1.国際政治に「リセット・ボタン」はない

この4月30日は、サイゴン陥落から50年である。私自身も、ベトナム戦争が東南アジアで展開されていたことは、子供のころの記憶として何となく残っている。1973年1月に締結されたパリ和平協定で南ベトナムはベトナム共和国とベトナム臨時革命政権(PRG)との双方が明記され、そこから2年余り戦争を続けた。北ベトナム(ベトナム民主共和国)から武器を提供されたPRGが1975年4月30日に政権を掌握し、南ベトナムを「解放」し、そこから半世紀経った。人民戦線を手段とする北ベトナムにとっては、「共産党による指導と、ベトナム国民の団結」の成果ということになるだろう。
 日本はサイゴン陥落前、共産国の北ベトナムと国交正常化を試みて、1973年9月にそれを成功させた。しかし、歴史を遡れば、南北に分断されていたベトナムとの外交関係をバランス良く保つのは、容易なことではなかったと想像する。第二次世界大戦後、日本はベトナムと国交を締結したが、その後のインドシナ紛争の結果、日本の国交は南側のベトナム共和国とのみに限られ、1959年には賠償協定・借款協定が締結されている。1973年の国交正常化は北ベトナムとの国交であって、当時としては圧倒的に長期の関係が南側のベトナム共和国との間で続いていた。なので、北ベトナムと1973年に国交を正常化させたから南側は知らないというわけには行かなかった。ましてや、冷戦の最中、相手は共産主義国である。政権が変わったから「リセット・ボタン」を押して、新しい政権と関係を始めるというわけには行かなかったのである。
 南ベトナムはベトナム共和国から南ベトナム共和国へと名称を変えたが、南北は別の国家であった。日本は新しく成立した南ベトナム共和国と国交を正常化しようとした(この交渉を行ったのが、当フォーラムの伊藤憲一元会長である)が、両国の交渉はうまく行かず、一年余り日本は南ベトナム共和国と国交が存在しなかった経緯がある。結果的に、北と南は翌1976年7月に統一し、ベトナム社会主義民主共和国となって、日本は自然とベトナム全体と国交を正常化できた。南ベトナム共和国との国交正常化が決裂したことが、逆に幸いしたと言える。30年前、伊藤会長と初めて会ったときに、そう言われたことを思い出す。
 ハノイの日本大使館は1975年10月に開設された。以来50年、日越両国は徐々に関係を深めてきた。同時に、ベトナムもイデオロギーや体制を柔軟に外的環境に応じて調整してきた経緯がある。

2.漸進的、着実な歩み

サイゴン陥落から間もなく50年、その間ベトナムは社会主義国のブロックの中に留まっていたわけではない。当初は親ソ路線を取って中国と対立し、経済が停滞したが、1980年代に入るとグエン・ヴァン・リン等改革派が次第に影響力を持つようになり、ドイモイが始まった。冷戦が終わると同時に新しい憲法を採択し、プロレタリア独裁を止めて、「人民の、人民による、人民のための国家」を国是とした。
 冷戦終結後のベトナム外交は、より柔軟であった。1991年にイデオロギーに基づく外交路線を転換した。何よりも1995年にアメリカと国交正常化し、ASEANに加盟したのは、当時アメリカに留学していた私も驚いた記憶がある。東南アジアの地域主義が一気に加速する息吹を、遠く離れたアメリカでも感じたことを覚えている。グエン・フー・チョン書記長が提唱した「竹の外交」であるが、このような相手の状況に応じて柔軟に自国の路線を調整する姿勢は、すでに冷戦終結前後からその端緒は見られる。日本とは冷戦終結直後に政府開発援助を再開し(1992年)、APECにも加盟し(1998年)、多国間枠組みへの参加を積極的に推進していった。日系企業は、ヤマハのバイク、キャノンのプリンターを皮切りにベトナムに進出し、Made in Vietnamの日本製品は、日本に逆輸入されると同時に、東南アジア・南アジア市場で消費されて来た。
 ドイモイ政策によって、今日までのベトナムGDPは、1975年のそれとざっと比較してみたが、100倍以上になった。経済政策の転換は、既得権益との衝突を生む。日本にかつて留学していた経済学者グエン・スアン・オアインをブレインとして財の生産段階における増産、流通段階の市場経済化、分配段階における既得権益の排除を行った。1986年になるとリンが書記長に就任し、社会主義市場経済を目標とすると同時に、国際的な分業・相互依存の中に自国経済を位置づけ、柔軟な発展戦略を展開していくことを共産党大会で決議した。経済発展と政治改革とが、同時に進行して行ったのである。
 21世紀に入り、ASEAN議長を2020年に経験し、東南アジアのみならず、域外大国とのパートナーシップ構築にもベトナムは熱心である。隣国のラオス・カンボジアとは「特別な関係」を、最も高いレベルの二国間関係を「包括的な戦略的パートナーシッ プ」と呼んで、これを中国、ロシア、インド、韓国、米国、日本、豪州も含めて12か国と構築し、17か国と自由貿易協定(FTA)に署名している。このような「包括的な戦略的パートナーシップ」「戦略的パートナーシップ」、「包括的パートナーシップ」とレベルごとに区分けし、あらゆる国々と友好的かつ協力的な関係を築く「全方位」的な外交を展開している。
 外交には政治的含意が伴う。日本ともかつては単純に安い労働力を求めて日系企業が新しい投資先を探した相手だったが、世紀の変わり目頃からチャイナ・プラス・ワン、日越投資協定(2004年)、日本・ベトナム経済連携協定(2009年)が締結され、人、モノ、カネの国境を超える移動が推奨されるようになった。そして、2010年前後から日越二国間の共同声明に「アジアの平和と繁栄…」とアジアの冠を被せるようになってきた。政治的な信頼醸成、政府間対話、民間人同士の交流と学術的成果の構築、教育、観光等、様々な分野における対話が催され、協力関係が構築されてきた。2013年の日越国交正常化40周年、2023年の50周年辺りになると、「中国の台頭」にどのように対処するかについて意見交換を行う国際会議が増えていったのである。もっとも、ベトナムとしては日中間のバランスを「竹の外交」に基づいて取る必要から、中国からの要人訪問も積極的に受け入れている。最近の習近平によるハノイ訪問、そして現在訪越中の石破首相の外遊も、ベトナムを巡って日中外交が展開されていると観察することも可能である。
 国際政治の構造的には、「竹の外交」はリスクも伴う。相手国同士の関係が良ければ、立ちどころに自分の立場が危うくなる。逆に、相手国の仲が悪ければいわゆるオフショア・バランスが可能となり、自分たちの優位が持続する。ベトナムの「竹の外交」はこれ自体も柔軟に対応し、相手が敵か味方かという二分論でなく、協力と闘争の二面性が常に混在しているという発想である。庄司智孝氏によると、これの帰着点は「非同盟外交」であり、ベトナム国防政策の「4つのNO」(同盟関係にならない、外国軍基地を置かせない、二国間紛争に第三国を介入させない、他国との関係において武力の行使や威嚇を行わない)に体現されていると言う[1]。確かにそうだろうが、ベトナム自身が優位に立つには、その中でもやや「闘争対象」寄りに外交を展開しないといけない。アジアにおける日中韓、近年の米中関係(とりわけトランプ政権発足後)等、大国間関係には利益と威信その双方がない交ぜになって、自国優位主義が跋扈している。その渦中で、自国の立ち位置を確保するのは、常日頃の観察と戦略立案が必要であろう。

