公益財団法人日本国際フォーラム

1987年3月12日開催された設立発起人会・祝賀夕食会

伊藤 憲一

日本国際フォーラムが設立満10周年を迎えるにあたってわたくしがまず感ずることは、「よくここまでやって来られたなあ」ということであります。それはとりもなおさず、会員および関係各位のご理解とご支援の賜物であり、そのご信頼にどれほど応えることができたかを思えば、内心忸怩たる思いを禁じえません。と同時に痛感するのは、「光陰矢の如し」ということであります。思えば、あっというまに過ぎた10年でした。最近よく「日本国際フォーラムというのは、どういう目的や経緯で設立されたのですか」と聞かれるようになりました。当時の記憶がしだいに薄れるにつれ、当然の成行きかもしれません。それだけに、この機会を借りて、わたくしなりに設立の原点を回顧しておくことも必要かと思い、この一文の筆をとってみた次第です。

日本国際フォーラムは、1987年3月12日都内のホテルに12名の代表発起人、51名の発起人、39名の来賓の皆様が参集し、設立発起人会を開催して、これを設立しました。代表発起人のなかから大来佐武郎氏が初代会長に、服部一郎氏が初代理事長に、そしてわたくしが初代専務理事に選任されました。また、来賓を代表して倉成正外務大臣から期待を込めた祝辞が述べられました。外務大臣から正式の設立許可を受理したのは、4月28日でした。

初代会長(1987~1993)
故 大来佐武郎

じつをいいますと、この設立発起人会に先だってちょうど1年間にわたる設立準備活動の期間がありました。その話を少ししてみたいと思います。 「ちょうど」といいましたのは、まったくの偶然なのですが、日本国際フォーラム設立の構想が初めて具体的に検討されたのは、外務大臣の設立許可のあった日のちょうど1年前の1986年4月28日だったからです。欧米各国にあるような民間・非営利・独立の外交国際問題のシンクタンクを日本にもつくらなければならない、とかねて痛感していたわたくしは、この日大来先生をその事務所に訪ねて、相談しました。わたくしがそのような問題意識をもつにいたった背景としては、わたくしは当時、米国の戦略国際問題研究センター(CSIS)の東京代表や民間国際交流組織の四極フォーラム日本会議の事務局長をやっておりまして、欧米の外交国際問題のシンクタンクが市民社会の側から、つまり民間・非営利・独立の基本的立場から発言しているのに対して、日本には真の意味でそのカウンターパートとなるような性格のシンタンクがほとんど存在していないように思われ、そのことがこれからの国際社会における日本の発言力を弱めてゆくことになるのではないかと懸念されたからでありました。

わたくしは大来先生に最初の私案を説明しましたが、そこではじつはシンクタンクの名称案は「財団法人日本対外戦略研究所」となっておりました。大来先生はただちにわたくしの提案に賛成され、会長就任を約束してくださいましたが、同時に「日本では戦略ということばは誤解を招きやすいので、日本対外政策研究所としたほうがよい」とのアドバイスもしてくださいました。曲折をへて、最終的には現在の名称に落ち着きましたが、なにかにつけて先生のご指導なしには今日の日本国際フォーラムがありえなかったことを痛感しております。わたくしが「民間・非営利・独立」ということに加えて、もう一つ欧米のシンクタンクから学びたいと思っていたことは、それを学者・研究者だけの集まりにするのではなく、経済界、政界、言論界、官界など各界のオピニオン・リーダーに広く参加してもらい、相互に共通のことばで議論をし、その成果を政府や世論に訴えてゆくという、開かれた市民社会のシンクタンクという役割の追求でした。最終的な名称が、「研究所」ではなく、「フォーラム」になったのは、そのような意味合いを込めてのことでした。

