第179回外交円卓懇談会
「イラン・イスラム共和国の外交政策」
日本国際フォーラム等3団体の共催する第179回外交円卓懇談会は、セイエド・アッバス・アラグチ・イラン外交関係戦略評議会書記/元駐日イラン大使を講師に迎え、「イラン・イスラム共和国の外交政策」と題して、下記1.~3.の要領で開催されたところ、その概要は下記4.のとおりであった。
1. 日 時:2022年9月7日(水)15:00〜16:30
2. 場 所:オンライン形式(Zoomウェビナー)
3. テーマ:「イラン・イスラム共和国の外交政策」
4. 報告者:セイエド・アッバス・アラグチ イラン外交関係戦略評議会書記/元駐日イラン大使
5. 出席者:34名
6. 講師講話概要
アラグチ氏の講話の概要は次の通り。その後、出席者との間で活発な質疑応答が行われたが、議論についてはオフレコを前提としている当懇談会の性格上、これ以上の詳細は割愛する。
(1) イランの歴史における3つのフェーズ
イランとその外交政策を理解するには、イランの歴史における3つの異なるフェーズを理解する必要がある。
第1のフェーズは、イランが非常に繁栄した古代文明の時代に遡る。ペルシア文明とペルシア帝国が文化や建築などを通じて世界の文明に貢献した輝かしい歴史は、今でも全てのイラン人の心の中に刻まれている。
第2のフェーズは、イラン革命前の200年〜300年という比較的最近の歴史である。第1のフェーズとは正反対に、この数世紀は暗黒の時代であった。他の第三世界諸国と同様、イランは西洋文明に大きく遅れをとり、経済でも科学でも欧州の後塵を拝した。当時のイランは専制君主制下にあり、統治者は独裁者で腐敗にまみれ、弱く無能であった。結果として、イランは多くの領土を失い、版図が大幅に縮小した。さらに第二次世界大戦では英露の進駐を受け、挙げ句、イランの重要な国家資源である石油が英国の管理下に置かれてしまったのである。
英国への従属状況を打破すべく、1951年にモサデク率いる石油国有化運動が発生したが、わずかその2年後の1953年、米国が謀ったクーデターによりモサデク政権は倒され、シャーによる支配が復活した。その後の25年間、イランの人々は再び独裁と経済的苦境の時代を経験させられた。
そして、イランの歴史の第3のフェーズが1979年のイスラム革命によって幕を開けた。これはシャー独裁に対する革命であった。シャーは一族でイランを支配し、腐敗にまみれ、身内の利益しか考えていなかった。さらに悪いことに、シャー一族はペルシャ湾岸地域におけるアメリカの権益を支える傀儡政権であった。それに対し、革命中、人々は「独立、自由、イスラム共和国」というスローガンを街頭で幾度となく叫んだ。イランは実際には常に独立を維持してきたのであるが、現実として軍、経済を含めイランの全てを支配していたのはアメリカであったからだ。革命の結果、シャーが国外へ逃亡して君主制は崩壊し、イラン・イスラム共和国と呼ばれる新しい政治体制が確立されたのである。
(2) 革命後のイランの外交政策における原則
革命後、冷戦期においてイランの外交政策の主たる原則は中立性であった。我々はこの原則を「非東側・非西側政策」政策と呼び、東西いかなる超大国にも付かず、真の独立を望んできた。革命後の憲法では、イラン国内での外国軍による駐留や基地の設置が禁止されており、イランの軍隊についても、その目的は防衛に限定されている。従い、イランは革命後、直ちに非同盟運動に加わった。その象徴として、イランはモスクワオリンピックに続き、ロサンゼルスオリンピックもボイコットした。これがイランの掲げる中立性であり、今なお有効であると考える外交政策のバランスである。
イランの外交政策の第2の原則は反支配である。とりわけ、米国の覇権に対して抵抗を示し続けてきた。さらに、第3の原則として、独立のため外国の占領と戦っている運動を支援することをイランの憲法は求めている。そして最後に、第4の原則は国益の重視である。第1から第3のいずれの原則も、国益に先んじることはない。
