1.極右ポピュリストの世界観 —— 反グローバリズム・反イスラム主義

こうした極右勢力の世界観はどのようなものであろうか。政権に近づいていくにつれて、彼らもその対外姿勢を明示的にしていかなくてはならない。漠然としたウルトラナショナリズムでは有権者を説得できなくなるからだ。マリーヌによると、FN/RN(RNとその前身であるFN)は二つの「全体主義」に反対する。ひとつはアンチ・グローバリズムで、もう一つは「反イスラム主義」だ。それらはいずれもフランス文化の利益に反する。フランスのアイデンティティに反するという主張である。
 しかしFN/RN の反グローバリムの主張は左翼の反グローバリズムとは違う。左翼の批判は第一に資本主義システムという経済制度そのもの対する批判だが、極右の批判はむしろ主権の喪失への懸念に重点がある。つまりそのグローバリズム批判は資本主義制度を批判したものではない。市場経済と利益競争は肯定しつつ、その国際的画一化とその受益者であるエリートに対する批判だ。第二に、左翼の反資本主義はインターナショナリズムと結びついているが、極右の主張は「国境なき」資本主義に対抗して、「主権の再建」を主張、国境を閉鎖させる動きと結びついている。労働者のための社会を第一とするのではなく、ナショナリズムの立場から資本の国外流失を阻止するための高額所得層擁護と優遇措置を模索する。
 したがって彼らは、伝統的かつ独自で多様なヨーロッパの土着の民俗的(フォークロリック)価値観を大切にする。しかしそれは欧州の伝統的なキリスト教による「保守的な」一元化された文化ではない。ヨーロッパには100を超える多様な伝承的な文化が存在する。そうした多様性を取り入れた豊かな文化こそがヨーロッパ的価値観である、という主張だ。それはいわば「多元的民族主義」である。
 そこには新しいヨーロッパ像が生まれる。それは筆者の表現では「ヨーロッパ・ナショナリズム」とでも呼ぶべき欧州独自の文化的アイデンティティと価値観を打ち出そうとする運動だ。