初代理事長(1987)
故 服部一郎

ところで、経済界の人びとにも積極的に参加してもらうとすれば、大来、伊藤の二人に加えて、経済界からもだれか強力な推進者となる同志を得る必要があるということで、先生とわたくしの意見は一致しました。わたくしの意中のひとは、セイコーエプソン社長の服部一郎氏でした。服部さんとはそもそもは戦略国際問題研究センターや四極フォーラムの仕事をつうじて知り合ったのですが、いわゆるうまが合うというのでしょうか、わたくしにとっては心を許せる数少ない相談相手の一人でした。服部さんから頼まれて、お嬢さんが聖心女子大を卒業されたあとは、青山学院大大学院のわたくしのゼミにお預かりもしておりました。このようにして、わたくしは5月14日に服部さんをお訪ねしましたが、いくらなんでも、服部さんから財団設立に必要とされている基本財産の全額を出してもらえるなどとは夢にも想像しておりませんでした。あくまでも複数の個人や法人から分担して出してもらうことを考えていたのです。ところが、30分ほどもわたくしの話に耳を傾けていた服部さんの口からは、つぎのような驚くべき即答が出てきたのでした。わたくし自身が一瞬わが耳を疑ったというのは、ほんとうの話です。

「伊藤さん、これから会費の負担もお願いしなければならないのに、基本財産まで皆さんに出資を依存するというのでは、話がむずかしくなる。ここはひとまず設立当初必要な2億円を、わたしが個人で全額出しましょう。伊藤さんの考えには、わたしもまったく同感です。きっと立派なものを創ってくださいよ」と。

大来、服部、伊藤の3人でじっくりと打ち合せをしたのは、6月13日でした。設立に力を合わせていただける方がたを集めて設立準備人会を組織すること、および諸般の設立準備事務を担当する事務局を開設することを決めました。これまでの経緯からいって、設立準備事務局の事務やその経費は伊藤憲一事務所が引き受けることになりました。ところで、ことの成否は趣旨に賛同して年1口100万円の法人正会費を払ってくれる法人正会員を何社獲得できるかにかかっていました。そのためには経済界において絶対的信用のある方に設立準備人会に入っていただき、その方の影響力にすがる必要がある、ということも合意されました。

このようにして、新日本製鐵社長の武田豊氏のお力を借りることになりました。じつをいうと、わたくしども夫婦は武田さんご夫妻に仲人をしていただいておりました。わたくしと武田さんとのご縁は武田さんがまだ富士製鐵の秘書課長をしておられたころに遡ります。もちろん当時はわたくしも外務省の一番下っ端の事務官にすぎませんでした。でもああいう、包容力のあるお人柄の方ですので、大変可愛いがってもらいました。わたくしが武田さんを社長室にお訪ねして、法人正会員獲得の進行状況を報告しますと、「じゃ、つぎはだれそれに頼もう」といって、わたくしの目の前で各社のトップにつぎつぎと電話をかけてくださるのでした。如水会(一橋大学同窓会)の縁を頼って三菱化成社長(のち日経連会長)の鈴木永二氏にも設立準備人会に入ってもらいました。設立準備人会にはお入りになりませんでしたが、トヨタ自動車社長(のち経団連会長)の豊田章一郎氏にも、いつものように陰に陽にご支援をいただきました。東京電力社長の那須翔氏も同様です。お二人とも現在は日本国際フォーラムの理事です。

そのほかにも、いちいちお名前はあげませんが、いろいろな方のお力をお借りしました。そのおかげでやっと迎えることができたのが、1987年3月12日の設立発起人会でした。もうお一人、設立準備人会へのご参加は11月末と遅く、このため設立準備過程ではあまりお力をお借りする時間がありませんでしたが、発足後、とくに服部初代理事長が急逝されたあと、つぎつぎと起こる難問に途方に暮れていたわたくしを終始一貫励まし、無条件で支えてくださった読売新聞社副社長の水上健也氏のお名前を忘れるわけにはいきません。想いかえせば、当時そしてその後、お力やお知恵を貸してくださったすべての方がたのお顔がつぎつぎと網膜に浮かんでまいります。そのようなすべての方がたへの心からの感謝の念を込めて、ことば足らずですが、わたくしなりに設立の原点を回顧させていただきました。今後とも日本国際フォーラムによろしくご支援を賜わりたく存じます。ところで、「守成は創業よりも難し」と申します。わたくし個人といたしましては、10周年を迎えるにあたり、しっかりとした事務局体制を育てあげるとともに、できるだけ早くよき後継者をえて、日本国際フォーラムが天下の公器としての使命を果たし、その設立にかかわったすべての方がたの期待に応えつづけてゆく基盤を確立することを望んでおります。それこそは、日本国際フォーラムに対するわたくしの最後の責任であると思っております。

1997年7月

理事長
伊藤 憲一