1.謎のなかの謎のなかの謎

「ロシアは、謎のなかの謎のなかの謎だ」というのは、有名なチャーチルのことばであるが、日本人にとってもロシアは謎でありつづけてきたと思う。

もともと海洋国家の人間にとっては、大陸国家の人間の考えることは、肌では分からない。

戦略論的にいうと、概して大陸国家の発想が「むきだしの力による正面突破的」な直接接近的発想に傾くのに対して、海洋国家の発想は「洗練された知恵による迂回作戦的」な間接接近的発想である。

チャーチルにとってロシアが謎でありつづけたのは、イギリスが間接接近戦略の優等生であったのに対して、ロシアが直接接近戦略の化身とさえいえる存在であったからだともいえる。それは、外交や軍事だけでなく、内政やその背後にある社会、文化の構造についてもいえることである。その点、ドイツ人や中国人は、同じ大陸国家人として、もう少しロシア人をよく理解しているようにみえる。ある意味でいえば、日本人こそはロシア人ともっと対蹠的な存在である。日本人とロシア人は、海洋国家と大陸国家という体質だけでなく、東洋と西洋という文明圏をも異にしているからである。

そのために、日本人とロシア人は不幸な誤解と不信を積み重ね、その悪循環のなかで関係発展の手がかりをつかみ損ねて、今日に至ってきたようにみえる。

日本人からみれば、1806年のフヴォストフの樺太、択捉、利尻襲撃とその乱暴狼藉ぶりは、まさにその後の日露関係を特徴づける(と日本人の思っている)ロシアの「無法ぶり」の開幕ということになる。

しかし、ロシア人にしてみれば、フヴォストフの乱暴狼藉は、1792年のラクスマン、1804年のレザノフの訪日を幕府が「無礼にも」門前払いしたことに対する粗暴なる腹いせであった。これに対して日本側は、ロシア船打払令をもって応え、たまたま国後島に来航したゴロヴニンを逮捕、拘留する。すると、ゴロヴニンの部下リコルドは、ゴロヴニンを取り返すために、通りかかった船ごと高田屋嘉兵衛を連れ去り、人質にする。

そんなことの繰り返しで、日露関係は今日に至っている。第一次大戦の勝者日本は北樺太を占領したが、第二次大戦の勝者ロシアは北方領土を占領した。日本は北樺太を返したが、ロシアはまだ北方領土を返していない。日本人とロシア人はいつまでこのような不幸な悪循環を再生産しつづけてゆくのだろうか。

クルスク号事件の余波がくすぶる824日からプーチン大統領訪日前夜の31日までの8日間、ロシアを訪ねた私の胸のなかを去来していたのは、そのような思いであった。それにしても、まずありのままのロシアとロシア人を理解することがすべての前提にならなければならない。

196365年の3年間滞在したソ連を離れて以来、私は数年おきにロシアを訪ね、定点観測をつづけてきた。今回の訪露の目的も基本的にはその延長線上にあったが、その印象は結果的に強烈なものとなった。私がモスクワを訪ねるたびに必ず立ち寄るウクライナ・ホテルの向かいの土と汗の臭いの立ちこめていたスタローヴァヤ(大衆食堂)は、「ザラトイ(黄金)レストラン」という看板を掲げた高級民営レストランに変身していた。蝶ネクタイをしめたウェイターが私にフランス料理のメニューを渡して「何になさいますか」と聞く。私は思わず「今回が、最後の定点観測になってしまったな」と絶句した。私に同行していた日本大使館の若い書記官は、いぶかしげに「どういう意味ですか」と聞いてきた。かれらはもうソ連時代のロシアを知らないのである。「ぼくはずっとロシアの水温の変化を測って来たのだが、今回来てみて、ロシアの水がみんな蒸発してしまったのを知ったのさ」と答えたのだが、すぐに私の真意を察した彼からは「上手い喩えですね」とのコメントが返ってきた。

