ロシアが、国際法秩序維持に最も大きな責任を負う国連安保理常任理事国でありながら、他国を軍事侵略して国連そのものを破壊している。そのロシアが国連憲章を引き合いに、自国の行動を正当化している。
この9月10日に、インドにおけるG20首脳会議の後、プーチン大統領の代りに出席したラブロフ外相が記者会見で、国連憲章の「領土保全」と「自決権」に言及し、後者がより重要だとして、ウクライナへの軍事侵略を正当化した。この問題に関しては、既に2006年6月1日に、ロシアが外交の重点を領土保全から自決権に移した時、私は強い懸念を抱いた。この時プーチン発言は無いが、明らかに彼の決定だ。「自決権重視」は、実際はロシア軍の統治下で強行する「住民投票」を口実に、ロシアが周辺諸国やその一部を併合(或いは傀儡政権樹立)する可能性があるからだ。わが国の外務省やロシア問題専門家たちにもその危険性や問題点を伝えメディアでも論じたが、私の懸念に対しては理解を得られなかった。
今日のロシア・ウクライナ戦争の最重要の背景を今日の視点から再論し、ウクライナ戦争の今後を考えたい。ちなみに、この9月11日にロシアとオンライン会議を行った時、プーチンに近い国際政治学者でプーチン主催のヴァルダイ会議を仕切ってきたF・ルキヤノフ氏に、2006年6月1日のロシアの外交政策転換について知っているかと尋ねたら、覚えがないと言う。ただ、9月のG20でのこの問題に関連するラブロフ発言は知っているとのこと。
ロシア政権の領土保全から自決権への外交政策転換こそが、その後のジョージア戦争、「クリミア併合」、今日のロシア・ウクライナ戦争やウクライナ東南部4州の「ロシアへの併合」の根源なのだが、国際的だけでなく、ロシア国内の最高の専門家でさえ理解していない事が判明した。ちなみに、2007年のミュンヘン安全保障会議でのプーチンの対西側強硬発言は有名で、故ダンコース女史も含めこれをプーチン外交の転換点と見る専門家は世界に多いが、寡聞にして2006年6月1日の外交転換の重要性に注目した人を知らない。
国連憲章では、第1章第1条第2項で、「自決権の尊重による世界平和の強化」が強調され、第1章第2条第4項で、「国際的な武力侵攻は、領土保全と両立しない」とされている。ラブロフはG20首脳会議後の記者会見で次のように述べた。(以下、筆者抄訳)
「西側はウクライナ問題になるとすぐに、知的議論ではなく、ロシアの侵略の終結と、ウクライナの領土保全を要求する。国連憲章においては重要事項が順番に述べられており、領土保全に関しては、諸民族の自決権の後に述べられている。私達が述べてきた事だが、2014年2月にキエフでクーデタが生じた時(訳者注、所謂マイダン革命)、最初のファシスト政権はウクライナでのロシア語の国家言語廃止を宣言した。これが、その後の事件の『引き金』となった。クリミアやドンバス(ドネツク、ルハンスク)の住民は、そのような国に住むつもりはないと憤慨した。つまりキエフ政権がそれ自体の領土保全を崩したのだ。国際法の原則に関する国連宣言では、政権が国民の自決権を尊重し、全ての住民を代表している国々の領土保全の尊重を述べている。2014年2月のキエフでクーデタを起こした者は、クリミア住民やウクライナ東部の住民の代表だとは決して言えない。……このようにキエフ政権自らが、自国の領土保全を崩壊させた。そして、国連憲章と国際法に完全に一致した形で、国民の自決権が発揮されたのである。」
ラブロフの言とは異なり、マイダン革命の最大の「引き金」となったのは、親ロシア派のヤヌコヴィッチ大統領が、経済難の中で進んでいたEUとの連合協定をロシアの圧力で拒否した事にある。たしかにバルト三国におけるように国語問題もあるが、ラブロフは最大の論点を無視し、「キエフのファシスト政権」自らが領土保全を崩し、国連憲章でもより重要とされている自決権が行使されただけだ、ロシアの行動は国際法にも一致していると強弁している。勿論、経済的に困窮しているウクライナでのヤヌコヴィッチの腐敗体質や彼の豪邸については、全く無視の態度だ。
かつてはプーチン自身が、自決権よりも領土保全を重視していた。1991年のソ連崩壊後、1990年代のエリツィン時代は、政治、経済、社会は大混乱で、ソ連邦に続いて、ロシアがバラバラに分解する可能性があったからだ。エリツィンは共産党が強い影響力を持つ下院に対抗して、上院の地方の知事たちに大きな権限を与えた。つまり、ロシア連邦の分解が現実のものになると懸念されたので。だからこそ領土保全に力点を置いた。
ロシア連邦分解の懸念が無くなったのは、プーチンが大統領に就任した2000年に、偶然だが国際エネルギー価格が急上昇して高止まりし、資源大国のロシアはオイル・ガスマネーで潤って、2003-6年に大国としての自信を取り戻したからだ。2年後のジョージア戦争の時になるが、地政学的にも「特殊権益圏」との概念を使用して旧ソ連・東欧諸国への野心を強めた。
2006年6月1日の『イズベスチヤ』は、ジョージア問題に関して、「われわれは領土保全の原則に敬意を払っている。しかし、ジョージアに関しては、今のところ、領土保全は可能性の状態で現実ではない。南オセチアの基本的立場は、自決権に基礎を置いている」として、プーチン政権が外交方針の重点を領土保全から自決権に移したことを報じた。その結果、ジョージア内の南オセチア自治州やアブハジア自治共和国も、2008年のジョージア戦争(ロシアの軍事侵攻)の結果「独立国」、実際はロシアの傀儡国となった。
「クリミア併合」も「ウクライナ東南部4州の併合」も、自決権に基づく「住民投票」の結果として実行された。カザフスタンなどロシア人が多い旧ソ連や、東欧とかスウェーデン、フィンランドなど中立国だった北欧諸国が、ロシアを警戒したNATOに加盟するのも当然だ。