12日間戦争が浮き上がらせた中東の現実
2025年8月26日
杉田 弘毅
共同通信客員論説委員/明治大学特任教授
イスラエルと米国による6月の対イラン攻撃「12日間戦争」はイランの核問題を決着させていない。トランプ政権とイランが本格交渉を始めてディールに至るのか、それともイスラエル・米連合軍が再び攻撃に踏み切るのか、180度違う展開が想定される。イランにとって敗北でしかない今回の攻撃だが、イスラエルも米国もイスラム共和制体制の崩壊は難しい、と判断している。「革命体制」を何としても堅持したいイランにとって屈辱の中での光明かもしれない。
「体制転換」はトリッキーだ。先進国世界にとって厄介な政権の場合は、体制転換さえ実現できれば、すべてうまく行くと予想したがる。
今回の攻撃のさなかも、イスラエルのネタニヤフ首相はイラン国民に「解放の日は近い」と呼びかけ、体制転換がありうると述べた。トランプ氏も「体制転換」という言葉を使い、イラン最高指導者ハメネイ師の暗殺も選択肢の一つだったと述べた。その後イスラエル政府は「体制転換は攻撃目的でない」と明言し、米政府も攻撃の標的はイランの核施設と確言し、体制転換モードを打ち消した。理性的な判断であろう。
イランの体制打倒をイスラエルや米国のネオコン(新保守主義者)が唱えても大規模な米軍投入を、「新たな戦争開始は許さない」というトランプ氏は認められない。そして歴史をたどれば、中東の体制転換の惨憺たる軌跡が浮かぶ。
1.少ない体制転換の成功
2.転換後の暗転
イラクだけではない。中東では米国はイランに誕生した民族派政権であるモハンマド・モサデク政権をクーデターで1953年に打倒し、ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)後はアフガニスタンの親ソ連政権をイスラム戦士へのテコ入れで1988年に打倒にこぎつけた。9・11テロ直後にはアフガニスタンに軍事侵攻してタリバン政権を崩壊させた。
「アラブの春」ではエジプト、リビア、そしてシリアの体制交代を画策し実際にこぎつけた。まずエジプトでムバラク大統領に対してオバマ大統領は「退陣の時」と命じ、リビアではNATO軍の一員としてカダフィ政権軍を爆撃して追い詰めた。シリアでもアサド大統領の退陣を要求し、政権打倒を目指す反体制武装組織への軍事支援に踏み切った。
だが、いずれも後を継いだ政権は米国が描いた民主主義とはかけ離れている。
エジプトではイスラム主義組織が政権を担ったが、そのイスラム主義色の強い政策への反発から1年余りで政権は倒れ、旧体制派が権力を奪取。ムバラク時代よりも激しい弾圧も起きているという。リビアではイスラム主義と世俗主義の二つの政権が並立する分裂が続く。
悲惨なのはシリアだ。米国はアサド政権に退陣を迫り米軍が支援を始めたが、アサドは反体制派を化学兵器も使って徹底的に弾圧した。イスラム国(IS)の残虐な統治もあり、シリアの混乱は第二次大戦後最大の人道危機に見舞われた。アサドは2024年12月にロシアに亡命して体制は崩壊したが、スンニ派イスラム主義の新政権は安定していない。
外国が軍事力を行使して実現した体制転換は失敗が多い。19世紀以降のそうした事例を研究したデビッド・エルスタインは著書の中で、成功と言えるのは日独含めて7例しかないと断言している。
3.中東で失敗する理由
それにしても中東での米国の民主化支援が失敗するのは、なぜだろうか。私はテヘランと米国の双方で特派員をした経験からいくつかの理由を思いつく。
(1)戦後統治の準備不足 イラク戦争開戦直前、私は国務省政策企画局長を務めていたリチャード・ハースと戦争の是非について話した。国務省政策企画局長と言えば、米外交の中心ポストだ。だが、ハースは「本当になぜイラク戦争を今始めるのか、わからないのだ」と言った。ハースはイラク戦争に反対していたから、当時のブッシュ政権は戦争の計画づくりでハースを外した。ハースは「私に聞いてくれるな。パウエル国務長官ならもっと知っているだろうから、彼に聞いてくれ」と苦しそうに答えるのが精いっぱいだった。
ハースはブッシュの国家安全保障問題担当補佐官であるコンドリーザ・ライスに正当性の欠如や戦後の混乱などイラク戦争の懸念を伝えたが、ライスは「大統領が決断したのだから」と言って、相手にしなかった。ハースは湾岸戦争の際にブッシュ(父)大統領の国家安全保障会議(NSC)中東上級部長を務め、中東のあらゆる面を知るリアリストである。
「ハース外し」から浮かび上がるのは、戦争、特に戦後統治についての検討が真摯になされなかったことだ。
米国は世界一の軍事力をもって「厄介な政権」を倒せる。だが、問題は次の政権だ。米国は穏健で民主主義を信望するエリートを選ぶが、彼らは部族の長たちを統率する威信がない。米国の傀儡とみられ、敵視もされる。アフガニスタンでタリバン政権後に大統領となったカルザイがその典型だ。英語は巧みだが、脆弱な政権しかつくれなかった。
体制転換で治安・警察機関も一掃される。このため治安の空白ができ、無法状態とも呼べる混乱が生じる。
(2)民主主義の要素が欠ける
米国の体制転換や中東民主化構想を唱えたのがネオコンと呼ばれる思想家たちである。ウルフォウイッツ国防副長官らである。彼らは20世紀前半に欧州から米国に渡ったユダヤ人の子息である場合が多い。共産主義やナチズム、そしてイスラム原理主義に比べて自由主義が優れているとの信念を持つ。