3.内政上の歩み

政府が取り組む課題が増えるほど、行政国家化は進む。内政と外交とは言うまでもなく連動し、グローバリゼーションが進むほど、外から良いものも、悪いものも入ってくる。原稿のアメリカ、トランプ政権がグローバリゼーションに伴う害悪のみを遮断し、Make American Great Againに本当になるかどうかはともかく、それを目指していることは簡単に分かる。しかし、内政上の改革がなければ、外との交流を遮断することで自己欺瞞に陥る可能性も存在する。
 日本でも1980年代以降、行政改革は大きな課題である。以来、民営化のみならず、市町村合併、社会保障改革等、放っておいたら崩壊しかねない課題が山積している。ベトナムでも行政改革は急務となり、何度かの憲法修正を重ねてきた。例えば、2013年の憲法改正は、政治制度を刷新し、社会主義志向であるが市場経済の構築、法治国家建設のための基盤を構築すること、持続的経済発展のための突破口と成果を掲げて新たな目標段階に入ることを明示することとなった。
 また、市町村合併は、今年において大胆に敢行されようとしている。全国63の省・市(中央直轄市)の行政区を34に再編成しようとしている。南部のホーチミン市は近隣のブンタウやビンズオンと合併し、効率化を目指している。日本でもかつて市町村は3000ほど存在し、基礎的自治体ごとに首長がいて、議会が存在しており、地方自治と言えば聞こえは良いが、そのコストは膨大であった。「平成の大合併」を経て、現在その数は1000程度になっている。省庁再編も同様である。往々にしてスクラップ・アンド・ビルドの後者だけが過大視され、前者がおざなりにされるが、政府部門の効率化は、既得権益との闘いを生じさせるが、税金の無駄を省き、社会全体が発展していくために避けて通れない道である。ベトナムも同様の改革を実践してきた。

4.「竹」は外交でも、内政でも

以上のような柔軟であるが、確固とした態度と、何よりも政策の実施は、国全体の発展のために必要なことである。政治エリートだけが特権を享受する体制は、国全体の経済発展に寄与しない。民主的な政治・経済運営が、多くの人々を幸福に導く所以は、ここにある。長く続いたチョン書記長時代から、昨年8月新しいトー・ラムに交替したが、彼は「富の時代」「努力の時代」「立ち上がる時代」というスローガンを掲げた。とりわけ『立ち上がる時代』というコラムを創刊、教育機関を通じてベトナムの更なる発展と改革を内外に示したのである。
 最後に、私自身の経験を披露して、本稿を綴じる。ベトナムとの学術交流は20年以上に渡って行っているが、ベトナムの大学学長が選挙で決まることを聞いて、興味深く思ったことがある。私の友人は、ハノイ社会科学人文大学(USSH)の学長だったが、学長になるには選挙で勝利しないといけないそうである。片や、私が良く行くオーストラリアは、近年日本との関係が重要視されているが、大学の役職者は政府の指名だそうである。選挙は民主主義の基本と思っていた私にとって、この違いは興味深い。選挙を導入するかどうかも、柔軟に考えているのだろう。急に変えようと思っても、「リセット・ボタン」は推せない。徐々にではあるが、着実な改革によって、国内・対外双方における自国の立ち位置が決まるのだろう。サイゴン陥落から50年、ベトナムの「竹」概念は、今後も有効に作用することを期待したい。

[1] 庄司智孝「ベトナムの竹外交―大国間競争での生存戦略―」
  https://www.nids.mod.go.jp/publication/security/pdf/2025/202503_05.pdf
  2025年4月23日アクセス。