(1)CEETSとES闘争の背景

本報告では、経済安全保障(ES)を安全保障のための経済手段と定義する。ESは以下の3タイプから成る。第1に、相手に経済的利益を与えるもしくは約束する経済手段。第2に、相手に経済的損害を与えるもしくは示唆する経済手段。第3に、自国の経済基盤を強化する自己補強的な経済手段である。
 今日は「CEETSの時代」、「ES闘争の時代」である。CEETS(Close Economic Exchange with a Threatening State)とは、「安全保障上の脅威国」との密接な経済交流を指す。また、ES闘争とは、ESを利用して対抗し合う熾烈な闘争を意味する。CEETSは冷戦以前(17C~20C)はしばしば見られた現象だった。しかし、冷戦時代の米国とソ連は、それまでとは異なり、経済交流がほとんどなかった。今日の中国をめぐるCEETSは、17Cの英蘭、第1次大戦前の英独、戦間期の日米などに極めて似ており、その意味では新現象というよりも過去のリバイバルといえる。しかし他方で、今日の中国をめぐるCEETSはデジタル経済の下で展開されており、その点では従来のCEETSと明らかに異なっている。
 現在の中国をめぐるCEETSとES闘争は西側諸国による経済的関与の失敗の結果といえる。中国が台頭する中、西側諸国は、中国をWTOに加盟させて経済交流を増してゆけば、中国は豊かになり、徐々に経済の自由化や政治の自由化(民主化)が生じるだろうと考えた。しかし、現実にはこの経済的関与政策は失敗した。中国は確かに豊かにはなったが、その一方で国家と党による経済支配が進み、習近平体制の独裁化が強まり、外交面でも強硬・威圧的になった。しかも、経済的関与は中国と他国の密接な経済関係を構築し、CEETSという深刻な負の遺産を残した。多くの国が中国に重度に経済依存するとともに、中国によるES(経済的な懐柔や隷属化、恫喝、制裁、盗用など)のターゲットにされるようになった。
 このような状況下で最も恐ろしいのは、対中抑止の失敗が偶発戦争を引き起こすことである。中国のESを怖がる国が中国に忖度して対中バランシングを控えれば、それを見た他の国も怖気づいて対中バランシングを控えるようになり、中国はより野心的、拡張主義的になるだろう。これが続けば、どこかの地点で、中国と「中国との間に領土上の対立を抱える国」の間で偶発的な軍事衝突が発生する可能性がある。米国は、介入して対中戦争に引きずり込まれるか、見殺しにして他国からの信頼を失うか、厳しい選択を迫られる。
 それでは中国にどのように対応していけばよいのかというと、「中国によるES」に対抗するには「中国に対するES」が必要になる。現在、米欧を中心に選別的なデカップリングやデリスキングが進められているが、これらだけでは不十分である。中国「被害国」の経済連携を深めながらこれらの国々と中国との経済関係を低減させる枠組み、例えば米国参加型TPPのような高レベルな多国間自由貿易協定(FTA)も兼ね備えた「ガーゼのカーテン」が必要である。

(2)デジタル人民元(e-CNY)の導入

中国はデジタル人民元(e-CNY)の導入を進めているがその動機には次の6つが考えられる。①当局だけでビッグデータを独占したい、②かつてのリブラ(ディエム)のような有力デジタル通貨への対抗、 ③SWIFTを迂回する決済システムの構築(米国の金融制裁の無効化)、④国内反体制派(あるいは反中外国人)のアカウント凍結、⑤人民元国際化の梃子、⑥デジタル通貨およびデジタル金融インフラの支配。本報告では特に⑤と⑥に注目したい。なぜなら、支配的通貨(基軸通貨)の発行国は、自国通貨の増刷による財政赤字のファイナンス、金融のルールやインフラの設定、金融制裁を行う能力など、重要な地政学上の恩恵を受けることができるからだ。
 中国政府は明らかに人民元を支配的通貨にすることを望んでおり、2009年頃から人民元を国際的に普及させるための努力を続けてきた。しかし、決済通貨としても準備通貨としても米ドルには遠く及ばず、人民元の国際化はうまくいっていない。その主な理由としては、米ドルに比べて厳格な資本規制が敷かれていること、人民元建ての金融市場が充実していないこと、中国の法制度に対する信頼性が低いことが挙げられる。特に障害となるのが厳格な資本規制だが、資本流出のリスクへの懸念から、中国当局が資本規制を解除し人民元を全面自由化する可能性は、現時点では極めて低い。

