ウクライナ人の「決意」に学ベ
2022年5月16日
神谷万丈
JFIR副理事長・上席研究員/防衛大学校教授
「入国禁止リスト」に私も
ロシアが発表した日本人63人の入国禁止リストに、私の名前が含まれていたのに気づかれた読者もいらっしゃるのではないかと思う。3月3日付本欄の「露の暴挙にルール基盤の秩序守れ」等での対ロ批判がモスクワの目にとまったのだとすれば一言論人として本望だ。これからもなにものにも怯むことなく、勇気ある言論を貫きたいと決意を新たにしている。
ところで決意といえば今回の戦争が明らかにした事実は、安全保障では当事者の決意がいかに重要な意味を持つかということだった。5月9日、モスクワで対独戦勝記念の式典が行われたのに合わせてウクライナのゼレンスキー大統領は動画を公開し、「道は険しいが私たちが勝つことに疑いはない」「一片の土地も渡さない」と述べた。一方プーチン露大統領は、式典での演説で国民に具体的な戦果を提示できなかった。演説にはロシアがウクライナ東部のドンバス地域の制圧を重視していることを示唆する文言があったが、米国防総省高官によればウクライナ軍の抵抗により同地域でのロシア軍には最近「非常にわずかな進展」しかみられないという。
小国ウクライナの大善戦と巨人ロシアの苦戦。今我々はこの構図を、ともすればあたり前のことのように受け止めがちになっている。最近では、遠からずウクライナが反転攻勢に出て、クリミアの奪還も視野に入れるのではないかといった見通しさえ語られる。だがこの戦争が始まった時には世界の雰囲気は全く異なっていたことを、我々は忘れるべきではない。首都キーウは数日しか持たないのではないかという観測が広がり、米欧では、ウクライナ国外に亡命政権ができた場合にいかに支援するかさえも議論されていた。
開戦時のプーチン大統領は、強国ロシアが本気で棍棒を振り上げてみせればウクライナ人は命大事とたちまち降参し、コメディアン出身のゼレンスキー大統領も恐怖におののきすぐに逃げ出すと考えていたに違いない。習近平中国国家主席も同じだっただろう。それを批判するのはたやすいが、そうした見方に疑いを持っていなかったのは我々も同じだったのだ。
自らの意思で戦っている
国際社会は中央政府を欠いたアナーキーの状況にある。国内社会では強者による不当な「力による現状変更」は、政府により元に戻されることが期待できる。だが国際社会ではそうではない。強者が力で変更した現状は、特にその力の行使が限定的で人的犠牲が少なかった場合には、国際社会から追認されてしまうことが多い。
ウクライナでいえば、今回の戦争が始まる前のクリミアの状況はそれに近いものだった。そして、もしウクライナ人が独立よりも命が助かることを優先してロシアに降参していたら、傀儡政権が樹立され、その状況はしぶしぶではあっても世界から事実上受け入れられてしまっていたことだろう。
それを阻んだのがウクライナ人の国を守る決意だった。日本ではゼレンスキー大統領は国民の犠牲を減らすために抗戦指導をやめ、国外に逃れて後日再起を期せと述べた者があった。だがこの主張はウクライナ人が自らの意思で戦っているのだということを理解できておらず決定的に誤っている。
今回の戦争はロシアからみると「プーチンの戦争」だ。ロシア人がこの戦争を望んだわけではない。プーチンの命令で始まった戦争に協力させられているのだ。
日本人に問われていること
だがウクライナ人は「ゼレンスキーの戦争」を戦っているわけではない。彼らは、「ウクライナをウクライナたらしめ、ウクライナ人をウクライナ人たらしめている様々な制度、慣習、価値観、理念の束」を守るために、自らの意思で立ち上がった。「降伏するとはロシアの人々となること」(ウクライナの国民的作家、クルコフ氏)を意味すると考え、それを拒否するために命さえかける決意を固めているのだ。
ウクライナが大国ロシアの暴力に屈さずにいるのは、この決意の強さがあったればこそだ。中央政府を欠いた国際社会では、自らの身は究極的には自らの手で守らなければならない。ウクライナ人のその決意をみて、米欧日をはじめとする世界の多くの国も、ロシアと対立してでもウクライナを支援する決意を強めている。
アナーキーの状況下で自らの身を自らの手で守るためには、そのための力が必要だ。だが見過ごしてはならないのは、力とともに、侵略に立ち向かう決意もまた求められるということだ。
今回の事態をみて日本人の安全保障意識は急速に現実的になってきているようだ。防衛力整備について、タブーなく議論する機運も高まっており好ましい。だが日本人には国を守る決意もまた問われている。ただ勇ましいことを言えばよいというものではない。日本人は、今のウクライナ人のふるまいをみて、国を守るための決意とは何であるのかについて、根本的に考えてみるべきだろう。
[5月16日付産経新聞「正論」欄より転載]