今回の訪露では、ロシアの有識者18人と意見交換をおこない、銀行、工場などの経済の現場を視察し、モスクワ以外の地方都市も訪ねた。

その結論をさきに述べる。読者の大部分は大胆すぎる結論と思われるかもしれないが、プーチン大統領は今後10年、20年の長期にわたり新生ロシアの建設を指導することになり(もちろん病死や暗殺などの個人的事件が突発すれば、それは別だが)、ロマノフ朝ロシアのピョートル大帝やソビエト・ロシアのスターリンに匹敵するロシア史上の建設者としての位置を占めることになる予感がする。

予感と言えば、私は「ベルリンの壁」崩壊の8ヵ月前の19893月にロシアとドイツを歴訪し、「独ソ接近が、東欧解放を経て、ドイツ統一をもたらす可能性がある」と予言した(『文藝春秋』同年67月号にて発表し、その全文はその後拙著『「二つの衝撃」と日本』に収録)。今回の予感の確度は、あのときよりもさらに高いということを申し添えておこう。予言ということでいえば、私はもう一つの予言をしている。それは『中央公論』の19911月号に発表したものであるが、「ロシア帝国三段階解体論」という予言である。前年の10月にドイツが統一したとはいうものの、当時はワルシャワ条約機構も、ソ連邦もまだ健在であった。しかし、私はソ連邦というものの帝国主義的性格と「帝国」というものの解体の歴史的必然性を踏まえて、やがて「大帝国」(ワルシャワ条約機構)はもちろんのこと、「中帝国」(ソ連邦)も、その一部である「小帝国」(ロシア連邦)もすべて解体すると予言したのであった。「大帝国」「中帝国」はたしかに解体されたが、「小帝国」はまだ解体されていない。今回の訪露から帰って、私は「ロシア帝国三段階解体論」の3分の2(「大・中帝国」の解体)は的中したが、3分の1(「小帝国」の解体)は外れたということを認めたいと思う。それは、プーチン・ロシアの誕生をロシア史の第四段階の誕生として位置づけることの論理的帰結だからである。

2. ロシア史の第4段階

ロシア史は、リューリック朝、ロマノフ朝、ソビエト政権の3段階を経て発展してきた。第1段階と第2段階の間に約10年間の有名な「動乱時代(スムートノエ・ヴレーミャ)」があり、第2段階と第3段階の間にやはり約10年間の「革命と内戦の時代」があった。エリツィンの10年間は第3段階と第4段階の間の「破壊と混乱の時代」であって、ロシアはプーチンを迎えてこれからようやく新たなる第4段階へと進もうとしている。少なくともそれが多くのロシア国民のプーチンに対する期待である。今回会ったロシア人たちは、第4段階のロシアを「民主ロシア」と呼んでいたが、同時にそれが西側の民主主義と同じものではありえないことを強調していた。

私は、だからそれを「新生ロシア」ととりあえず呼んでおく。それは亡命ロシア詩人レフ・ローゼフが「調和とコンセンサスを重視する権威主義的民主主義」と呼ぶものであり、「チェックス・アンド・バランセズ」に依存しないが、「人民の承認と支持」を基盤とするかぎりにおいて民主主義なのだという。そこで何よりも渇望されているのは、秩序であり、それをもたらす力である。このような価値観がロシア史の第1段階から第3段階まで通底していた価値観と本質的な点で一貫していることは驚くばかりである。前述の喩えにもどれば、「水蒸気もまたHOである点においては、水となんら異ならない」のである。

先に紹介したスタローヴァヤの変身ぶりは、今日のロシアの変身ぶりを象徴している。今回の訪露で「ロシアは本当に変わった」と思った。「もうソ連時代(ロシア史の第3段階)だけとの比較は、意味を失いつつある」と思った。しかし実は、だからこそ「ロシア史の源流(1、第2段階)に遡る比較が、いいかえればロシア人とロシア文明全体の本質的理解が、今日よりいっそう重要になった」とも思った。なぜなら、ロシア史のその理解なしには、ロシア史の第4段階を予想することなどはできないからである。

