(1)犠牲者家族、生存者、国境沿いの住民からの証言

本プログラムでは、ガザ戦争で人質となり死亡したイスラエル国防軍軍人の家族、2023年10月7日にハマスから最も激しい攻撃を受けたキブツであるKfar Azaの生存者、NOVAフェスティバルの生存者、北部国境(レバノン/シリア国境)周辺で生活している住民等から証言を聴取した。そのうちの一部は以下のとおりである。なお、以下は証言の趣旨を損なわない範囲で、発言内容を整理・再構成したものである。
※以下「10.7」という。

(イ)キブツKfar Azaの生存者(男性)による証言

10.7の攻撃から数日後にキブツに戻ったが、その時の状態をたとえるなら、「肉が大量に入った冷蔵庫の電源を切って、1年間放置し、久しぶりに開けたときの臭い」のようだった。

このキブツの大半の住民は、平和を信じ、平和を望んで生きてきた人たちである。私の両親がここに住むことを選んだ理由も、そして私たちがここで暮らすことを選び続けてきた理由も、まさに「平和を信じているから」だった。本当に、平和だけが唯一の道である。私たちは暴力のループにも、憎しみの連鎖にも関わりたくない。その証拠に、ガザの人たちの中には、長年このキブツで働きに来ていた人たちがたくさんいた。しかし10.7以降、その「信頼」の感覚は一瞬で崩れ落ちた。信頼を築くには何年もかかるのに、壊れるのはほんの一瞬だった。

攻撃されたKfar Azaの家屋

攻撃されたKfar Azaの家屋

私はイスラエルに何代も続く家系で、祖母の家ではアラビア語で話していた。つまり私は、この土地に深く根を持つ家族に生まれ、ずっと「共存」を信じてきた。フェンスや壁がなかった頃のガザとの関係も覚えている。ガザから友人がロバに野菜を積んで売りに来たこと、自転車でペンキ塗りの仕事に来たこともあった。彼らを私が幼いころから知っていて、「昔はこうして一緒に暮らせていたのだ」という記憶がある。だから私は知っている。共存は不可能ではない。かつてできていたのだから、できるはずだと。でも私は、この世界の大きな流れを変えられるほど大きな存在ではない。海岸の砂のひとかけらのような、小さな存在である。ただ、できる限りのことはしたい。

10.7の朝、このキブツにいたのは約600人だった。自警団の一人がいつものように畑へ行ったとき、ガザから飛来するエンジン付きパラグライダーを目撃した。その後すぐに、ガザから大量のロケット弾が撃ち込まれた。後になって分かったが、それはキブツの人々をシェルターに閉じ込める目的だった。そしてその間に、約300~350人の武装した襲撃者が、境界線を越えてキブツへ攻め込んできた。

驚いたことに、襲撃者はキブツに住む家族構成、例えばどの家に何人子どもがいるのか等をかなりの精度で把握していた。確かではないが、多くのガザ住民が長年このキブツで働いていたため、家の構造や家族の状況を目にしていた可能性がある。加えてSNS、住民から盗んだスマートフォン等、様々な情報源があったものとみられる。つまり攻撃は偶然ではなく、完全に「計画された襲撃」だった。

自警団は戦い始めたが、想像を超える数の襲撃者が流入したため圧倒的に不利だった。午後4時頃まで、ガザからキブツへ襲撃者が「自由に出入り」する状態が続いた。襲撃者は家に侵入して人質を連れ出し、家の車を奪って人質を押し込み、車でガザへ戻り、また戻ってきた。

各家庭にはシェルターがあったが、シェルターはロケット弾から守る設計であるため内側からロックできない構造になっており、侵入を防ぐ作りではなかった。多くの家族はこれが原因で殺された。また、襲撃者がイスラエル国防軍の制服を着て「救助だ」と言いながらシェルターを開け、住民を殺していた例もあった。自分たちはシェルターを塞ぎ、絶対に開けなかったため生き残った。その後、攻撃開始から約22時間が経過してようやくイスラエル国防軍が襲撃者を制圧し、私たちは助けられた。

あなた方も含め、ここに来る方々から多くの質問を受ける。「家を修復したら、またここで暮らすのか」と。正直に言うと、「戻らないほうがいい」に決まっている。しかし、ここは私の心であり、私の物語であり、私の人生そのものだ。海沿いの都会で一見完璧な生活を与えられても、私は「自分の土地」と感じられない。ここで私は育ち、ここで祖父母が暮らし、ここで友人が命を落とした。たとえまた血が流れたとしても、私はこの場所と繋がっている。

