(1) 人権外交と宗教の関係:米福音派とトランプ政権

米では宗教ナショナリズムが政治や外交を左右し、大統領選にも大きな影響を与えた。バイデン米大統領もカトリック信者として知られる。米の人権外交をキリスト教の側面から理解することで、日本の今後の政策の方向性について検討する。その背景には、日系企業も、特に中国の繊維や半導体関連の産業が抱える人権問題と無関係ではなく、懸念が高まっているという点が挙げられる。仏や米の企業においても同様の問題が発生し、実際に制裁を受けた例もある。

米を理解する際に最も重要なのは、宗教と人種の問題である。オバマ政権期にはキリスト教保守派の衰退も指摘されたが、2016年にトランプが選挙で勝利した際には大きな影響力が確認されており、現在でも票田としての「宗教票」の重要性は衰退していない。宗教や人種は帰属意識や価値観の形成に強く反映され、「Value Voter」(宗教票や人種票を指す)として政治面にも影響している。米の宗教の内訳としては、約55%がプロテスタント、25%がカトリックとなっており、その他の宗教は数%ずつである。トランプ当選時、白人の福音系クリスチャンの実に81%がトランプに投じたとのデータもある。白人カトリックも、伝統的に民主党支持が優勢だったが、トランプ選挙においては逆転した。これにはトランプ自身の信仰心というより、側近らによる宗教票の動員が重要な役割を果たした。敬虔な福音派のペンスや、カトリック保守派のバノン、正統派ユダヤ教徒のクシュナーなどが含まれる。

このように共和党が宗教票を動員するようになったのは1980年代のレーガン選挙以降といえる。プロテスタントの主流派は比較的リベラルな傾向があるのに対し、福音派は保守的かつ原理主義的な傾向があり、米は「神の国」であるとする米国第一主義を奉ずる。1980年代以降、経済・人口動態的に影響力を増した「バイブルベルト」と呼ばれる米南部が注目されてきた。かつて南部は農業、北部は工業が中心だったが、徐々に南部に軍需・ハイテク産業等が誘致され、人口が増加し、票田として影響力を増した。実際、トランプ政権でもホワイトハウス内に福音派諮問役員会というものが存在した。また長くトルコに在住した後、政治的問題への関与を疑われトルコで拘束されていた福音派のアンドリュー・ブランソン牧師の解放に向けてトランプは経済制裁を課し、結果的に釈放されるという事例もあった。この制裁によりトルコ経済は低迷したが、釈放後に回復したなど、経済と政治の連動の事例となった。

ワシントンのシンクタンクには、宗教票に関する福音派の家庭調査評議会(FRC)というものなどがあり、トランプ政権下で最も政治力を発揮したロビー団体と目されている。FRCの主張には「信教の自由」があり、トランプも2019年以降、信教の自由を強調し始めた。これは「中国にはそれがない」という主張の裏返しであり、国連でのスピーチでも環境問題を無視しつつ、突然、信教の自由の保護を主張した。その後「香港人権法」を成立させ、香港のクリスチャンに対する弾圧を非難した。また「信教の自由に関する閣僚級会合」も開催され、ペンス副大統領やポンペオ国務長官が演説を行っている。ベネズエラ、イラン、ミャンマー、北朝鮮、そして特に中国が非難され、ウイグル人ムスリム、クリスチャン、香港の亡命中国人牧師、法輪功代表なども当会合に参加した。また会合に参加したブラウンバッグ宗教大使(当時)は、カトリック保守としてトランプ政権に加わった重要人物であるが、彼と民主党のペロシ下院議長がテーブルを囲むなど、信教の自由はトランプ政権のみならずバイデン政権にも受け継がれているといえ、今年も開催予定となっている。

中東関係では、AIPAC(アメリカ・イスラエル公共問題員会)という米最大のイスラエルロビーの存在も知られている。共和・民主問わず影響力を行使している。バイデンはトランプほどではないが、イスラエル擁護姿勢を崩していない。こうしたユダヤ・キリスト教ロビーの影響力も未だ大きく、そうした勢力のカリスマ牧師などが政権にアドバイザーとして参加する事例もある。また2020年のアブラハム合意(イスラエルとアラブ諸国間の国交正常化合意)では、ポンペオやクシュナーが大きな役割を果たしている。

(2) バイデン政権と宗教

米人口の約25%を占めるカトリックの票数は、宗教票としては最大の浮動票である。トランプ当選時にはカトリックの52%がトランプに投じ、特に白人において顕著だった。一方ヒスパニック系人口の増加によりカトリック人口も増加しているが、その多数は民主党支持である。カトリックが多い地域は南部と東海岸および北部ラストベルトで、ヒラリーが失った白人ブルーカラー票をバイデンは一定程度取り返した。またペンシルベニアでは、バイデンがアイルランド系カトリックで労働者階級出身であることをうまく利用して勝利した。2020年の選挙結果を見ると、白人福音派は依然としてトランプ支持が強い。カトリックの一部はバイデンが取り返したが、保守勢力ではトランプ支持が根強い。