だが、中東では米国流の自由民主主義が根付かない現実がある。民主主義が根付くには、ある程度の経済発展や民族的・文化的な一体性があり、民主主義的な規範・機構が部分的にも存在する必要があるとの理解が一般的だ。中東ではこれらが欠如している。国家でさえも帝国主義によって人為的に引かれた国境できたために、人々の民族意識とは異なる。強権の指導者は力で一体性を維持するが、指導者が消えれば、紐帯は崩れる。
そして民主主義は普遍的な価値であり、だれもが受け入れるというネオコンの原理を乱暴に当てはめることは現地事情を軽んじすぎる。
(3)反体制派の売り込み イラク戦争では反体制派のアフマド・チャラビがネオコンとの関係を築き、自分の権威を誇大に吹き込んだ。米国の侵攻決定に大きな影響力を持った。
だがチャラビの提供したイラクの核兵器開発に関する情報や米軍が解放者として迎えられるとの予想は虚偽と誇張が多かった。チャラビはイランの工作員だったとも言われる。イランが敵であるフセイン政権を倒すためにチャラビを使い、まんまと成功したというストーリーである。胡散臭い人物の情報にすがることは、米国の中東理解のお粗末さを物語る。
本稿の主旨であるイラン情勢で言えば、イラン国民抵抗評議会(NCRI)やイラン革命前の王制時代の皇太子らが国外反体制派の代表として体制転換を唱えるが、彼らは国内基盤が弱く大規模な運動を率いる力を持つとは思えない。
(4)周辺国の思惑 中東の国家内の宗教、民族、思想などで成立するさまざまなグループを周辺国が支援している。強権のリーダーが消えた段階で、動きだす各グループを周辺国が後ろ盾となり資金や武器の支援を活発化する。トルコとカタールがイスラム主義の暫定政権を支援し、サウジアラビア、エジプト、ロシアが西部を拠点とする軍事組織を支援しているリビアが代表例だ。体制打倒に成功しても周辺国の介入で「成功」は消え失敗に転化する一因だ。
イスラエルのタカ派やネオコンはイランの体制転換を促している。イランの指導者がイスラエルの抹消を唱えることへの対抗策なのだが、転換後の安定までも実現できる見込みを持つのだろうか。
(5)米国民の戦争嫌い 米国民は大規模な戦力の長期投入を認めない。
有名なのは、イラク戦争での陸軍参謀総長エリック・シンセキのエピソードだ。シンセキは米兵50万人が投入された湾岸戦争やバルカン紛争での経験を例にして「数十万の兵が必要だ」と述べた。ブッシュ政権がそれまで言っていた「小規模の米軍投入」の宣伝と全く異なるから猛烈な非難を受けた。だが、事態はシンセキの言う通りとなった。戦費も当初予想の20倍に膨らんだ。
イラクでもアフガニスタンでも開戦時は大多数が支持するが、今はこれらの戦争は「戦う価値があった」と回答する数字は3割前後に落ちている。「愚かな戦争」はしない、というのがオバマ以降の米大統領の基本姿勢である。イラン核施設へのバンカーバスターでの攻撃のような外科手術的な空爆が精一杯であろう。しかし、それでは体制転換は不可能である。
仮に長期に駐留しても成功はおぼつかない。
アフガニスタンでは20年を越える米軍駐留が終わった途端にタリバン政権が復活した。女性の人権は極端に制限されるなど自由が否定される状況に逆戻りである。イラクも多数派のイスラム教シーア派と少数派のスンニ派、シーア派内の親イラン派と反イラン派の対立は続く。米国務省の年次テロ報告は、2023年にイスラム国(IS)や親イラン武装組織によるテロ攻撃の増加傾向にあると指摘している。
米国による軍事力を使った中東の体制転換の試みは難しい。反体制派を軍事・財政支援し決起を促すシナリオも成功率は小さい。強権の指導者であっても関係を育てて自由化、民主化を促すという地道な手法が、長期的に見れば、体制改革、あるいは転換という成功をもたらす可能性がもっとも大きい。
体制転換の成功例と言えば、まずは日本とドイツである。冷戦が終わった時の東欧や旧ソ連の社会主義政権も雪崩を打ったように自由主義へ変わった。ソ連も民主主義と市場経済を標榜するロシアに変わったのだが、ウクライナに侵攻したプーチン政権を見るとソ連時代と行動様式は変わったとは言えない。
これらの体制転換に、米国は深く関わった。日本とドイツは言及不要だが、旧ソ連・東欧の国々には政治・経済・軍事・言論とさまざまな政策で転換を促した。1990年代の旧ユーゴスラビアの国々の独立と体制転換は、米軍の空爆で支援した。そして中東の体制転換で米国はさらに積極的に行動したのだが、うまく行っていない。
代表的なのがイラクだ。9・11テロでイラク攻撃論がにわかに高まり、03年のイラク戦争に至ったが、その後イラクは統治能力のない中央政府が続き、残虐なイスラム主義組織「イスラム国」(IS)の跋扈という予想外の暗転を迎えた。
大義とされたイラクによる核兵器開発の証拠はみつからず、9・11テロを起こしたアルカイダとイラクのつながりも証明できなかった。イラクが民主化すれば、中東全体に民主化が広がるドミノが起き安定するとの説明も今は空虚に聞こえ、米国の威信を失墜させただけに終わった。
戦争を始めたブッシュ政権は「戦後イラクは混乱したが、フセインを残すよりは除去した方が良かったのは確かだ」と弁明した。だが、共和・民主両政権で中東政策に携わったフィリップ・ゴードン元国家安全保障問題担当次席補佐官は「フセインを封じ込めた方が戦争より良かった」と述べている。