8月は憂鬱な月である。まず猛暑だが、最近は酷暑であり、体温を上回る気温に生命の危険を感じる日々である。しかし、なんといっても、8月は終戦の月と称されるが、第二次大戦敗戦の月であり、すべての日本人に、1945年8月の苦い記憶を思い起こさせる。

1945年夏の日本は連合国軍の熾烈な攻撃の前に沖縄を失い、空からの攻撃に逃げまどい、東京をはじめ多くの都市は焼け野原となり、飢餓に苦しんでいた。7月末のポツダム会議は降伏したドイツの処理とともに、日本に対する降伏勧告が米、英、中の首脳から発せられた。特に、ルーズベルト大統領の後を継いだトルーマン大統領の姿勢は強硬で、宣言は「日本が降伏しなければ、ドイツの徹底的荒廃をはるかに上回る力で日本の国土を完全に破滅させる」とした。トルーマン大統領の高姿勢は、マンハッタン計画で核爆弾を7月に完成した力を背景にしていたが、ソ連・スターリン書記長にも誇示していた。鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言受け入れに傾いたが、陸軍の反対が強く、宣言を黙殺したところで、8月6日の広島への原爆投下、8月8日のソ連の侵攻を挟んで、8月9日の長崎への原爆という悲劇に襲われる。

日本の8月上旬はいつも、原爆の悲惨な思い出に覆われる。人類初めての原爆による一瞬の、大規模な言語を絶する多数の殺戮、都市の消滅がある。さらに、その後の長期にわたる放射能被害があり、半壊の浦上天主堂教会など、日本の受けた悲惨な思い出が日本を覆い隠す。そして、原爆投下の非人道性に憤りを世界に発信するが、米国は戦争継続による日本の犠牲を少なくしたと抗弁する。さらに、残念ながら、軍部が中心ながら日本の犯した満州事変、支那事変を経て、第二次大戦に至る戦争責任を正当化できない引け目がある。東京裁判の苦い思い出がある。

さらに、8月15日の降伏に向けての過程が毎年待っている。原爆という新型爆弾惨劇の後も、連合国の攻撃の続く中、陸軍の抵抗が強かったが、もめた8月14日の御前会議での天皇陛下の聖断により、ポツダム宣言受諾が決まった。8月15日の玉音放送も、軍部反乱の厳しい障害を越えて行われたが、宮城の広場はうずくまる人波で満たされた。

毎年、8月15日は、この敗戦の惨禍を記憶し、310万人の御霊を慰撫する行事が行われるが、3様に分かれる。第一は、今年も政府主催の戦没者追悼式が日本武道館で行われ、全国民の黙とうがあった。天皇、皇后両陛下が参列され、深い反省を含むお言葉を賜り、高市首相も追悼の辞を述べた。第二の、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は海外で亡くなった軍人、一般人の無名の遺骨をお祭りするもので、本年も今上天皇、高市首相の献花があった。

第三は、靖国神社だが、明治以来の軍人、軍属の戦没者を祭り、1975年迄は天皇陛下のご臨席もあった。しかし、その後政教分離や戦犯合祀などを経て陛下のご関与はなく、この間、靖国参拝への国際的批判もあり、最近の歴代総理は参拝を控える方が多くなった。高市総理も、遥拝に止めたが、多くの自民党幹部は高市首相に意を受けて礼拝したとした。主権国家にある神社への参拝が、諸外国から批判を受けるのは異常だが、中国、韓国からの批判は継続している。

小生は、1945年当時は中学2年生で、第8師団にある弘前で、本土決戦に備えた塹壕堀に苦戦していた。玉音放送の意味は理解できない部分が多かったが、福士校長の涙とともに「今日は帰宅しろ」の発言が印象的だった。その後は、精神茫然の状態となったが、空襲への恐怖はなく、月日は過ぎていった。

8月が憂鬱な月なのは日本人の戦争責任観に関係していよう。ドイツでは第二次大戦はその残虐行為を含め、徹底してナチの責任だとし、一般国民には責任がないとする。しかし、日本では戦争責任の多くは軍部、政治指導者としながらも、なお一般国民にも事態を防げなかった、消極的参加もしたと、責任を感じている面がある。一億総懺悔の言葉はそれを表している。8月が憂鬱の月なる所以は日本人が戦争責任を部分的にしろ、感じているためといえるのではないか?

1945年の8月も15日を過ぎると変化が見える。もちろん、中国やアジアでの日本軍の降伏が続き、マッカーサー元帥の日本入りがあり、9月2日は降伏文書への署名があった。この間、ソ連の侵攻は、満州、朝鮮、樺太、千島と9月まで続き、数十万の日本人がシベリアに抑留されることになる。しかし、ソ連の東欧・ポーランドの共産化の中で、米ソ対立は顕在化する。当初厳しかった米国の対日政策は急速に緩和に向かう。

さらに言えば、アジアでは、日本軍消滅のなか、8月以降,インドネシア、ベトナムの独立宣言など独立の波が高揚していった。