歴史的には、カトリックはプロテスタントと対立関係にあった。1960年代のケネディ大統領誕生までは、アイルランド系アメリカ人、あるいはカトリックに対する差別感情も色濃く存在していた。米のアイルランド系の多くは19世紀アイルランドにおける大飢饉をきっかけとした移住者で、バイデンの先祖もこれにあたる。彼らはプロテスタント国家におけるマイノリティのディアスポラとして過酷な差別を経験してきた(米大統領よりローマ教皇への忠誠心が高いと思われたり、カトリック的な身分制度が批判的にとらえられた)。また典礼作法の差異に起因する識字率の低さにより、カトリックには低所得の職しか与えられなかったという背景もある。WASP(白人アングロサクソン系プロテスタント)のノー・ナッシング党やKKKによっては、アイルランド系カトリックに対する虐殺なども行われた。その後の20世紀以降も差別や偏見は根強く存在していた。しかし、19世紀後半に教皇レオ13世が労働者の権利を擁護する回勅「レールム・ノヴァールム」を発表し、マルクス主義に対抗して階級闘争を否定し、代わりに階級協調や労働者の団結権や労働の尊厳を主張しつつ、神学的立場から共産主義への反対の立場を表明した。これはキリスト教民主主義の理念にも接続するものであった。レールム・ノヴァールムはいわゆる「補完性原則」や国際労働機関(ILO)の設立理念にも影響を与えている。政治的には、弱肉強食的な資本主義に社会主義的理念を接続する、「第三の道」的理念ともいえる。冷戦期にはこうしたカトリック的反共産主義の理念が広く受け入れられ、米におけるカトリックへの偏見も収まり、地位が向上し、米史上初のカトリック系大統領となったケネディの当選にも影響した。こうした理念は現在のバイデン政権の立場にも類似すると考えられる。なお労働者の権利を守る考え方は、プロテスタントにも共通する理念といえる。

2012年以降の米では、カトリック保守と福音派の間には、特に内政において、共通の政治的アジェンダが存在している。例えば同性婚への反対、胚盤胞の人工的保存や生殖医療の制限、中絶反対などがある。結果的に、カトリック保守においてもトランプを支持する層が生まれた。2016年の選挙戦でトランプが勝利したラストベルトやバイブルベルト、またテキサス等にはメガチャーチが分布しており、その影響力もうかがえる。「信教の自由に関する閣僚級会議」などの開催も大きく影響を与えた。これを受け、バイデンは失われた宗教票の奪還に向けた戦略立案に注力したと考えられる。なおバイデン自身はカトリックの中でもリベラルな立場に位置する。中絶についても女性の決定権を認める立場であり、保守派からは批判を受けた。実は、福音派のほうが医学や科学は宗教と対立するものと捉える傾向が強く、カトリックのほうが、両者は対話すべきだと考える傾向があり、フランシスコ教皇も化学の学位を持っているほどである。これを反映してか、教皇は環境問題に関しても科学的データに基づいて対策を推進すべきだという立場を取っており、バイデンのグリーン・ニューディールとの親和性も高い。

(3) まとめ:宗教と外交政策

トランプ政権の前半においては、中東のイスラーム過激派の問題を受けてムスリム全般に対する攻撃的な態度や政策が目立ったが、後半には対中にシフトし、香港人やウイグル人ムスリムの権利を擁護する立場をとった。ユダヤ系のブリンケン国務長官も「信仰の自由会合」にて中国の宗教弾圧を非難する声明を発表した。またバイデンによる大統領令を見ても、トランプによるものとの連続性がみられる。中国の三大通信会社(チャイナモバイル、チャイナユニコム、チャイナテレコム)に対して制裁を課したり、人権問題や経済安保問題に関連して、中国系企業14社を含む計34団体(20業種)をブラックリストに追加するなどした。

何が問題視されているのか、という点については、特に強制労働問題が重要といえる。レールム・ノヴァールムの例のように、労働者の権利、労働の尊厳という理念はカトリックに由来しつつ現在はプロテスタントをはじめ広く受容されており、特にウイグルの強制労働問題はキリスト教理念に反すると一般的に理解されている。こうした背景を受け、例えば2012年に制定されたマグニツキー法は、ロシアでの汚職を告発した弁護士が獄中死したことにちなむものだが、人権侵害を理由に個人や団体に資産凍結等の制裁を科すことが出来る法律である。EUも昨年これを採用した。日本はこうした物をまだ持っていないが、整備を目指す超党派的な動きがある。米は中国の人権問題に対してより強い態度を示すことが求められているが、日本でもそうした動きがあることは望ましいといえる。

まとめれば、近年の米の人権問題(特に強制労働問題)への関心のルーツには、レールム・ノヴァールムの理念が位置づけられるだろう。またチベット仏教徒やウイグル人ムスリムに対する宗教弾圧は、米の信教の自由という理念に反するという観点から、バイデン政権は今後も厳しい措置を継続すると思われ、日本にも類似の対応が求められるだろう。今後国内でもそうした政策形成の努力を推進すべきと考えられる。

(文責、在事務局)