まず、逆にソ連時代のまま変わらずに残っているものがあるのかという点をみてみよう。

1歩を印すのはシェレメチェヴォ国際空港で、暗くて狭い点は昔のままだが、人がごった返し、白タクが横行し、入国手続きや通関手続きが簡素化されているのは、旧ソ連とはまったく別の国の光景である。市内に入ってくると、目抜き通りは、名前がゴーリキー通りからトヴェルスカヤ通りに変わっただけでなく、歩いている人びとの人種まで変わってしまったような印象を受ける。道行くすべての女性が同じデザイン、同じ材質、同じ色彩のレインコートを着て歩いている(西側の人間からみて)異様な光景が、ソ連時代のゴーリキー通りでは日常的光景であった。しかし、今日のトヴェルスカヤ通りでは、パリやロンドンの街並みと変わらない色とりどりの服装が目に飛び込んでくる。私が泊まったのはメトロポール・ホテルだが、建物もサービスも西側一流ホテルと遜色なく、ソ連時代の同名ホテルの面影はまったくなかった。

私が特別の関心をもって訪ねたのは、ヴェー・デー・エヌ・ハー(国民経済達成博覧会)である。ここはソ連時代に社会主義経済の優越性を誇示するために、各連邦構成共和国がそれぞれのパビリオンに競って自国産品を展示した国民必見の重要施設であった。

しかし、いまはそれと知るひとも少なく、名前もヴェー・ヴェー・ツェー(全露展示センター)と変更されている。何か特別の産品が陳列されているわけでもなく、ロシア以外の共和国のパビリオンはすべて撤去され、巨大な入口正門と突き当たりにあったロシア館が残るのみ。プレハブ造りの露店が敷地の両側に並ぶ。ロシア館の内部も、場所貸しの結果そうなったと思われる目も当てられぬ安マーケット。しかるに不思議なのは、入口正門の表示と最寄りの地下鉄駅の駅名は、依然「ヴェー・デー・エヌ・ハー」のまま。敷地内の社会主義労働者英雄の巨大な銅像もそのまま。これは何を意味しているのであろうか。

それは今生まれつつある「新生ロシア」の自信を示すものであろう。ソ連時代のモニュメントを消し去る努力をする必要がないのである。放っておいても、人びとはヴェー・デー・エヌ・ハーの残光などには、もはやまったく関心を示さないのである。まだロシア中の多くの場所にレーニンの銅像がそのまま立っているが、これは置き去りにされているのであって、保存されているのではない。代わりに各地で新たに顕彰されつつあるのが、ロシア史の前々段階(つまり帝政ロシア)の英雄たちである。なかんずくピョートル大帝への崇敬の念は特記に値する。ロシア革命で処刑されたニコライ2世や反革命軍の指導者コルチャック提督さえも復権しつつある。

それもそのはず、「新生ロシア」になってから誕生した「絢爛豪華なロシア」がモスクワ中にあふれていた。モスクワの赤の広場に近いマネージ広場地下に新設されたショッピング・センターなどは、その代表的なものであろう。世界中のありとあらゆるブランドの商品があふれており、しかもよく売れている。マクドナルドを始めとするファースト・フードのレストランも家族連れの市民であふれていた。昔「グム」と通称されたクレムリン前の国立百貨店も、たぶん場所貸しに転身した結果なのだろうが、西側ブランドの専門店がずらりと軒を並べ、きらびやかな雰囲気に一変していた。昔の「グム」の陰鬱な面影はまったくない。なんといっても、「新生ロシア」を象徴しているのは、モスクワ川をはさんで対峙する救世主キリスト聖堂とピョートル大帝像の二つの巨大な建造物であろう。「新生ロシア」が抱いている伝統的ロシアへの郷愁をこれほど雄弁に物語るものは、他にあるまい。

3. 資本主義揺籃期

とはいえ、そんな風に西側の輸入商品が置いてあって、かつ売れるというのも、それがモスクワだからのことであって、モスクワから一歩外に出れば事情は異なるのではないか。地方に行けば、「ロシアはロシア」ということで、旧態依然たるものがあるのではないか。読者のみなさんはそう思われるかもしれない。それは私自身の先入観でもあった。しかし、それがどうもそうではないのである。そのことが分かってきたあたりから、私の「新生ロシア」観は急速な軌道修正過程に入っていった。そのことを告白せねばなるまい。

