(1)気候安全保障とは何か

欧米では1990年代から環境問題がもたらす安全保障上のリスクについて議論されており、2000年代に入ると気候変動の影響が焦点となった。とりわけ、2007年にイギリスが気候安全保障に関する報告書を国連安全保障理事会に提出したことをきっかけとして、気候安全保障に対する国際社会の関心が高まった。日本でも早くも2007年に環境省中央環境審議会が気候安全保障に関する報告書を発表していたものの、その後は議論や政策対応が進まなかった。しかし、近年になり、2020年にパリ協定の運用が開始されたり、2021年にバイデン大統領が就任し、気候変動を外交・安全保障政策の中心課題に据えたりしたことを受け、改めて日本でも気候安全保障に対する関心が高まっている。

「気候安全保障」という概念を広義に捉えれば、脅威の種類が2つある。1つは、①気候変動、あるいはそれに伴う自然災害や異常気象そのものであり、もう1つは、②気候変動によって発生する紛争や暴動である。他方、脅威から保護する客体としては、人間の生存と尊厳、国家・地域の平和 安定、軍事施設・運用、生態系等、様々な対象が含まれる。
 これらのうち、近年活発に議論されている狭義の気候安全保障とは、「気候変動が遠因の紛争や暴動」から国や社会を守ることである。ここで、気候変動が紛争の「遠因」となる経路には2つのパターンがある。①気候変動による自然現象が社会経済の混乱を招くケースと、②気候変動に対する緩和策や適応策などの政策が国家間の対立を引き起こすケースである。

(2)気候変動による自然現象に起因する紛争

気候変動や地球温暖化が社会の安定を脅かすメカニズムについて、気候安全保障研究では、過去数十年に実際に生じた紛争や暴動の事例を研究することにより、今後激甚化する、あるいは頻発化する異常気象や自然災害と紛争との関係を類推するという方法が主に用いられている。世界が地球温暖化に直面しつつあるといえども、その影響は十分に顕在化しておらず、気候変動と紛争の関係を直接実証的に分析することはまだ難しいからである。
 具体的には、気候変動が紛争に至る経路として次のようなメカニズムが指摘されている。
 まず、①水や食料などの希少資源を巡る競争と対立が長らく懸念されてきた。一方、資源不足は国家間の協力を促すこともあり得る。資源不足が紛争を引き起こすか協力を促すかは、それが短期的なものか長期的なものかによって異なる。次に、②気候移民、すなわち気候変動による移民や難民の流入により、移住者と先住者との競争や民族間の緊張が高まり、結果として紛争を引き起こす可能性がある。また、③気候変動による異常気象や自然災害は、食料生産に深刻な影響を与える可能性がある。食料危機になれば、農業や漁業の生産者の収入が減少したり、社会全体の食料価格の上昇を招いたいりする。その結果、食に行き詰まった人々が紛争に加担してでも生計を立てようとするかもしれない。なお、④気候変動は食料に限らず物価全体のインフレをもたらすことがあり、これを特に気候インフレと呼ぶ。さらに、⑤異常気象や自然災害により経済全体が停滞すれば格差が拡大し、それが紛争や暴動の温床となることも危惧されている。最後に、⑥北極圏の海氷融解や海面上昇による領土・領海・EEZの消失といった気候変動に伴う地政学上の変化も紛争の要因となり得る。
 ただし、以上のようなメカニズムで気候変動が紛争につながるかどうかは、国や地域の脆弱性や適応能力に依存する。例えば、経済発展レベルやガバナンス能力などの要素が重要である。