(ロ)NOVAフェスティバルの生存者(女性)による証言

NOVAフェスティバルには友人2人と来た。NOVAはトランス系の国際的音楽フェスで、毎年規模が大きくなり、当時は約3,500人が参加していた。イスラエルでは1,000人規模のパーティーでも大きいのに、ここはその何倍もいる特別なイベントだった。私たちは金曜の夜に到着し、ダンスフロアで踊り、テントエリアで休みながら朝を迎えた。

10.7の朝、音楽が止まり、ロケット弾が撃ち込まれてきた。ただ、この地域ではロケット弾は珍しくなかったので、最初は誰も深刻に考えていなかった。しかし少し時間が経って、警察から急ぎ避難するよう呼びかけがあった。駐車場は一つしかなく、車がぎゅうぎゅうに詰まって大混乱だった。その後、複数方向から銃声がし、襲撃者たちが近づいてきていることが分かった。周囲の車はすべて放棄され、誰もいない。警官たちも倒され、私たちも車を放棄して走って逃げるしかなかった。

道路に出た瞬間、四方八方から銃弾が降り注いだ。どこから撃たれているのか分からず、ただ祈りながら車と車の間を這って進んだ。襲撃者は、車の下に隠れている人を見つけると銃撃し、それでも隠れている場合は手榴弾を投げ込み、車ごと爆発させていった。私は「死んだふり」をする以外に生き残る道がなかった。気づくと、別の襲撃者が顔に触れて覗き込み、「死んでいる」と判断したようだった。その後、私は意識を失い、2~3時間後に目を覚ました。周囲には、私の友人2人も含め、皆が亡くなっていた。私は目を開けることもできず、ただ祈ることしかできなかった。

しかし次に最悪の状況が訪れた。襲撃者が道路脇の木々に火をつけ、炎が迫ってきた。熱さで焼かれそうになり、私は覚悟した。そのとき、道路に放置されていた1台の車に気づいた。私は走り出し、後部座席の足元に潜り込み、毛布をかぶって丸くなって隠れた。そこから数時間、「いつドアが開いて殺されるか分からない地獄」を過ごした。やがて数人の生存者が集まり、私を別の動く車まで連れていき、救助拠点まで逃げることができた。

あの日からの4か月間、私はずっと「この世界でいったい何が起こっているのか」を理解しようとしていた。私はしばらく家には戻れず、現場や支援拠点で過ごした。私が立ち上がれたのは、息子の存在があったからである。

インターネットを開けば、証拠はいくらでも目に入ってくる。TikTok、Telegram、何でも。10.7以降、この出来事に関する映像を目にしなかった人はいないはずだ。それなのに世界ではデモが起こり、「パレスチナを守れ」と言う人たちがいる。でもこれは宗教の問題でも、土地の問題でも、政治のスローガンでもなく、もっと剥き出しの「憎悪」そのものだと感じている。私は決して「世間知らず」ではなかったと思う。ここで生まれ育ち、ロケット攻撃もテロもずっと経験してきた。それでも以前は、「これはごく一部の過激な人たちの問題で、いずれ上のリーダー同士が話し合えば共存の道が開けるはずだ」と、どこかで信じていた。しかし10.7に目にしたものは、そのイメージを完全に壊した。
 たとえば、こんな録音がある。ある襲撃者が夫婦を殺したあと、その女性の携帯電話を使って父親に電話をかけた。彼は殺した女性の携帯から電話して、自分は英雄だと誇らしげに家族に語る。父親も母親も「誇りに思う」と答えている。これは「土地を解放するための自由の戦い」という物語ではない。そういう物語に押し込めて語れるようなものではなく、もっと深い病理、憎悪と狂気だ。

ハマスは、20年以上にわたって「イスラエルがパレスチナ人をこんな状態に追い込んでいる」と世界に訴えてきた。しかし実際に手にしてきた資金や支援を、彼らは人々を守るために使わず、トンネルや武器のために使ってきた。ガザは本当に小さなエリアなのに、いまだに新しいトンネルが見つかり続けている。地中にはビルのような構造物が造られ、そこに資金が注ぎ込まれている。その一方で、一般の人々には防空シェルターもサイレンも用意されていない。イスラエルでは私の家にもシェルターがあり、ミサイルが飛んでくれば警報が鳴る。しかしガザでは、母親が料理をしているときに突然爆弾が落ちてくる。そして指導部は、その状況を変えるために何もしない。市民を守るためのシステムを作らない。その結果、私たちも攻撃され、彼らの側もまた大きな被害を受けている。でもそれは、指導部が自分たちの人々の命を守ることよりも、戦いを選び続けているからだと私は感じている。

(ハ)北部国境(レバノン/シリア国境)周辺住民(男性、国防軍予備役)による証言

イスラエル最北端の町メトゥラ(Metula)は三方向をレバノンに囲まれており、10.7以降の戦争中、町の約40%がヒズボラのロケットで損壊された。ヒズボラは生活インフラや牛の放牧地、アボカド畑などを攻撃した。これは、この地の農業を成り立たなくさせ、住民を国境から離していくという狙いであろう。しかし自分たちは、戦闘後すぐに建物やインフラの復旧を行った。

