国際社会の構造からみたウクライナ・パレスチナ二つの紛争の「出口」戦略 —ハンガリー動乱とスエズ動乱の解決
2024年1月6日
渡邊 啓貴
日本国際フォーラム上席研究員/帝京大学教授
歴史の中のデジャヴュ
いま世界はウクライナ戦争とパレスチナ紛争という解決の容易ではない二つの同時紛争を前にして不安を募らせる一方で厭戦気分が高まっている。歴史的民族対立の温床であるユーラシア勢力圏の境界で勃発したこのふたつの紛争の出口が容易ではないことはだれが見ても明らかだ。そしてとりあえずこれ以上の犠牲者が出ることをだれも望んでいないことも明らかだ。とにもかくにも停戦の合意が先決だ。戦火がいったん中断することこそ喫緊の課題だということは世界が周知のことである。
実はそれは冷戦ただなかの歴史のアナロジーの中に解決の前例があるのではないか。そしてそれは国際社会の構造の論理が自ずと提起する必然的な「結論」でもある。しかしそれは暫定的な解決にすぎない。紛争の本質的な解決ではない。むしろ冷静さを回復することにその意味はある。さもなければ世界が熱狂の中でさらなる大きな大戦に突き進んでいくことになる可能性を秘めているからだ。それこそ前世紀の二つの世界大戦の勃発のとば口の人々の漠然とした心理状態だった。いかにしてその結論の論法を今日の現実と突き合わせて将来の国際秩序と日本外交の糧としていくのか。それこそ我々に突き付けられた問いである。ともすれば中東情勢や東欧情勢は武力紛争になりがちなところから必要以上に兵器や武力行為の詳細が報道されがちだが、そのことは必ずしも日本国民の危機感を正しく示していると言えるだろうか。メディアのインパクトが強いことは確かだが、そうした関心が日本に差し迫った脅威としてどこまで意識されているか否かは不確かだ。むしろわが身にかかわらない分だけ、興味本位の関心が高まることもある。多くの人々が国際的関心を持つことは自体は良しとすべきであるが、問題はその関わり方である。
実は、ハマスのイスラエル攻撃でパレスチナをめぐる紛争が再燃した直後に、筆者の頭をよぎったのは1956年10月から11月にかけてのハンガリー動乱と第二次中東危機、いわゆるスエズ紛争の記憶だった。東欧・ウクライナと中東・パレスチナのガザ紛争の同時進行は67年前の二つの事件を想起させた。当時欧米指導者の脳裏を霞めたのは第三次世界大戦の懸念だった。わが国ではあまり報道されなかったが、ロシアが22年2月に核兵器使用をちらつかせてウクライナ侵攻したときに欧州メディアも、第三次世界大戦の脅威をまことしやかに議論した。その気持ちを筆者も共有した。東欧の勢力争いは欧州における戦端の歴史的典型例だ。18世紀プロシアが台頭してくる中で、ハプスブルグ神聖ローマ帝国(オーストリア)とロシアの間で揉めたのは中・東欧地域の領土紛争だった。第一次世界大戦の直接的発端はサラエボでのフェルディナンド夫妻の暗殺であった。そしてヒトラーの東欧とロシア支配の野心は第二次世界大戦の導火線となった。冷戦終結後、欧州の指導者がアメリカのようにNATO拡大によって米国流の一元的リベラル・デモクラシー世界の拡大を推し進めることに慎重であった。
ハンガリー動乱とスエズ動乱の同時終結
1956年、東欧と中東の同時紛争は同時期に危機のピークを迎え、世界を不安に陥れたが、ほどなく同時期に終結した。
1956年2月ソ連第二十回共産党大会でのフルシチョフ書記長のスターリン批判演説は東欧諸国に大きな波紋を広げ、ポーランド、そしてハンガリーの自由化運動の開花につながった。自由化の拡大を懸念したハンガリー政府は、10月下旬に弾圧を強化し、ハンガリー自由主義者と政府の攻防は武力衝突にまで発展し、ソ連軍の介入を招いた。しかし11月4日にはソ連軍はハンガリー人の激しい抵抗を抑え込み、首都を占拠した。
