(1)北極の環境変化と戦略的重要性の上昇

北極は北緯66度33分以北の地域を指し、米国、ロシア、カナダ、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、アイスランドの8か国が北極圏国を構成する。北極海の面積は約1,400万平方キロで、日本の国土の約40倍に相当する。近年、北極では地球上の他地域と比べて速いペースで温暖化が進行しており、海氷面積が急速に減少している。海氷は冬季に拡大し夏季に縮小するが、年間最小面積の推移を見ると、北極海では毎年北海道と同程度の面積の海氷が失われているとされる。海氷減少により、天然資源の採掘や北極海航路の利用が現実的な選択肢となりつつある。北極には世界の未発見の天然ガスの約30%、石油の約13%が存在するとされ、「エネルギー資源の最後のフロンティア」とも呼ばれている。こうした環境変化は、北極を単なる周縁地域から、国際政治・安全保障上の重要地域へと押し上げている。

(2)協力の制度化と「北極例外主義」の崩壊

冷戦末期の1987年、ゴルバチョフ書記長よる北極の平和利用を訴えるムルマンスク演説を契機として、北極における多国間協力が進展した。1996年には北極評議会が設立され、軍事安全保障を除く環境問題や持続可能な開発などが協議されてきた。2021年には中央北極海での商業漁業を当面控える国際協定が発効し、北極における協力の象徴と位置づけられた。2014年のロシアによるクリミア半島併合以降も、北極では協力が比較的維持されてきた。この状況は、北極が他地域の紛争や対立から切り離されているという認識を生み、「北極例外主義」と呼ばれてきた。

しかし、2022年2月のロシアによるウクライナ全面侵攻を受け、北極評議会のロシアを除く7か国が会合ボイコットを宣言し、評議会は事実上の機能停止状態に陥った。さらに、フィンランドとスウェーデンがNATOに加盟したことで、北極圏8か国のうち7か国がNATO加盟国となり、ロシアとNATO加盟国が対峙する構図が形成された。これにより、北極は協力の空間から対立の空間へと性格を大きく変化させた。

(3)主要アクターの北極戦略と相互関係

ロシアは北極を戦略的資源基盤および国家安全保障の要と位置づけている。北極海沿岸にはロシアの石油・天然ガス資源が集中しており、北極海航路は欧州とアジアを結ぶ重要な輸送路として開発が進められている。また、北極にはロシアの核戦力の中核を担う北方艦隊が展開しており、その核戦力を守るために要塞化を進めている。2007年に有人潜水艇を使って北極点の海底にロシア国旗を立てたことは象徴的な出来事である。ウクライナ侵攻後も空軍・海軍の戦力は維持されており、2024年時点で32か所の軍事拠点を北極圏に保有している。

中国は1990年代以降、砕氷船の取得や科学観測を通じて北極への関与を拡大してきた。2000年代以降、観測拠点の設置や北極評議会オブザーバー国としての参加を通じて存在感を高め、2010年代には北極政策文書を公表し、自国を「近北極国」と位置づけた。これに対し、北極圏諸国や米国では警戒感が強まり、中国の関与は一部で停滞した。

ウクライナ侵攻後、西側諸国はロシアに対する制裁を強化し、北極での資源開発プロジェクトも対象とした。その結果、ロシアは資金や技術面で制約を受け、中国との協力を拡大する動きを見せている。安全保障面では共同航行や演習、経済面では航路開発をめぐる協力が進む一方、エネルギー価格交渉や歴史問題、領土認識などをめぐる不信感も依然として残っている。

米国は北極戦略を相次いで打ち出してきたが、砕氷船などの基盤整備は限定的であった。近年は北極におけるプレゼンス拡大を再び重視する動きが見られ、特にグリーンランドの戦略的重要性が強調されている。グリーンランドはデンマークの一部であり、米国による関与の強調や領有に言及する発言は、デンマークを含む欧州側の警戒感を高めている。

(4)スヴァールバル諸島の重要性

北極における緊張の焦点の一つが、ノルウェー領スヴァールバル諸島である。同諸島は1925年発効のスヴァールバル条約によりノルウェーの主権下に置かれる一方、締約国国民に居住・経済活動の権利を認めている。このため、ロシア国営企業が炭鉱拠点を維持しており、ロシアとNATO加盟国が同一領域内で共存する特異な空間となっている。条約は戦争目的での利用を禁じており各国常駐軍を置かない現状が続いているが、ロシアによる軍事パレードや正教会の建設など示威的な動きが緊張を高めている。

また、グリーンランドをめぐる米国の関与強化は、デンマークを含む欧州諸国との間に摩擦を生じさせており、北極情勢に米欧関係の不安定化が影響する可能性も指摘された。

北極は対立の海から平和の海へ、そしてウクライナ侵攻で分断され、再び対立の海へと戻った。さらに、中国をはじめとする域外アクターの関与や、米欧間の緊張が重なることで、北極は二極的対立にとどまらず、多極化し、より複雑で不確実な安全保障環境へ向かう可能性が高まっている。

(文責、在研究本部)