念のため、私はモスクワから約100キロ南にあるセルブーホフという地方都市まで車を走らせてみた。ハイウェーもソ連時代のそれとは比較にならぬくらい改善されていて、片道三車線で中央分離帯まである。ソ連時代は、中央分離帯どころか、車線も引いてなかったので、まるで湖のなかに小舟で乗り出していくような錯覚をよく覚えたものである。途中「モテェリ」(つまり英語の「モテル」)まで見かけた。また、途中のハイウェー沿いの平原に廃品となったコンテナーを屋台のように並べたルィノク(市場)を見かけたので、「これこそは、ソ連時代の物質不足の生き残りならむ」と、目撃者たるべく、車を停めて、中へ入っていったが、こんなところにも商品はやはりなんでもあった。たばこを例にとると、「ケント」「ウインストン」「マールボロ」などが並んでおり、かつ売れていた。

値段は「ケント」が198ルーブル(792)、「ウインストン」が125ルーブル(500)、「マールボロ」が171ルーブル(684)。他方、国産たばこもあって、その値段は「ピョートル一世」が80ルーブル(320)、「ザラトイ・カリツォ(黄金の環)」が60ルーブル(240)、「プリマ」に至ってはたったの39ルーブル(156)だ。これで、両方とも、それぞれの購買層に市場を確保して、商売は成り立っているのであった。ところで、「ウインストン」「ピョートル一世」は米国ナビスコ社の海外たばこ部門を買収した日本たばこ産業が、サンクトペテルブルグの旧同社工場で生産しており、ロシアたばこ市場の20パーセントを占める人気銘柄である。

決定版だったのは、セルプーホフの郊外でやはりふと見かけて立ち寄ったスーパー・マーケット「タリゴーブィエ・リャドゥイ(商店街)」であった。文字通りなんでもあった。ただ、

トイレ(ソ連時代の公衆トイレはどこに入っても、とにかく汚かった)に入ったら、そのあまりにも清潔なのに驚いたが、出口で2ルーブル(8)を請求されてもう一度驚いた。有料トイレなのであった。サンクトペテルブルグやその郊外にある町プーシキンでも商店をのぞいてみたが、事情は大同小異であった。

「新生ロシア」において、ソ連時代の物質不足がほぼ完全に克服されたということを認めざるをえないと思った。ちなみに、ソ連時代の商店の陳列棚はどこも品不足であった。パンや肉、乳製品といった生活基本物質さえ商店からほとんど姿を消すこともまれではなかった。また、商品は例外なく国産品で、その品質は粗悪の一語に尽きた。

ところで、あるシンクタンクのロシア人から聞いたのだが、そのシンクタンクの研究員や職員の月給は、米ドルにして平均約30ドルだという。日本円なら3千円である。お役人の月給もそんなものだという。

ではどうして、かれらが商店であんなにたくさん買い物ができるのだろうか。ロシアの物価が米国や日本より安いといっても、10分の1であるわけはない。これもあるロシア人から聞いたのだが、まず表に出ている経済は全体の半分以下、いいかえれば半分以上が闇経済なのだという。

また、別の角度からみると、貨幣経済は3分の1以下で、パーター経済と自家菜園のような自然経済が全体の78割を占めているという。しかも、同じように闇経済の比重が大きいといわれるイタリアでは、闇経済といえども貨幣経済の一部であることに変わりはないが、ロシアでは闇経済は貨幣経済とは全然別経済で、両者は地下でもつながっていないというのである。「ロシアの国内総生産(GDP)がオランダと同じはずがないでしょう」ともいわれた。ロシア経済はイタリア経済的な側面もあるが、サウジアラビア経済的な側面もある。つまり、ロシアは年間に石油を約3億トン、天然ガスを約6000億立方メートルも生産する国でもある。その大部分が輸出され、しかもその石油価格はいまやバレル当たり30ドル台の高水準にある。天然資源だけでなく、高い教育水準の人的資源もある。アジア・アフリカの発展途上国とは異なる底力がある。ロシア経済は1998年の経済危機によっていったん破綻したが、99年に入ってからは、石油価格の高騰に助けられるだけでなく、ルーブル切下げの輸入代替効果が出て、製造業の復権もみられるようになってきた。