他方で、そのころ、中東ではスエズ運河をめぐる紛争が勃発していた。1956年7月にエジプトのナセルがアスワン・ハイ・ダム建設のためスエズ運河会社の国有化を宣言したことを直接の契機とした。ナセルの運河国有化宣言の背景にはもともと米露の援助合戦の構図があったが、英仏・米の間での摩擦を背景にアメリカが英仏を「植民地主義」と批判して対立を先鋭化させた。運河国際管理機関や運河利用団体などの設置の提案などを通した和解と妥協が試みられたが、そうした中ハンガリー事件とアメリカ大統領選挙(11月6日)を前にして、世界の目がそちらに向けられているすきを狙って、10月29日イスラエルは英仏と目論んでエジプト侵入、31日は英仏もエジプト攻撃を開始した。
これに対してアメリカは11月2日国連緊急総会で即時停戦と原状復帰を提案し、ソ連の賛成を得て圧倒的多数で可決した。米ソの協調だったが、6日英仏は停戦を受け入れた。
その一方で11月4日にはアメリカが国連緊急総会でソ連軍撤退決議を提案、多くの支持を得て可決した。ソ連はその一週間後にはハンガリーを平定し、力ずくではあったが治安を回復、漸次的に撤兵した。
先手を取ったソ連
事態の転換に先手を打ったのはソ連だった。タイミングを計ったかのように11月5日ブルガーニンソ連首相が米英仏イスラエルに書簡を送った。対米書簡では、スエズ紛争が第三次世界大戦に発展する懸念を指摘し、米ソがその強大な軍事力を「共同して速やかに利用し」、エジプト侵略阻止に乗り出すこと、対英書簡では、ソ連がアメリカに対して国連加盟国による統一軍を用いることを要請したと述べ、「英国の海岸に海軍や陸軍を派兵しなくても、ロケットのようなほかの手段を利用できる国が存在している」と威圧的な姿勢を示した。
核超大国の脅しである。ソ連の狙いは世界の関心をスエズ事件に向け、ハンガリー動乱から目を逸らせることにあった。それはソ連が紛争解決に尽力する姿を見せることにあった。すぐに英仏は国連の停戦案を受け入れた。当時ソ連共産党第一書記であったフルシチョフは、「帝国主義者(英仏)はわれわれがポーランドとハンガリーで困難にぶつかっていたのにつけこんで、エジプトに軍隊を送り込んで植民地支配を復活させようとした」。その「植民地主義者の仕掛けた戦争(エジプト侵略)をやめさせるため(ソ連は)国際的影響力を行使した」が、それは「中東にソ連が存在感を示した初めての例であった」(『フルシチョフ回想録』(タイムライフブック1972年436-437頁)とソ連外交の成功を誇示した。
本質的な解決ではなかったが、表向き紛争は終結した。米ソが国連での英仏イスラエルによるスエズ侵攻の停戦に同意したからだった。ハンガリー動乱にソ連戦車が投入され力で弾圧したことでソ連は国際世論の厳しい指弾にさらされていた。そのすきを突いた英仏イスラエルのエジプト侵攻だったが、逆にソ連はスエズ紛争に世界の眼をむけさせることによって、批判をかわそうとした。二つの紛争は連動していた。そして欧州列強の植民地主義に反対し、大統領選挙を控えて中東の混乱が長引くことを望まないアメリカは妥協した。
ガザ紛争後のプーチン・ロシアの中東への接近
今回のガザ紛争が始まった直後筆者の脳裏をよぎったのはこの歴史のアナロジーだった。二つの同時紛争は事態を複雑化するが、その分秩序維持を支持する大国間で危機意識が共有されるならば妥協の芽は生まれる。今回もその可能性はあるのか。
そのように考えていると、12月初旬プーチン大統領の中東諸国への接近はその先鞭であるように当初見えた。プーチンはアラブ首長国連邦(UAE)・サウジアラビア、そしてイランを歴訪した。欧米諸国がウクライナ支援をめぐる摩擦を起こしている時期の訪問には、湾岸地域親露諸国との関係を強化し、ウクライナをめぐる国際世論の巻き返しを意図していることは確かだったからだ。UAEとサウジ二国はいずれウクライナ紛争の中での対露制裁に加わってはいない。ウクライナへの兵器供与も行っていない。また「拡大OPEP(OPEP+)」の参加国でもあるロシアは石油減産の延長方針でも一致している。二国はロシアのビジネスパートナーである。プーチン大統領はハマスをテロリストとは定義づけておらず、この二年間で三回もパレスチナ・イスラム勢力から誘いを受けており、アラブ寄りである。