2.「経済合理主義の統合」と「ヨーロッパ・ナショナリズム」—— ユーラシア主義ともう一つの欧州統合

欧州各国の極右勢力はいずれもEUに懐疑的だ。彼らはEU統合をアングロサクソン流のグローバリゼーションによる市場競争原理を発想の基礎とする「経済合理主義」の賜物とみなす。それは結局格差を構造化し、そこで優位となるのはアメリカであり、各国の「エリート」たちだ。「庶民」はその世界的システムに組み込まれていると主張する。彼らが主張するヨーロッパとは、土着の民族文化的価値やローカルな庶民の日常的なナショナリズムの擁護なのだ。「文化的アイデンティティ」の擁護だ。そして彼らは「国境なき資本主義的市場の拡大」=「国境を越えたリストラ」としてのEU統合に対抗して、民族の「主権主義」を主張する。その意味では経済合理主義的な「EU統合」と文化的アイデンティティによる「欧州統合」は別のものだ。
 それでは彼らの考える「ヨーロッパ統合」とは何か。
 グローバリズムとリベラリズムの一体化の中でしばしば議論される欧州統合については、グローバリズム的な統合を否定、その一方で広汎なユーラシア大陸の統合という意味で「大欧州ナショナリズム」を提案する。極右は「ブレスト(大西洋岸ブルターニュの都市)からウラジオストック」にまで及ぶユーラシア大陸全体を包摂する「大空間アウタルキー(自給自足)」を目指す[1]
 したがって彼らは、弱肉強食の結果をもたらす「米国流の自由競争」と同じ論理だとみなすEU統合に警鐘を鳴らし、対米関係に偏った大西洋主義を否定、「広汎なユーラシア大陸」の統合を模索、ロシア・中東・中国にまで及ぶユーラシア全体に自立したその影響力を行使することを提唱する。欧州の自立した自給自足社会において生活水準の向上、実質雇用増などが期待された。極右の「ヨーロッパ」とは、複数国家が制度的に一つに統合された経済合理主義的な意味での統一ヨーロッパを意味するのではない。かれらの「ヨーロッパ」とは文化的・歴史的なアイデンティティであり、100以上の民族的に多様な生活様式・言語・地域的な習俗や宗教をもつ庶民的な日常生活における多様な集団のまとまりである。多様ではあるが、それはアジア・アフリカ・中東の様々な慣習や宗教とは大きく異なっている。その差異はとりわけイスラム教徒とは大きい。
 その「ヨーロッパ」にロシアは含まれる。グローバリズムが米国の巨大資本の世界的支配の手段だとする左派や反エリート派の議論は欧州市場統合反対の主張とも結びついている。その意味で反米の議論とも接点がある。であれば、FN/RNが親露派に傾くのも道理だ。マリーヌ・ルペンはたびたびロシアを訪問しているが、 2017年の仏大統領選挙の前にも訪問、プーチン大統領と直接面談し、時期が時期だけに大いに話題となった。この選挙では極右大統領の誕生か、と世界のマスコミが騒いだ。FN/RNの政治資金不足は慢性化している。この時もマリーヌはプーチンに無心に言ったとまことしやかに伝えられた。しかしルペンは、冷戦的な東西対立的な思考からは距離を置く姿勢を示しており、「非同盟(米露いずれの側でもない)」という外交スタンスを誇示する。白人主義・ヨーロッパ中心主義という古典的な欧州右翼勢力に典型的な立ち位置であるといってよい。親露的ということを踏まえると、あえて言えば「ユーラシア主義」とでもいうことができようか。
 その意味では彼らはむしろ今日のEUの欧州統合とは別の「もうひとつの欧州統合」を模索している。EUからは離脱しない、むしろEUの在り方を変えていく。気候変動から移民政策まで広範にわたるEUの政策変更を目指すという新しいやり方である。近年ハンガリーのオルバーン首相はその立場を鮮明にし始めた。その象徴は、ハンガリーが2021年にブリュッセルで購入した、元ベルギー財務省であった18世紀の大規模建造物だ。ハンガリー政府は、この建物を大改築し、「ハンガリーハウス」として大規模な文化行事会場として使用する。保守的思想の子供の教育活動を活性化させ、多分野での次世代リーダーの育成を目指す。EU環境保護政策に反対する農民の抵抗運動を支持し、LGBTQ(性的少数派)の権利擁護に反対する立場を表明して、今のEUではなく、別な意図を持った「欧州統合」の構築を目的としている。
 最後に、ポピュリズムの最大のテーマは、人間の差別への情念という反知性主義的な本性であり、それを道徳や理性でどこまで抑えられるのかということに論点はあると筆者は考える。だからこそ自制心に欠ける人民の暴走が脅威なのだ。インターネットをはじめとする情報氾濫の時代、「ポスト・トゥルース」と呼ばれる現象が拡大している。結果が「真実」を捏造する。そこでは民主主義の原点である信頼関係と誠実さの役割は希薄となる。説明責任の欠如である。その場しのぎの発言を繰り返したルペン候補が決選投票に残った真の危険はそこにあった。それは為政者だけの問題ではなく、有権者も共有する問題である。
 そうした危険な事態をいかにして作らないようにするのか。それは社会全体にかかわる問題である。
 ポピュリズムは一般的に、ファシズムとは根本的に違うことが議論の前提となっている。時代的背景や社会・政治の実態の違いは言うまでもない。ただ、かつて1960年代から80年代の「ファシズム論」と「大衆社会」「大衆国家論」が華やかなりしころ、「思想・運動・体制」という三つの枠組みでファシズムがしばしば議論された[2]。問題はファシズムが「体制」になったときの行動形態だった。支配者の傲慢は人間本性の理性を軽んじ、もうひとつの本性である反知性主義を受け入れるようになりかねない。ポピュリズムの高揚がグローバルな広がりを見せている今日、それは喫緊の課題だ。
 いずれの場合も、民主的な社会統合の実現という観点から不可欠なのは手段や制度の有効性を担保できる理性であり、差別の欲動をどこまで抑えることができるのか、ということに尽きるのである。フロイトの「攻撃的欲動」の概念それこそがデモクラシー社会に託された最大の課題であると、この研究分野の泰斗パスカル・ペリノは指摘する。ポピュリズムの高揚がグローバルな広がりを見せている今日、真の論点はそうした「人間本性の闇」にある。

[1] Eltchaninof, Michel, Dans La Tête de Marine Le Pen, Solin/Actes Sud,2017
[2] 例えば、山口定『ファシズム』有斐閣 1979年