ロシアの40以上の都市に販売網を展開し、清涼飲料水や乳製品の全ロシア市場の3分の1以上を押さえたという民営企業ヴィムビリドン社は、いまや従業員12000人の大企業だが、10年前に会社を設立したときの従業員数は10人であったという。モスクワ郊外にあるその工場を訪ね、見学した。「J-7」という商標のジュース(立ち寄ったすべてのスーパー・マーケットで売っていたし、サンクトペテルブルグからモスクワに帰ってくる飛行機の機内でもサービスされていた)で当たりをとったあと、経営困難となった国営のリャノフスキー社の株式を取得したという。

リャノフスキー社の経営陣は「売れようが売れまいが、計画通り生産する」というやり方だったが、自分たちは「まず市場モニタリングをしてから、売れ筋を生産する」由であった。ロシアの商業銀行はリスクを恐れてなかなか融資してくれないが、ジュース原液を納入しているカーギル社()や生産設備を納入しているテトラパック社(スウェーデン)の保証を得て、シティバンクやコマースバンクなどの外国銀行から融資を受けている由。このため、

生産ラインはほとんど外国製で、コンピューター管理され、24時間稼働していた。復権しつつあるロシア製造業の一例である。イムペクスバンク財閥のオーナーであるオレーグ・キセレフ氏とはモスクワ市内の同財閥本部で会った。ソ連時代には学校の教師をしていたという同氏は、1988年に百貨店経営に乗りだし(今日全ロシアに67店舗を展開)、いまや銀行、鉱業、兵器産業、外国貿易、建設、情報技術の各分野にわたる一大財閥を築き上げた。そのキセレフ氏が「ビジネスを始めたとき、税金を払うという観念はなかった。すべてが急激に変わり始めたのは1990年以後だ。これからはグローバリゼーションの競争のなかで生き残ることが課題になる。ソ連時代の文化や伝統を克服しなければならない」と語っていた。アメリカでカーネギーやロックフェラーが登場し、日本で三井や三菱が台頭した、そんな資本主義の揺籃期を想起させる歴史的段階に、いまの「新生ロシア」は位置しているようだ。

4. 信義誠実はつうずるか

このようにしてロシアは、ようやくソ連崩壊後の混乱期を抜けだし、いまついにソビエト時代と訣別した新体制建設の緒につきつつある。とすれば、今後日本はこのようなロシアとどのように接してゆけばよいのであろうか。

その点を考えるに当っては、ロシアの外観の変化だけでなく、内面、つまり体質の変化も見定める必要がある。

いきなりずばりと結論をさきにいえば、これまで同様に条理や法理に基づいてあるべき日露関係の姿(北方領土返還と平和条約締結)を説得する努力も大切であるが(なぜならそれが戦後日本人の価値観であり、外交というものの正道でもあるから)、しかし同時にロシア人がそのようなもの(国際道義や国際法)を、無視とは言わないまでも、甚だしく軽視してきた民族であるという事実もよく見据えておかねばなるまい。これまで日本がロシアに対して展開してきた「正論外交」をロシアはけっきょくどのように受け止めているのか。「馬の耳に念仏」の側面はないといってよいのか。こちらがある約束を取り付けたと思っていても、平気でそれを反故にするのがロシア外交の伝統であるが、その辺りの体質に変化はあったのか。日本人は「武士に二言なし」といって、言葉や信義を何よりも尊重するが、世界中のすべての民族がそうであるわけではない。

エリツィン大統領が1993年の東京宣言で「両国が合意した諸文章」と「法と正義の原則」により択捉、国後、歯舞、色丹の四島の帰属問題を解決すると約束し、両国政府間に設置された「日露平和条約作業部会」が「諸文章とは何か」「法と正義とは何か」についてすべてを究明し尽くしたとしても―――そして実際に究明し尽くしたのであるが―――それらはロシア側にとってけっきょくどんな意味を持っていたのか。