他方でUAEはパレスチナ指導者ムハマッド・ダーランをかくまっているが、サウジの方はガザ紛争の前にはイスラエルとの国交正常化を進めており、各国の思惑は錯綜しており、ロシアは両国の動きに神経を尖らせている。ガザ紛争が落ち着いた後の西側との接近の可能性もあるからだ。他方でロシアと地域大国イランとの接近は、UAEとサウジにとって大きな関心事だ。
いずれにせよ、プーチン露大統領が中東諸国への動きを活発化し始めたその真意が、パレスチナ情勢の出口の模索に関わっていると同時に、ウクライナ情勢の今後の対応とも深く結びついていることは確かだ。ロシアがパレスチナ問題で地域諸国の好感を得て、国際的な追い風を背景にウクライナ紛争の有利な展開を期待しているのも明らかだ。それは1956年のときに世界が経験したふたつの同時進行の紛争時の国際社会構造に彷彿させる。
だとすれば、ナショナリズムの交錯を曖昧にしたままの大国間の妥協による「力の平和」が暫定的解決策となる可能性は否定できない。それは歴史的アナロジーによる仮説だが、一概に否定できない。国際構造の不変的観点、あるいは連続性から一考の余地はあるのではないか。わたしたちは果たして冷戦を経て前に進んでいるのであろうか、という問いでもある。
そして他方で、ロシアのアメリカへの接触も報じられている。アメリカにとっても二つの紛争が長引くことは望ましいことではない。本年の春秋に控えた露・米両国の大統領選挙を考えても不安定な国際情勢はマイナス要因でしかない。両国による解決の糸口はどこにあるだろうか。いずれにせよ国連での議論と合意は前提となるだろう。
国際社会構造の連続性—大国間外交の妥協
ポズナン暴動・ハンガリー動乱にみられたスターリン以後の東欧諸国の自由化の奔流も一昨年来の争点となっている一連の東欧諸国とウクライナのNATO加盟も、ロシアにとって自らの勢力圏への脅威に思われただろうというのは時代を超えた共通点だ。この点についてはわが国ではあまり詳しく論じられていないが、冷戦終結以後のNATO拡大のプロセスで見られたロシアの欧州安全保障共同体構想や通常兵器の東西の均衡を約束したCFE(通常兵力削減)条約とポーランドなど旧東欧諸国へのNATO加盟国拡大後の兵力均衡を約束したACFE(CFE適合条約)などをめぐる米国の消極姿勢は独仏西欧諸国との違いを際立たせた一面だった。それは同時にロシアの不信を募らせた
筆者はロシアが国際法を蹂躙してウクライナに侵攻した事実を擁護するわけでは決してない。しかしロシア外交の本質が、冷戦が終結したからといって急に変容するものではないことももっと認識すべであったと言いたい。もう少しロシアをうまくハンドリングすることはできなかったのか。結果的に今日の事態を考えると、西側諸国にとってもそれは考慮に値する課題だ。柔軟な交渉による歩み寄りの挫折は結局、米露(中)の大国間の軍事バランスという冷戦時代の国際構造が依然として有効であるという負の世界認識に我々を逆戻りさせた。
またパレスチナ紛争は世界で最も根の深い歴史的ナショナリズムの対立だ。アメリカはイスラエルを支持しつつ、いずれに対しても抑制的にならざるをえない。スエズ紛争の時もアメリカはイスラエルの進行を止めることはできなかったが、他方でエジプトに対する支持もあいまいであった。
「平和」への妥協への意識共有
しかしそうした大国関係の構図の類似性は今日に生きているとしても、国際秩序そのものは少しずつ変容しようとしている。
1950年代半ばの二つの地域紛争が抱き合わせで解決された背景には1950年代半ば当時東西冷戦の真っただ中で両超大国のグリップが効いていた時代であったこと、中東情勢の混乱による第三次世界大戦の脅威が世界の指導者の脳裏を掠めたことがあった。
