際フォーラム

この12月20日に、1992年10月の天皇陛下訪中を巡る外交文書が公表され、わが国の各メディアも一斉に報じた。長年北方領土問題に関心を持って来た者として、竹島問題や尖閣問題にも関心を寄せて来た。尖閣問題に関しては、一つの強い疑問を持っていた。それは、1992年2月25日に中国が「海洋法」を制定し、尖閣諸島に対する中国の領有権を明記しているのに、それに対し日本側は、わが国の主権の侵害だとして毅然とした態度で中国批判をしなかったことだ。
 その理由だが、これまでの私の解釈は、その年の10月頃に戦後初の天皇訪中が予定されていたので(実際に10月23~28日に実行された)、それを穏便に実行することを優先して、日中関係に荒波を立てることを日本側(特に日本外務省)が避けたのだろうと思っていた。私は、天皇訪中を優先して主権侵害に事実上目をつむることは深刻な間違いであるし、そのような対中姿勢は後に深刻な問題を生むことになるとも懸念していた。それ故、たとえ天皇訪中を延期してでも、尖閣にたいする日本の主権を明確に主張し、「海洋法」(中国の国内法)が国際法に違反するものだと明確に中国批判をすべきだと思っていた。
 日本外務省自身がそのサイトに以下の記述をしており、これらの事実は私も知っていた。
 1920年5月に中国福建省の漁民31人が尖閣諸島に遭難した時、中華民国駐長崎領事は遭難民の救出に努力した八重山郡石垣村の人たちに感謝状を出しているが、そこには「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記されている。また1953年1月8日の『人民日報』には、琉球諸島は尖閣諸島を含む7組の島嶼からなると記載されている。1956年に中国の地図出版社が発行(60年に第2判)した地図においては、尖閣諸島を沖縄の一部として扱っている。また、駐日米軍は1950年代から尖閣諸島の一部を射撃場として利用していたが、中国側は異議を唱えていない。中国が尖閣諸島の領有を主張し始めたのは、1970年代以降で、その理由は1968年秋に国連機関が行った調査の結果、東シナ海に石油埋蔵の可能性が明らかになったからである。

中国側による尖閣諸島の領有権主張と、天皇訪中の微妙な関係について、今回の公表文書では詳しく述べられている。報道で見る限り、私の懸念は、残念ながら間違っていなかった。
 1976年5月以来の「外交文書公開の30年ルール」に沿った公表であろうが、複数のメディアの報道を興味深く読んだ。新聞報道を幾つかを取り上げ、最後に問題点を取り上げる。
◆『日経新聞』が第9面に「外交文書公開 1992 天皇訪中 最新の注意」との見出しで半頁の記事を掲載。天皇の「『お言葉』焦点化回避」「『尖閣は中国領』波乱要因に」など小見出しが3つほど付いている。要点は小見出し「外務相は中国に抗議しつつ、(尖閣問題を)過大視すべきではないとして対立回避に務めた経緯が浮かぶ」、「宮沢喜一外相は(1992年)4月、来日した江沢民氏との会談で尖閣を巡り『日中関係の大局に影響を及ぼさないよう中国側の協力を得たい』と要請し、江氏も日本に冷静化を求め、鎮静化で一致した」に尽きる。
◆『讀賣新聞』は、第2面に導入の記事として、「外務省、天皇訪中を優先。(中国の「領海法」の)問題化を避ける」との記事を載せ、第11面を「外交文書公開」の特別面として広告無しで全面をこの問題に宛てている。小見出しは、天皇訪中に関して「宮沢氏 煮え切らぬ対応」「自民党内に慎重論 板挟み」「(天皇の)『お言葉』中国と事前調整」となっており、尖閣問題があっても、対中対応に揺らぐ宮沢首相の態度に対して、外務省が主導で、わが国にも強かった天皇訪中に対する慎重論を抑え込んだ、との趣旨が前面に押し出されている。
◆『産経新聞』は、第1面に導入記事として「天皇訪中 中国、脅しと哀願」を掲載、第5面の広告以外の約7割足らずを、公開された外交文書に充てている。「天皇訪中『江沢民氏らの政治生命がかかっている』」「中国の権力基盤強化」「外務省、水面下 マスコミ工作」「共同通信社長に『覚悟してほしい』」との諸見出しがつく。ポイントは中国の首脳江沢民が天皇訪中に政治生命をかけていること、また日本外務省が、天皇訪中に関して賛否両論がマスコミで戦う状況になるのを抑えようとしていること、当時共同通信が書いた天皇訪中や従軍慰安婦問題などについての中国への厳しい記事等を強く批判していることを伝えている。
◆ 最も大きな紙面を割いているのは『朝日新聞』で、第6面と7面全部を広告抜きでこの問題に宛てている。見出しは「天皇訪中 屈折の1992年」で、小見出しは6つ、その中には「極秘外相会談『ギクシャクしない必要』『冷却期間を』」「『江沢民総書記の政治生命がかかっている』声を潜めた」などがある。最後まで精読すると、その結語に異様な感を受ける。

これらの報道で私が新たに知って驚いたことがある。それは、歴代の中国指導者の中で最も反日的で、日本人の歴史認識を強く批判し、その後も中国指導部や中国国民の反日感情を最も強めた江沢民が、1992年頃は、天皇訪中に彼の政治生命をかけていたという事実だ。
 その理由は2つある。一つは、1998年の天安門事件の後、中国は国際的に孤立したが、日本が最初に両国関係改善で「救いの手」を差し伸べた。その孤立状況の中で、天皇訪中による日中関係の良好化と中国国民が納得するような「お言葉」を天皇から頂くことが、江沢民、すなわち国際的に孤立した中国の首脳にとって、死活的に重要だったということである。
 私は1990-91年にかけて米プリンストン大学に客員研究員として滞在した。鄧小平が改革派を弾圧した89年の天安門事件の直後だったので、同大学に沢山いた柴玲など中国からの改革派亡命知識人だけでなく、各国の国際問題専門家たちからも、「日本はなぜ弾圧的な中国政府に救いの手を差し延べるのか」と詰問されたものだ。鄧小平は89年11月に引退し、江沢民が最高指導者となった直後で、江沢民がまだ反日姿勢を明確にする前、日本が天安門事件で世界から批判されている中国との経済交流などを、欧米に先だって復活した直後だった。また「領海法」や天皇訪中問題が浮上する直前でもある。
 今日では、江沢民が対日政策で果たした否定的役割は十分知られている。ただ、驚くのは、朝日新聞が2頁全面を使った記事の最後を、天皇訪日後の92年12月に、駐中国日本大使を離任する橋本恕に江沢民が述べたとされる次の言葉で結んでいることだ。
 「国際情勢は複雑だが、中日両国人民は相互に尊重し、貿易・科学技術などの面で協力を維持することが双方の利益に合致する。矛盾があれば、率直に意見交換をすれば解決できる。その時に解決出来なくても、最終的には解決できる。」
 朝日新聞が江沢民のこの言で長大記事を結んでいることは、彼やその後の中国指導部の政策をあたかも肯定評価しているかのようだ。ロイターは江沢民の死にあたって、彼の政策については中国の近代化を推進したとすると共に、「新聞の論説委員から西部の少数民族まで、社会の安定を脅かすとみなされた勢力をことごとく抑え込んだ」と述べている(2022.12.1)。