クラスノヤルスク合意の期限であった2000年がいまむなしく流れ去ろうとしている。

ロシア人はやはり依然として基本的に力とそれのもたらす利益にしか関心がないのか。ロシア外交史をひもとけば、ロシア人は、相手が力をもっているから交渉するのであり、交渉目的は正義の実現などではなく、ロシアの最大利益の獲得あるのみであったことを示している。「新生ロシア」はソビエト・ロシアから訣別しようとしているが、他面で帝政ロシアに回帰しようとする側面もみられる。力の外交は、帝政ロシア、ソビエト・ロシアを貫流して変わらずに続いてきたロシア外交の体質である。「新生ロシア」もまたこの体質に関する限り、これを継承しようとしているようにみえる。われわれはこの点をよく見届ける必要がある。

であるとすれば、これからは「北方領土返還なしの日露関係発展はありえない」ことを何よりもさきにはっきりと述べることが重要である。そして同時に「領土問題が解決すれば、日露関係は飛躍的に発展する」ことも強調するのである。「日露関係発展」といっても、それは日本が「島を買い」「ロシアが島を売る」というような矮小な意味ではない。もちろん、経済協力、投資、貿易、観光交流等の経済的関係は発展するだろう。しかし、真の「日露関係発展」とは、安全保障面の協力関係構築を含むものでなければならない。大陸国民ロシア人の安全保障に対する関心の強烈さには、海洋国民日本人の想像を絶するものがある。とくに極東ロシアは、歴史を遡ればロシア人が愛琿条約、北京条約によって中国人から奪った領土であり、その中国の興隆とは対照的に極東ロシアの人口が減少し、経済が衰退している現状は、ロシア人にとって大きな不安の種である。経済協力、安全保障の両面でロシア人に「日露関係発展」の重要性と、その前提としての北方領土問題解決の不可欠性を説得することが求められる。

であるとすれば、官民の日本人はこれからは「領土問題の解決を前提として」という前提条件を付した上でのことではあるが、もっともっと日露共存共栄の夢を語るべきである。シベリア鉄道を欧亜両大陸を結ぶランドブリッジに育てる夢や、シベリアの石油や天然ガスをパイプラインで中国、朝鮮、日本にもってくる夢や、オホーツク海を日露の内海にするためのオホーツク海自由交流地域構想の夢や、その他多くの夢を語るべきなのである。今回の訪露では、意外に多くのロシア人が「北方領土を返還しなくても、日露関係を発展させることはできる」との安易な、あるいは「領土問題を解決しても、だからといって日露関係が発展するものではない」との悲観的な、対日理解をしていることを知った。こういう状況を放置しておいて、いくら正論だけを説いてみても、日露関係は動くわけはないのである。

コルトゥーノフ学術基金総裁は「北方領土に関するロシア側の認識は、四つの議論によって形成されている。軍事的、経済的、心理的、法律的議論である」という。四番目に法律的議論が来るけれども、それは付け足しであり、軍事的、経済的、心理的議論の補完的議論としての位置づけしかない。

コルトゥーノフ氏は「軍事的議論はもはや愚かな議論である」と認めるが、「北方領土を返還しても、日本からの大規模な対露経済協力は期待できず、漁業資源を失うだけである」という経済的議論と「もうこれ以上ロシアの対外譲歩は止めるべきだ」という心理的議論が大きな要素だという。ただ、同氏は心理的議論について「これまでもウクライナ独立、ドイツ統一、NATO拡大について、世論はこれを許さないといわれたが、指導者がこれを許したとき、世論の反乱はなかった」と述べ、絶対的障害にはならないとの判断を示し、むしろ「北方領土返還がロシアにどのような経済的利益をもたらすのかを日本がもっとはっきりと示す必要がある」との助言をしてくれた。今回18人のロシア人有識者と意見交換したが、「北方領土返還に絶対反対」と言ったひとは一人もいなかった。

しかし、議論のなかで「法と正義」を論点にしたひともほとんどいなかった。そんなことに本気でこだわるのは、子供の議論なのであり、大人の議論は「それでロシアの国益はどうなるのか」ということのようであった。