(レバノン側の町を見ながら)レバノン側で家が潰れているところは、ヒズボラがそこからロケット弾を発射していた家である。家が無傷のところは一般市民の家(キリスト教、スンニ派、アラウィー派など)であり、そこにはイスラエル側から攻撃が行われていない。イスラエルの目的はあくまでも「レバノンを破壊すること」ではなく、「ヒズボラを国境から押し下げること」であり、インフラ(上下水道・電気)を意図的に壊すことはしない。将来、レバノンの人たちがまともな生活に戻れるようにしておきたい。

イスラエルにとってレバノンは敵ではない。テロ組織であるヒズボラが敵である。ヒズボラの多くはレバノン出身ですらなく、イランなど外部から来た戦闘員である。レバノンの人の多くは「静かな生活」を望んでいると考えている。自分たちも、機会があればまたレバノンを旅行したいと思っている。

1980年代初めまで、レバノンはキリスト教徒が多数派の国で、1970年代末にはアラブ連盟の中でも「イスラエル寄り」の立場を取ることもあった。国境に住むイスラエル人は、昔はよくレバノンに買い物や観光に行っていた。1982年にヒズボラが設立され、レバノン側の国境沿いの農家に行き、自衛のためとして住民から収入の約2~3割を徴収するようになった。また、レバノンはアヘン・大麻栽培で世界上位クラスの生産地であり、それが大きな資金源となっていたが、ヒズボラはそこからも「みかじめ料」を課して資金を集めた。1980年代中頃からロケット弾でイスラエル北部を砲撃開始し、その後今に至るまで戦闘が続いている。

国境にはUNIFIL(国連レバノン暫定軍)が駐留しているが、あくまでも監視・報告が役割であるため介入はしない。過去、UNIFILのすぐ近くでヒズボラがイスラエル兵を攻撃・拉致したことがあったが、彼らは介入できなかった。

自分たち北部の住民は「子どもにコンクリートの壁を見せて育てたくない」と希望し、南部の分離壁のようなコンクリート壁ではなく、フェンス+カメラ監視で国境を防御している。今後、まずは“Peace”ではなく“Quiet”が必要だ。いま2025年の現実では、「平和」を期待するより、まずは「静かな生活」を目指す方が現実的だろう。国境に「コンクリート壁」をつくることは、相手に対して「あなたは敵だ」と宣言する象徴になるので避けたい。個人的な意見ではあるが、宗教的な「歴史的領土回復」は求めていない。今ある国境を維持し、この中で子どもを川で遊ばせ、馬に乗って、静かに暮らしたいと思っている。もし政治的・宗教的に領土を広げれば、戦争は終わらない。それは望まない。

(2)Or Heller(軍事関連ジャーナリスト)、外務省、国防省等でのブリーフ・意見交換で得られた内容の要点

本プログラムでは、Or Heller(軍事関連ジャーナリスト)、国防省、10.7の際にハマス戦闘員が侵入して作戦室が焼かれ、若い国防軍女性兵士が多数死亡・拉致されたNahal Oz基地、外務省、クネセト(国会)のBoaz Bismuth外交防衛委員会委員長、イスラエルの軍事・防衛関連企業であるRafael Advanced Defense Systems等を訪問し、各種ブリーフを受けるとともに意見交換を行った。その主な概要は以下のとおりである。なお、固有の個人が特定され得る情報は、プライバシー保護の観点から省略した。

(イ)10.7におけるイスラエル側の重大な失敗

複数の関係者から、10.7の攻撃はロケット弾数千発による大量攻撃と同時に、地上・海上・空(モーターパラシュート等を含む)からの多方面侵入が行われたこと、ガザ境界のフェンスが破壊され、侵入者がキブツや民間地域、軍基地に突入した結果、多数の民間人虐殺および人質拉致が発生したこと、イスラエル軍・情報機関は本件を「重大な失敗(intelligence and security failure)」と認めていること等が言及された。失敗の背景としては、北部やヨルダン川西岸からの脅威に注意・部隊展開を集中していたこと、重要な祝祭である「シムハット・トーラー(Simchat Torah)」の最中であったこと等が挙げられた。

(ロ)イスラエルが直面している複数の「戦域(arena)」

複数の関係者から、イスラエルが恒常的に複数の「戦域(arena)」への対応を迫られている旨が言及された。それらは人により若干異なるものの、「南部(ガザ)」「北部(ヒズボラ)」「西岸(West Bank)」「イランの(支援を受けた)代理勢力」「イラク」「アフリカ」「サイバー領域」「国際世論」等である。