(3)通貨のデジタル化とフィンテックの進展

本来であれば以上の理由から人民元の飛躍的な国際化は望み薄だった。ところが、通貨のデジタル化とフィンテックの進展によって、厳格な資本規制があるにもかかわらず人民元の国際化が相当程度進む、あるいは、中国が通貨の世界を支配する可能性がでてきた。例えば、e-CNYをプログラム化してその取引地域を、中東限定、欧州限定、アジア限定とすることが可能になるかもしれない。そうなれば、中国は現状の資本規制を維持したままでe-CNYを海外で普及させることが可能になる。これが進めば、米ドルの支配領域が侵食され、米国の金融制裁の能力は劣化しうる。さらに、e-CNYのインフラを中国が支配していることから、中国はe-CNY利用者の機密な履歴を閲覧・窃取する「パノプティコン効果」と通貨の流通を遮断して相手を窒息させる「チョークポイント効果」を掌握するかもしれない。
 デジタル通貨の地政学には、2つの観点が必要である。1つ目は、中国が、e-CNYそのものを他国に使わせ、人民元を支配的な国際通貨にすることである。2つ目は、中国が、中国主導で設計したデジタル金融インフラを他国に使わせることだ。このうち、従来は1つ目の観点が問題視されていたが、今日のデジタル経済下では、2つ目の観点こそ問題となる。これまでの通貨の世界では、「支配的通貨を発行する国」が支配者であったが、これからの通貨の世界では「支配的なデジタル通貨の発行国」ではなく「それを支えるデジタル金融インフラを支配する国」が支配者となるだろう。もしも中国が5Gやポスト5G、異なる中央銀行デジタル通貨(CBDC)同士の決済プラットフォーム、分散台帳技術(DLT)などのデジタル金融インフラを支配するようになれば、通貨の普及度としてはデジタル米ドルが支配的であっても、実際に通貨の世界を支配しパノプティコンやチョークポイントを駆使するのは中国、という世界が現実になりかねない。また、デジタル通貨に関連する技術やインフラは利用者の情報とデータを取ることができ、さらに、これらの技術は金融以外の経済領域でも広く利用されるため、中国の「デジタル権威主義」の拡大が懸念される。

(4)e-CNY拡大に対する異論

これらの懸念に対し、e-CNY普及の可能性は低いという異論もある。第1に、(スマホ内のウォレットを使用する)デジタル通貨決済が普及すれば、銀行預金を利用した振替決済が不要になるため銀行に預金が集まらなくなる。それは中小銀行の破綻や金融不安、銀行の信用創造能力の毀損につながり、経済的に多大な悪影響をもたらす可能性がある。第2に、サイバー攻撃の格好の標的になってしまうリスクがある。したがって、中国による「e-CNYの普及」速度には、一定のブレーキがかかるかもしれない。ただし、これはあくまで「e-CNYの普及」についてであり、中国当局は「デジタル金融インフラ(ポスト5G、分散台帳技術、決済プラットフォームなど)の開発」自体については継続するだろう。

(5)結論

デジタル通貨をめぐる技術の趨勢やその影響を正確に予想することは難しい。しかし、デジタル通貨や金融インフラのイノベーションは、西側諸国よりも中国の方に生じやすいかもしれない。なぜなら、権威主義の方が労働力と資金を迅速・集中的に投入でき、プライバシーに鈍感であるため社会実験も進めやすいからだ。仮にデジタル通貨およびその関連インフラを中国が支配すれば安全保障上の悪影響は深大である。加えて、デジタル金融インフラの技術は、デジタル通貨以外の情報関連技術や経済領域にも波及するおそれがある。ゆえに、西側世界は可能な限り協調しながらmade in Chinaのデジタル金融インフラの代案を用意しておく必要がある。

(文責、在事務局)