国家間の交渉が最終的に国益の調整であることは否定できないが、それにしても国益を計量するときに、両国が「法と正義の原則」の価値観を共有していれば、国益計量の基準の筆頭にはこの原則が来るはずである。多分、日米間に領土問題があれば、それは「法と正義の原則」だけで解決できるのではあるまいか。そうでなければ、強固な同盟関係など維持できるものではない。「法と正義の原則」の通用しない相手ということになれば、利益を与えて取引する以外に合意達成の道はないことになる。その場合でも政略結婚的な友好関係は成り立つかもしれないが、それはあくまでも取引関係であって、信義と誠実に基づく「真の友人」関係はそこには存在しない。取引関係も成立しないとなれば、そういう相手との紛争を解決する最後の手段は戦争となる。この場合には相手との関係は敵対関係ということになる。日露間の歴史は、両国の関係がしばしば敵対関係であったことを示している。そして、ロシアという国はその歴史をみると国境を接するどの隣国とも「真の友人」関係になったことはない国のようである。日本としては、まずはせめて取引関係になれるかどうかが、このさいロシアとの関係における真の問題であることを知る必要がある。その過程で、ロシア人が単なる取引を超えた信義と誠実を示すことがあれば、日本人はそれを「新生ロシア」のほんとうに「新しく生まれた」部分として評価し直すであろう。

5. 力治国家として

ロシア人相互の人間関係においても、「法と正義の原則」はそもそも大きな位置を占める行動原則ではない。帝政ロシアもソビエト・ロシアもともに絶対専制君主制の国家であった。実質的には憲法もなく、議会もなかった。閣僚も裁判官もただ一人の絶対専制君主(つまり皇帝あるいは党書記帳)の鼻息を窺う存在にすぎず、これを公然と批判した者は一人もいなかった。人間は社会的動物であって、社会を形成して生きているが、この社会的意思の決定過程が政治過程である。この政治過程に対する支配力を権力というが、この権力の源泉の

所在によってその社会の意思決定の形態が異なってくる。

私はアメリカ、中国、日本、ロシアの政治文化を、この観点から区別して、それぞれ「法治」「人治」「和治」「力治」の政治文化だといっている。「法治」というのは「人は自由、平等であり、その故に自己の同意(つまり契約)なしに義務を負うことはない」つまり「代表なければ、課税なし」の政治文化である。「人治」とは「ある特定のひとの言うことだから従う」という政治文化である。その人が何を言っているのかも、その人がいまどういう地位にあるのかも問題ではない。だれの言葉なのかが問題なのであり、毛沢東が生きているかぎりは毛沢東の言葉が、鄧小平が生きているかぎりは鄧小平の言葉がすべてなのである。

「和治」とは、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」の精神である。「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という政治文化でもある。さて、それでは「力治」とはいかなる政治文化であるのか。それは「力がすべてを正当化する」という政治文化である。イワン雷帝やスターリンの政治はそれを極限まで現実化したものであったが、主張する内容や論理の正当性でも、意思決定の手段や手続きの合法性でもなく、結果として既成事実を創り出してしまった物理的な力の威圧が大勢を決するのである。

「力治」はもちろんそれを受け入れる被治者の存在を前提として成立する。帝政時代のロシア農奴制は、その過酷さにおいて西ヨーロッパの農奴制よりも、むしろアメリカの黒人奴隷制に近かった。地主は農奴に刑罰を科したり、売買したりすることができた。ハーレムの観を呈していた地主屋敷もあった。グリンカの歌劇「皇帝に捧げし命」の主人公イワン・スサーニンは皇帝に対する農奴の絶対的帰依と服従の姿を体現している。皇帝は人民を慈しむ父であって、悪代官を懲らしめてくれるはずの存在なのである。