 つまりイスラエルの脅威は「単一の敵」ではなく、「複数の独立した戦線(arena)」が同時進行で存在し、かつそれぞれが異なる主体・ロジックで動くものであるため、例えばガザの戦争が沈静化してもレバノン(ヒズボラ)が動く可能性は残り、レバノンが静かでも西岸では別の武装勢力が動く、またイランは代理勢力を通じて紅海やシリア等から攻撃を継続し得る。さらに仮に軍事攻撃が止まっても、国際世論において批判を受け続けがちである、という趣旨であった。

これらを踏まえると、イスラエルは単一戦争国家というより、多戦域国家(multi-arena state)であり、一つの紛争が終結しても別の戦域が動き続ける結果、常に何らかの対応を迫られ続ける、という構図が示唆される。

(ハ)日本との安全保障関連分野の協力

複数の関係者より、日本とイスラエルのドローン関連を含む先端技術分野における協力への期待が言及された。イスラエルはIron Dome(アイアンドーム)やDavid’s Sling(デビッド・スリング)等の防空技術で知られるが、近年は「迎撃ドローン」や「妨害ドローン(Drone Interception)」を含む対ドローン領域が世界的に重要性を増している。

この点については、日本においても北朝鮮・中国・ロシア等による各種ドローンの活用を念頭に置いた対応が課題となりつつあり、日イスラエル間の技術協力は有益となり得る。今後、イスラエルの防衛関連企業(IAI、RAFAEL等)と日本企業との間で研究協力や共同開発、あるいは運用・訓練面での交流が進む可能性も示唆された。

なお、イスラエルでは軍を退役した人材がスタートアップや防衛関連企業へ流入している点が、技術・産業基盤の強さの一因である旨も言及されていた。

(ホ)イラン、ロシア、中国の結び付き

イラン、中国、ロシアの三国間の結び付きが脅威となる可能性についても言及された。イランと中国は経済・安全保障の両面で急接近しており、イラン最大の貿易相手国は中国である。中国はイランの原油を安価に輸入し、これはイランにとって主要な収入源となっている。中国がイランに肩入れすれば、核問題・テロ支援問題に関する国際的圧力が弱まる可能性がある。

またロシアとイランは軍事面で協力が強く、イランはロシアに多数のドローンを提供し、ロシアは対価としてイランに軍事技術を提供している。今後、イラン・ロシア・中国の結び付きが強化されれば、対イラン制裁の実効性が弱体化し得るとの見方が示された。

(3)所感:人質解放に向けたイスラエルの意識

本プログラムにおいて参加者より、イスラエルが国際世論から厳しい批判を受ける状況にあっても、なぜ10.7以降ハマスとの戦争を継続し得たのか、という趣旨の問いが投げかけられた。これに対し、イスラエル側からは一貫して、10.7で拉致された人質の「解放」が完了するまで、という強い決意が語られた。例えば、人質となり死亡したイスラエル国防軍軍人の家族からは、「たとえ0.01%の可能性であっても、生きて健康な姿で戻ってくるのなら、世界中をひっくり返してでもその可能性に賭ける」という言葉も受けた。

本プログラムを通じて現地を視察し、証言を聴き、様々な立場の人々と意見交換を行う中で一貫して感じたことは、イスラエル国民が拉致された全員の解放を自分たちのこととして捉えている点であった。この理由を「団結が強い」といった簡単な解釈で理解することは難しい。他人の苦しみを自分のこととして捉えることは、完全ではなくても、そこにある悲劇を共に引き受けることを意味するからである。こうした国民感情に思いを致さなければ、「なぜ強硬な姿勢を取るのか」「なぜ軍事作戦をやめられないのか」「なぜ内政・外交が『人質問題』を軸に動くのか」といった問いへの答えを見出すことは困難なのではないか。すなわち、「被害者一人ひとりが国民全体の家族である」という心理を理解せずにイスラエルの行動原理を説明しようとすると、齟齬が生じ得る。

また現地では、イスラエルおよびそれを取り巻く国際環境の複雑さを痛感した。例えば距離一つとっても、テルアビブから車で数時間で南部のガザ地区に到達し、北部ではレバノン国境に至る。四方を海に囲まれた日本から、この地理的近接性に基づく脅威認識を体感的に理解することは容易ではない。

さらに、イスラエルとハマスの対立の原因として、古代イスラエルの歴史や、イスラエル建国を巡る英国の「二枚舌(三枚舌)」外交が言及されがちであるが、こうした遠い過去のみならず、イスラエル建国以降から今日に至る歴史的・国際的状況も併せて考慮しなければならないだろう。改めて、イスラエルおよび中東国際政治の複雑性を痛感した。「理解できていないこと、そしていかに理解が困難であるかということが理解できた」というのが、率直な感想である。

以上、文責事務局