では、革命後に何が起こったのか。米国はイラン革命を覆すべく、様々な対抗策を講じた。革命により、米国は湾岸地域において最も重要な同盟国の1つであったイランを失ったからだ。米国は傀儡であったシャー体制を取り戻すため、イラン近隣の様々な分離主義運動を支援し、イラン=イラク戦争でも、サダム・フセインのイラクに多大な支援を行った。苦境に置かれたイランは、国際社会において孤立する中、「自立」を期してミサイル計画を開始した。イランにとってはミサイルが唯一頼ることのできる国防策であり、完全に防衛を目的とする点で革命憲法とも整合的であった。
だが、米国はイランのミサイル開発に対して制裁を課し、バイデン政権の今でもその制裁は続いている。米国は、なぜイランで革命が起こったのか、さらに、革命後に生じたことの過程も、完全に理解できていなかったと言わざるを得ない。米国は誤った政策でイランへの圧力を強め、結果、イランは米国に対する信頼を完全に失ってしまった。
(3) イランの対米関係改善に向けた努力とその挫折
このような不信関係の中、イランには対米関係の改善を試みる大統領が後に2人現れた。その一人が1997年に大統領に就任したハタミ氏である。彼は、当時アメリカでもてはやされていた「文明の衝突」という見方に対し、「文明の対話」を方針に掲げた。2001年に米国で9.11同時多発テロが起こった際、イランは直ちにテロに対する非難声明を発出し、犠牲者に対し哀悼の意を表明した。その後、米国がアフガン攻撃を開始すると、イランは「共通の敵」であったタリバン政権を打倒するため、米国の戦いに協力した。そして、タリバン政権の崩壊を受け、アフガニスタンに新たな憲法と政権を樹立するために開催されたボン会議でも、イランはアフガンの戦後復興・平和構築のため多大な支援を行った。同会議の成功と、カルザイ政権誕生に至る過程でイランの協力が死活的に重要であったことは、国際社会も認めるところである。
しかし、イランと米国の間には再び大きな不幸が訪れる。ボン会議成功の1ヶ月後、2002年1月の一般教書演説において、米国のブッシュ大統領はイランをイラク、北朝鮮と同列に「悪の枢軸」と呼んだのである。イランが米国との関係改善を図ろうと、アフガニスタンの平和を支援し、信頼醸成の努力を重ねてきたにもかかわらずだ。そして、イランでは対米強硬派のアフマディネジャド氏が大統領に選ばれ、イランと米国の間には再び大きな緊張関係が生じた。これはアメリカの政策が招いたことだ。
それでもなお、イランには米国との信頼関係を立て直そうとする指導者が再び現れる。2013年に就任したロウハニ大統領である。上記のハタミ大統領は改革派であったが、ロウハニ大統領は穏健派であり、イランの核開発に対する信頼醸成を公約に掲げた。彼は、米国はイランに不信を抱いているが、イランの核利用が平和的なものであることを訴え、オバマ政権と交渉を開始した。その交渉は非常に長く厳しく約2年半にわたったが、ようやく2015年にイランと6カ国(米・英・仏・独・ロ・中)の間でJCPOA(包括的共同行動計画)が結ばれた。イランに対する経済制裁は解除され、日本を始め諸外国の企業もビジネスを再開できた。
だが、オバマ大統領の後に米国に現れた指導者は、オバマ大統領に対する個人的な嫌悪感もあり、国際社会からの非難をよそにJCPOAから脱退してしまった。もちろん、イランの政策が常に正しかったと主張するつもりはなく、おそらくミスも犯してきた。それでもなお繰り返し言えることは、イランの歴史を踏まえれば、我々イラン人が望んでいたのは、独立国家として自らの国益のためイラン自身が政策を決定することに他ならない。相手が西側であろうとも東側であろうとも同じことだ。米国はこのイランの基本的な立場さえ理解することなく、イランを強硬にさせ、米国に対する信頼度を低下させた。