しかし今日の事態は冷戦期とは異なり、超大国のそれぞれの陣営でのグリップは弱い。欧州・中国・インドやグローバルサウスと呼ばれる国家群も影響力を持っている。今日国際社会秩序は多極化の様相を明らかにしているばかりか、多角的かつ重層的な多極構造にある。ロシアのウクライナ侵攻後の米欧諸国の対露制裁にみられたように制裁策も単純ではなく、複雑な相互依存の中で利害関係が複雑に絡まり、単独行動やゼロサムゲームが機能しない状況になっている。ロシアの石油禁輸制裁は失敗であった。
国際構造の論理からすると、アクターが増え、関係が複雑化することによって問題は多面化する。しかし逆説的だが、多様化する問題の個別の解決が難しくなると、全体を通した原則合意を通した「暫定協定(Modus vivand)」による対立緩和へと流れていく可能性は人間社会の必定でもある。つまり時間の経過とともに問題の解決は一貫した論理ではなく、アクター間の意識共有(大戦の危機感や決定手的な対立回避と停戦・休戦への妥協志向)や情緒に支えられた暫時的な妥協によって実現する可能性が高くなる。
「暫時協定」の機運
そのように考えると、米露大国間の妥協を前提に二つの紛争をセットにした同時解決の道筋が浮かび上がってくる。もちろんそれは暫時的なものにすぎず、当面の停戦の糸口となるではあろうが、最終解決ではない。流血の惨事の拡大を少しでも早く止めるための暫定協定という当面のリアリズムにすぎない。
しかし当面はそこまで至ることも難事だ。ウクライナ戦争もガザをめぐる武力紛争にも決定的な解決策の見通しはない。停戦が当面の喫緊の課題だとすると、歪な形ではあるが、複数のアクター間の取引の中に包括的な妥協の道を探ることになる。筆者はロシアにそれだけの余裕があるか注目していたが、最近のロシアがサウジアラビア・アラブ首長国連邦、イランへの接近がその先駆けとなるであろうか。染まあたりは冷戦時代と違いロシアの影響力は後退している。米国も同様だ。大国外交は衰えを隠せない。
ロシアの中東地域接近は西側に対向してパレスチナの分断を煽る行動でもあるように見えるが、地域関連諸国は戦禍の飛び火を望まない。地域諸国の仲介の労をとることはロシアの存在感の拡大につながる。その先にはウクライナ紛争の収束を有利に運びたいという狙いも透けて見える。当事国の意向があまり反映されない形にはなるが、二つの同時紛争を抱き合わせた大国間の妥協による複数課題の一括解決への道だ。それは歴史のアナロジーに頼るひとつの仮説だが、その背景には米露対決の冷戦的構図が依然として残っているためである。
グローバルプレイヤーとしての日本外交の模索
そうした中で日本の役割は、東アジアの勢力をまとめ一つの声とすることではないか。
20年前イラク戦争の時日本はいち早く米国支持を鮮明にしたことで、東アジアを糾合する役割をはたしたのだが、「湾岸トラウマ」だけが頭にあったため、その効果をよく理解しえなかった。
そのあとには韓国やヴェトナムなどの東アジア諸国の日本との協力姿勢が続いた。東アジアからのイラク攻撃支持だった。その意味では日本は東アジアの意見をまとめたのである。この自分自身のアメリカに対する貢献を日本はよく理解していない。国際社会へのグローバルな視点がないからだ。
今後は、歴史のアナロジーを超えて、米国一辺倒やG7という大国主義の枠を超えたグローバルな視野からのより見識ある外交努力に成果を求めたい。それこそ歴史の教訓である。直接紛争解決の技術的なコミットはできなくとも、ナショナリズムの芽を摘まない妥協的ではあっても、きめ細かい関与、つまり停戦の条件作りなどでの少数派の今後の生きる道を模索した暫定合意の提案である。おそらくそれは地域に限定されないより大きな枠組みでの共生と紛争防止措置など法律・制度設計などの提案となるであろう。それが東アジアからの声として主張できるのはASEANと日本しかないはずである。それこそ歴史のアナロジーでありながら、グローバルな歴史の発展の今日的なあり方ではないだろうか。