(3)気候変動対策に起因する紛争

次に、気候変動が紛争の遠因となる第2のケースとして、気候変動に対する緩和策や適応策という政策対応が招く国家間の対立がある。ここでは、今後の国際社会で新たな対立の火種になりうる気候変動対策として、エネルギー転換、グリーン産業政策、気候工学の3つを指摘したい。
 まず第1に、エネルギー転換がもたらしうる地政学的な影響である。ロシアによるウクライナ侵攻から得られた教訓の一つは、エネルギーの海外依存のリスクである。EUはロシア産の化石燃料への依存を減らすため、再生可能エネルギーの普及目標を引き上げている。再生可能エネルギーは、エネルギー自給率の向上、あるいはエネルギー安全保障の向上に寄与するとされている。他方、化石燃料の需要は減少する一方で、天然ガスの需要と重要性は相対的に増えると予測されている。エネルギー転換により、化石燃料産出国の経済に影響が出る可能性があり、地政学的な勢力図も変化すると予測される。
 また、再生可能エネルギーのポテンシャルは国によって異なり、供給の安定性が国家の経済産業に関わる重要な問題となる。再生可能エネルギーの普及や脱炭素の実現に必要なレアメタル、レアアース、グリーン水素などの地域による偏在も国際関係に影響を与える要素となる。残念ながら、日本の再生可能エネルギーのポテンシャルは、国際的に見て決して高い方ではない。
 第2に、グリーン産業政策である。環境と経済成長が両立する、持続可能な発展を目指す経済をグリーン経済と呼ぶ。そのグリーン経済において環境保護(気候変動対策)で成長を目指す産業政策がグリーン産業政策である。グリーン産業政策は、今後の国家の産業競争力と経済成長に大きな影響を与えると考えられる。
 グリーン産業政策がもたらす地政学的な影響は主に2点ある。まず、環境技術や脱炭素技術の知的財産を巡る国家間競争の激化である。例えば中国は、早くも2007年からグリーン産業政策に積極的に取り組んでおり、新エネルギー分野での世界最大のシェアを獲得している。また、グリーン産業政策は自由貿易体制にも緊張をもたらしている。脱炭素に取り組む国が輸入品に炭素関連の課税を行ったり、脱炭素コストを還付したりする炭素国境調整措置が導入される可能性がある。そうなれば自由貿易を阻害し、国際的な貿易摩擦を引き起してしまう懸念がある。
 そして第3には、気候工学が招く対立である。気候工学は工学的手法を用いた温暖化対策であり、温室効果ガスの排出削減が十分でない場合のプランBとして議論されている。具体的な手法としては、太陽放射管理や二酸化炭素回収が挙げられる。太陽放射管理は比較的安価な投資で実施可能であり、温暖化の回避に資することが期待されている。ただし、気候工学には、効果に対する批判や予期せぬ副作用の可能性があり、慎重な検討が必要とされる。また、意図的な悪用や管理体制などをめぐり国家間の対立が起きる可能性もある。

(4)インド太平洋の気候安全保障リスク

インド太平洋地域の気候安全保障リスクに議論の焦点を絞ると、まず、気候移民が地域の安定を脅かすことが懸念される。海面上昇により、太平洋やインド洋の島嶼国など海抜の低い国々の人口が危険にさらされる可能性があるからだ。また、気候変動の影響を受ける人口の数も多く、気候難民として周辺諸国に溢れかえってしまうかもしれない。
 次に、豪雨や洪水が増加することにより社会が不安定化するリスクも指摘されている。気温が上昇すれば豪雨が増え、洪水も発生しやすくなると予測されている。実際、洪水の発生と内戦の長期化を示す実証研究もある。
 また、気候変動により漁業資源や海底資源、領土・領海・EEZを巡る対立が激化する可能性がある。今後、海水温の上昇により魚の生息域が移動すれば、魚を追う漁船が他国の領海やEEZへ侵入する事態が生じかねない。また、日本は沖ノ鳥島を巡る対立の可能性に備える必要がある。沖ノ鳥島は日本の国土面積を超える40万平方キロメートルものEEZを支えているが、近年、海面上昇により完全に海に沈みつつある。そうなれば、日本は沖ノ鳥島周辺の広大なEEZを失ってしまう。
 さらに、中国が直面する水資源の不足も重要な問題だ。中国の淡水資源は世界のわずか7%しかないとされる。そこからさらに水不足が進行すれば、水資源の確保をめぐり周辺諸国との間で緊張が生じかねない。中国は水不足対策として人口降雨プロジェクトなどを検討しているが、周辺諸国への悪影響が強く懸念されている。

(5)気候安全保障リスクの回避策

最後に、気候安全保障リスクに対処するため日本がなしうることについて述べたい。まず、言うまでもなく温室効果ガスの削減と気候変動対策の推進が重要である。気候変動の深刻化を防ぐことで紛争リスクも低減できる。また、途上国の脆弱性を低減し適応力を向上させるための支援も必要だ。日本による経済支援やインフラ整備がこれまで以上に一層重要となる。さらに、気候変動による対立を避けるため、日本、中国、韓国、東南アジアを含むハイレベルの政策対話を行ってはどうか。周辺国に対する支援においても、これらの国々が協力し合うことが求められる。さらに、日本は気候変動下の新たな国際情勢に適応した国際ルールの形成を主導すべきだ。海洋法条約の解釈や修正などを日本に有利な形で進めるためにも、リード役を果たすことが重要である。

(文責、在事務局)