日本人による日本国内での情報提供行為に対する中国反スパイ法の適用と執行
鶴田 順
明治学院大学法学部准教授
2024年12月30日、日本の通信社である共同通信は、中国の国家安全当局が、2015年6月に、日本人の女性が日本国内で行った活動が「中華人民共和国刑法」(以下「中国刑法」とする)違反と「中華人民共和国反間諜法」(以下「中国反スパイ法」とする)違反にあたるとして、当該女性を拘束したことを報道した。共同通信によれば、当該女性は沖縄県の尖閣諸島に関する中国政府の見解を在日本中国大使館の関係者から聴き取り、その情報を東京都内で日本政府関係者2名に提供し、その後、上海に出張した際に中国刑法違反および中国反スパイ法違反の容疑で身柄を拘束され、中国の刑事司法手続きで審理され、当該女性が日本政府関係者に提供した情報には中国の国家秘密は含まれていないと判断されたものの、懲役6年の実刑判決を受けたという。
中国反スパイ法は、2014年4月に習近平国家主席が提唱した総体的国家安全観をふまえて、1993年2月22日に制定された国家安全法を改正するかたちで、2014年11月1日に第12期全国人民代表大会常務委員会第11回会議で可決・成立し、同日に公布・施行された。その後、中国反スパイ法は2023年4月26日に第14期全国人民代表大会常務委員会第2回会議で改正され、改正法は2023年7月1日に施行された。改正法では、同法が規制する「スパイ行為」の定義が拡大され、スパイ行為に対する国家安全当局の捜査権限の強化が図られた。
中国反スパイ法は、反スパイ活動を強化し、スパイ行為を防止・制止・処罰し、中国の国家安全を維持し、中国の人民の利益を保護することを目的としている(同法1条)。そして、中国国外の機関・組織・個人が行う中国の国家安全に危害を及ぼすスパイ行為は、その責任を追及されると規定している(同法10条)。スパイ行為を行い、当該行為が犯罪を構成する場合には中国刑法に基づき刑事責任を追及され、犯罪を構成しない場合には中国反スパイ法に基づき行政責任を追及される(同法53条、54条)。
このように、中国反スパイ法はその地理的な適用範囲を中国領域にとどめず、ひろく外国領域にも広げている。実際に、本件においては、日本人女性が日本領域で行った情報提供行為に同法が適用された。
中国反スパイ法の中国領域外への適用それ自体は国際法上の問題はない。国際法における保護主義という考えに基づく国内法の域外適用である。保護主義とは、国が、自国の安全や存立その他の重要な国家的法益または社会的法益を侵害する犯罪について、実行地と実行行為者の国籍を問わず、国内法を適用できるという考え方である。保護主義はひろく各国で採用されている考え方である。日本も「刑法(典)」や「特定秘密の保護に関する法律」などの法律で保護主義を採用している。
しかし、本件において、中国は反スパイ法を適用するだけでなく、中国領域において同法を執行した。中国は日本人の女性の身柄を拘束し、居住監視し、逮捕し、起訴し、中国の刑事司法手続きに乗せ、中国刑法に違反することを認定し、服役させた。中国領域における中国国内法の執行それ自体は問題ないとしても、中国が当該女性の刑事司法手続きを進めるにあたり、仮に日本領域において当該女性のスパイ行為を明らかにするための証拠収集がなされていたのであれば、中国によるそのような証拠収集は日本の主権を侵害する行為であり国際法違反である。
中国法の執行については、それ他の問題点もある。ここでは一つだけ指摘しておきたい。
中国反スパイ法は、いかなる活動がいかなる要件をそなえたときに同法が規制する「スパイ行為」に該当し、処罰されることになるのかが不明確である。
中国反スパイ法は、スパイ行為の一つとして、「国家秘密、情報、その他国家の安全と利益に関わる文書、データ、資料もしくは物品を窃取し、偵察し、買い取り、もしくは不法に提供する」活動を規制しているが(同法4条1項3号)、いかなる活動が「国家の安全と利益」に危害を及ぼす活動であると評価されることになるのかが不明確である。たとえば、国家秘密や情報にはあたらない、すでに公開されている文書等の収集であっても、それが中国の国家利益を侵害すると評価された場合には、中国反スパイ法におけるスパイ行為にあたることになる。
中国反スパイ法の規制は抽象的で曖昧であることから、いかなる活動がスパイ活動にあたると法的に評価されることになるのかについて予測可能性が担保されず、中国の国家安全当局が恣意的に解釈して執行する懸念があり、それにより活動を自制する萎縮的効果が生じる。中国反スパイ法は中国領域外にもひろく適用があることから、そのような萎縮的効果は外国領域にも及ぶ。中国反スパイ法の域外適用により、各国の憲法で保障されている様々な活動の自由が実質的に侵害されることになるという問題がある。