(4) イランの核計画
イランの核計画については、国際社会が大きな関心を抱いていることを理解しており、少し説明を加えたい。まず、イランの平和的な核計画は、ここ数年に生じた新しいプログラムではなく、革命の20年前から始まっていた。しかも、そのプログラムを開始したのは米国であり、テヘランにある最初の研究用原子炉はアメリカによって建設されたのである。そして、イランが原子力発電所の建設を決定した際、それを行ったのはドイツであった。しかし、イラン革命後、米独両国はイランから去ってしまい、取り残されたイランは核計画の遂行にあたり、ロシアの手を借りるしかなくなってしまった。
核危機の間、イランは自国しか頼れる存在はないということを学んだ。このことを解さず、米国をはじめとする西側諸国がイランに核技術を放棄するよう圧力をかければかけるほど、イランは自国の技術開発に固執したくなる。そして、徐々にイランの核計画は、費用や利害等を超えて国家の権威をかけた誇りある事業となったのである。
イランは核兵器の保有へと進む意図はない。日本の非核三原則と同様に、核の備蓄、生産、使用を禁止する教えがイスラーム法体系にもある。つまり、イランが核兵器を保有することは、イランのイデオロギーや宗教的教義に背くことを意味する。イランにとって、そういった原則はNPTよりもはるかに重要だ。また、イランは核兵器が我々の安全保障に役立つとは信じていない。なぜなら、もし我々が核兵器を保持すれば、ペルシャ湾岸諸国内での核競争を招いてしまうからだ。サウジアラビア、トルコ、アラブ首長国連邦、そしておそらくエジプトも核兵器の保有へ動くだろう。イスラエルは既に核兵器を持っており、湾岸地域は核をめぐる安全保障のジレンマ状況に陥ってしまう危険がある。この認識に立ち、イランは米欧に対し何度も平和的な核利用の意図を説き、JCPOAに至ったのである。
しかし、トランプはその全てから撤退してしまった。バイデン政権はJCPOAへの復帰を考えており、イランもその準備ができているが、米欧は今回イランに「客観的な保証」を与えなければならない。この保証は、我々イランに対してのものというより、世界の企業のためだ。彼らがイランへの投資を再開するためには、仮に2年後に米国で別の新しい大統領が誕生しても、JCPOAから撤退することはないという安心感が必要だ。目下の米欧との交渉の行末は不透明だが、イランはきっとビジネスの促進に相応しい場を提供できると確信している。
(5) イランと日本の関係
最後に、イランと日本の外交関係についても触れたい。まず、両国間には何の問題もない。日本とイランには、相互尊重と相互利益に基づく長い友好関係の歴史がある。イランは、日本への主要なエネルギー供給国の一つである。これまで数多くの日本企業がイランでビジネスを展開し、イランと協働してきた。問題が生じるのは、いつも第三国からだ。その第三国は、日=イラン関係に大きな障害を作り出している。その障害が取り除かれれば、イランと日本の経済関係は再び非常に高いレベルに戻るはずだ。従来から両国の文化交流は深く、政治レベルの交流も非常に緊密だ。故安倍首相は2019年に、イラン革命後では最初の日本の首相としてイランを訪問した。彼は、イランとトランプ米政権との対立を解決するため、安倍イニシアチブと呼ばれる政策を掲げた。このイニシアチブは誠に残念ながらトランプ大統領の反対で頓挫したが、私は安倍総理の誠意を常に高く評価し、賞賛してきた。私に限らず、イランに対する日本の善意に疑いを持つ人はイランには存在しない。
米国による制裁に関わらず、国際社会はイランとの経済協力関係を継続すべきだ。イランに対する米国の制裁は、安保理決定に基づかず、国際法に照らせば違法だ。イランは、相互利益に基づき西側諸国を含む国際社会と良好な経済関係を継続する方法と手段を見つけられることを願っている。
(文責、在事務局)