しかし「そんなことをいっても、ソ連時代の70年を経て、そういう農奴的メンタリティはもはや一掃されたはずだ」とお考えの方もおられるかもしれない。反政府系のある有力週刊誌編集部のS外報部長は、訪ねていった私にその日の『コメルサント』紙の記事を指さしながら、「イトウさん、これを読んでみてください」という。「これはプーチン大統領がマスコミをシャットアウトして、クルスク号乗組員の遺族と会ったときに、会場に潜り込むことのできた『コメルサント』紙のコレスニコフ記者のスクープ記事です」という。「遺族は、最初は『人でなし』『殺してやる』などと叫んでいたくせに、プーチンが死亡した各乗組員の遺族に将校の平均月給相当額を今後10年間支給すると約束したとたんに、急に静かになって『いくらになるのか』と計算を始め、プーチンが最初『3000ルーブル』といい、それから手帳をみて、あわてて『6000ルーブル』と言い直すと、今度は『税金を取られるんじゃないでしょうね』と畳みかけ、プーチンが『非政府財団をつうじて現金で支給するから大丈夫』というと、最後にはみんなそろって『ありがとうございます。プーチンさま』ですよ。ここでは大統領は自分たちの任命した公務員なのではなく、依然として雲の上の慈悲深い皇帝さまなんです。こういう哀れな生き物たちがいるから、ロシアはいつまで経っても本当に民主化しないんですよ」という。サンクトペテルブルグで6人の有識者と会った。予想したことながら、プーチン大統領の評価は断然高い。『ネフスコエ・ヴレーミャ』紙のマニーロヴァ編集長は、遺族への現金支給の約束の件も、「そこがプーチンの偉いところ。これまでの指導者は格式張った葬儀をやるだけ。プーチンは人心の機微をわきまえている。国民はうれしいショックを受けています」という。政治学者のショールキン氏は「エリツィンは旧ソ連を破壊したが、オリガルヒー(寡占資本家)という病菌を持ち込んだ。これを退治するのがプーチンの仕事。それはロシアに法と秩序をもたらすことだ。オリガルヒーはロシアにおける法と秩序の不在を悪用した連中だ」という。ここでも、大統領には唯一国民のことを考えている慈父の役割が期待されているのである。

モスクワにもどって、『ヴェーダマスチ』紙副編集長のオスタルスキー氏から面白いことを聞いた。プーチン大統領はパリでのインタビューで「あなたのモデルとする人物はだれか」との質問に答えて、最初は「ナポレオン」と答え、つぎに「ド・ゴール」と答え、それから「エアハルト」と言い直したというのである。たぶん「ナポレオン」が本音であろうということであった。ニコノフ政治基金総裁(故モロトフ外相の孫)は「エリツィンはファミリーをつうじてロシアを支配したが、プーチンはマシーンをつうじて支配しようとしている」、前述のS外報部長は「プーチンは政治的にはKGB人脈をつうじて権威主義を志向し、経済的にはリベラル人脈をつうじて市場経済を志向している」との見方であった。全ロシア世論調査センターのレヴァダ所長は「プーチンには敵がいない。世論調査の支持率も65パーセントの高率であって、クルスク号事件の影響はみられない。これはかれに対する国民の期待がいかに大きいかということを物語っている」という。

モスクワ滞在の最後の日に戦略策定センターにドミートリー・メゼンツェフ理事長を訪ねて、長時間にわたり懇談した。

このセンターは首相時代のプーチン大統領が昨年121日に自ら創設したシンクタンクであり、その会長のグレフ氏は現在経済発展貿易相を兼任している。創設にあたりプーチン首相(当時)は「現在の経済社会面の困難は、1992年の改革の際にデフォルメされた巨大システムにバラバラの政策のまま市場メカニズムを導入した結果であり、このシステムを市場経済化するためには総合的かつ長期的戦略が必要である」と述べた。

本年6月28日に閣議了解された「ロシア社会経済発展基本計画」は、このセンターが立案したものである。それは国家、社会、経済の全面にわたりロシアの今後10年間の基本的発展の方向を明示している。私もメゼンツェフ理事長からその内容について直接ブリーフィングを受けたが、プーチン政権がこのような長期的・総合的戦略を用意し、それに基づいて国家運営を行おうとしていることは、エリツィン政権との大きな違いである。それは、かつてピョートル大帝やスターリンが巨大な時代の転換期にあって、自分の進むべき方向についての感覚を持ちあわせていたことを想起させる。私がプーチン時代の到来とともにロシアが新段階に入るのではないかと予言することのもう一つの根拠はそこにある。

『諸君』文藝春秋(200012月号)より転載

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