公益財団法人日本国際フォーラム

ロシアのウクライナ侵略に始まる、ロシア・ウクライナ武力紛争問題を如何に解決するか、侵略開始後3年以上経つが、日本だけでなく世界のメディアが連日のように報じている。実際の軍事侵略の開始は2022年2月24日だが、それ以前からプーチン大統領はロシア・ウクライナ国境近辺にロシア軍を集結させ、世界に緊張が高まっていた。その当時から一部では、ロシア・ウクライナ問題解決の一方策として、「ウクライナのフィンランド化」という提案もあった。私はそれに必ずしも賛成ではないが、簡単に説明したい。

例えばロシアによる軍事侵攻の直前、2022年2月初めに、フランスのマクロン大統領はロシアとウクライナを歴訪している。その訪間中に彼は両国間の緊張への対応として、ウクライナを「フィンランド化」してはどうか、と述べたとされる。それに関する記者団の質問に彼は「机上の案の一つ」と述べながら「その言葉は使っていない」と弁解した。ただ、仏メディアによると、「フィンランド化」という言葉でなくても、「フィンランドのように中立化する案がある」と周辺に語ったという。(『日経新聞』2022.2.9)

本来は、本稿でウクライナの「フィンランド化」が、紛争解決に何らかの意味を持つか考えたいのだが、その前に、冷戦時代から中立国フィンランドのEU加盟(1995年)、あるいはNATO加盟(2023年)まで使われてきた「フィンランド化」とはいったい何を意味するのか、明確にしておかなくてはならない。少しでも詳しく述べると、それだけで本稿は終るが、重要な問題だと思うので、先ず、フィンランド化に関し私見を述べる。

一般に「フィンランド化」とは否定的か軽蔑的な意味合いで、「民主主義国、資本主義国でありながら、ソ連(ロシア)に盲従する国、あるいはソ連に操られている国」という意味で使われてきた。NATO諸国ともワルシャワ条約諸国とも、等しく友好的に交流する中立的な独立国という、ポジティブな意味合いで使われることはほとんどなかった。

例えば中曽根康弘元首相は、まだ冷戦中の1983年6月の参議院選挙の際、「日本は何もしないでいるとフィンランドのようにソ連のお情けを乞うような国になってしまう」、「うっかり手を出したらひどい目にあうという状態にしておかないと平和は守れない」と述べて、在日フィンランド大使館から注意喚起を受けた。ちなみに、「うっかり手を出してひどい目にあった」のは、「冬戦争」(第1次ソ連・フィンランド戦争 1989。11-1940.3)でフィンランドを攻撃したソ連の方である。フィンランド兵が雪の中で同国を侵略したロシア兵を猛攻撃したことはソ連側の全くの予想外の出来事で、歴史的な語り草になっている。

私がこのネガチブな「フィンランド化」の概念に関して納得出来ないことは、「民主主義国、資本主義国でありながら」という認識だ。民主主義国とか資本主義国とかいう事実がフィンランドに関して、あたかも所与の事実として当然のことのように語られているからである。フィンランドの歴史を少しでも学んだことのある人は、同国が第2次大戦後今日まで一応「民主主義国、資本主義国」として残存していること自体が、ある意味で奇跡的だということが分かるだろう。その事を理解するためには、次の2点を知る必要がある。

第1に歴史的に見るとフィンランドは、かつてはロシア帝国の一部であった。すなわち、いわゆるボリシェビキ革命以前の帝政ロシア時代には、同国はロシア帝国のフィンランド大公国だった。したがって、後の多くの旧東欧諸国以上に、スターリン時代には社会主義化してソ連の一部になっていても不思議ではなかった国なのだ。

第2に、戦中から戦後にかけ(1944-56)フィンランドがソ連の一部にも社会主義国にもならなかったことに決定的な役割を果たした同国の首相。大統領のJ.K.パーシキヴィの、当時における対ソ連・対スターリン認識を知る必要がある。当時は、冷戦が始まった頃で世界中において、ソ連のスターリンが目指しているのは共産主義体制を世界に広めること、少なくとも、ソ連の周辺に社会主義国という緩衝地帯をつくることだと考えられていた。

しかしパーシキヴィは、スターリンの目標は先ず何よりもソ連邦の絶対的な安全の確保であり、その安全性さえ確信させれば、たとえロシアの隣国でありかつてはロシア帝国の一部であったフィンランドでさえも、ソ連の一部にならず、共産主義国でもなく、民主主義・資本主義国としての立場を維持できると確信した。当時としては異例のリアリスト的発想だ。彼の政策はU・ケッコネン大統領に引き継がれた。戦後フィンランドは米国が欧州に提供した復興支援マーシャルプランも、喉から手が出るほど欲しかったが断念した。

パーシキヴィは親ソ的な左翼ではなくむしろその反対だということは、彼の経歴を少しでも調べれば明らかだ。彼は1870年に帝政ロシアのフィンランド大公国に生まれ、1946年3月に第7代大統領になった時は75歳だった。ヘルシンキ大学で法学博士号を取り、青年期に政治活動も始めたが、親露派ではない。ロシア帝国内の全ての地域でロシア語を公用語として教える政策にも反対した。1910年にはフィンランドの国会議員になった。1917年のボリシェビキ革命には反対し、当時フィンランドでも内戦になったが、彼は立憲君主制の完全な独立国にしようとして自衛軍側につき、1918年には首相となった。ドインの支援を受けて立憲君主制のフィンランドを立ち上げようとしたが、ドインが破れてフィンランド王国は実現しなかった。つまり彼は、根っからの保守派政治家なのである。

簡単にパーシキヴィの略歴を述べたが、私が述べたかった事は、彼の大統領時代の「親ゾ政策」は、共産主義やソ連体制へのシンパシーからではなく、醒めたリアリストとしての現実主義的結論であった、ということだ。フィンランドの外交官M・ヤコブゾンの弁によると、彼が米国のケネディ大統領と会見した時、ケネディは、フィンランドが何故バルト三国や東欧諸国のようにならなかったのか、理解できないと述べたという。(M・ヤコブノン著、上川洋訳『フィンランドの外交政策』1979 日本国際問題研究所)