(1) 歴史学的アプローチの重要性

日本を取り巻く東アジアには様々な問題や緊張関係があるが、それらの背景や原理について理解するには、歴史的なアプローチが有効である。中国や朝鮮半島、日本などを含む地域は大きくは漢字・儒教文化圏に属していると考えられ、実際にその内部で密な交流が存在してきた。しかし、それにもかかわらず我々は互いに理解しあえず、反目しあっているという現状がある。すなわち、そのような共通文化圏における連帯があるという理解は、必ずしも正しいとは言い難い。歴史的事象を通じてその実態を検討したい。このことは、現代の日韓関係の慰安婦問題や徴用工問題、また日中間の尖閣諸島問題など、個別具体的な問題の経緯にも密接に関係している。

中国では現在、特に香港の民主化運動が注目されている。我々は香港の状況を「一国二制度」という前提を通じて理解しており、民主化活動家もこの前提に立って「高度な自治」を掲げてきた。一方の北京政府は、香港が独立を志向しないように国家安全法を施行し、「一つの中国」を強く打ち出しているのが現状。しかしこれは香港だけの問題ではなく、また急に始まったものでもない。一つの前例は、1959年前後に起こったチベット動乱。2008年にも独立を求める運動が過熱した。チベット側は「高度な自治」を訴えたが、北京政府はこれを「独立」と同義であるとして否定した。経緯と場所は違うが、「高度な自治」や「独立」に対する姿勢において類似している。北京政府の基本スタンスは「一つの中国」というもの。以前トランプ前大統領がこれを否定した際には大騒ぎになったが、これを否定されると中国は中国ではなくなるという危機感を持っている。ウイグルや新彊の問題も類似しており、そのためウイグル人を「中華民族」化している。「中華民族」は習近平以降に特に強調されるようになったが、その概念自体は20世紀以来存在してきた。つまり、習近平政権や香港問題について考えるには、「一国両制」や「自治」の概念や起源について振り返りながら、歴史的に考える必要がある。

(2) 近世~現代にいたる東アジア秩序観の変遷

中国の現状をとらえるために、ここでは清代まで遡って考えたい。これは16~17世紀ごろ、歴史用語で言う「近世」にあたる。清の版図は、おおよそ現代中国のものと似ているが、その内実は現在とは大きく異なっていた。重要なのは、いわば多族性がある程度認められていたということ。大きく分けて、満洲人、漢人、チベット人、モンゴル人、ムスリム(ウイグル人)の「五族」が存在した。より緩やかには、内陸の草原遊牧世界と、東南の農耕世界に大別できる。また言語では漢語圏・蒙藏(もうぞう)圏に大別でき、ライフスタイルや宗教も異なる。こうした多様性に対して清朝は、それぞれの方法(モンゴルは部族制、チベットはダライ・ラマの宗教政治など)で治めてよしとする方法をとり、その全体の長が清朝皇帝だった。各々の習俗に従って各々を治めるという「因俗而治(いんぞくじち)」であり、そのため一つの王朝とはいえ、内部はばらばらで、互いが緩やかにつながっている状態だった。また外国との関係も各々に任された。日本は「鎖国」だったため、貿易船が往来するのみで、政府間関係はなかった。西洋人とも貿易関係のみが結ばれた。朝鮮半島は儒教圏のため、漢人と密な関係性があった。同じ儒教圏での密な関係性は、朝貢(ちょうこう)と呼ばれ、交易のみの関係性は互市(ごし)という。

多様性を持ちつつ皇帝がまとめていた清朝だが、近代に入るとそうもいかなくなった。各地の間に強い紐帯がないため、外国と結びついて分立しがちだったからである。香港は割譲されて植民地化し、モンゴルはロシア、チベットは英と接近し、朝鮮半島と琉球も日本の支配下に置かれるなどした。そうした趨勢に反撥した結果、20世紀初めには愛国主義、すなわち中国的ナショナリズムが発生した。これは清朝の中をばらばらのままではなく、中身を均質化して統合しようという考えであった。そしてその中心・頂点には「中華」の概念が位置づけられ、中華・中央が全体を取りまとめ、分裂は許さないという論理に発展した。つまり中国の伝統的な思想と、清朝の状況、そして列強による分割の恐怖が合わさることで、現在の中国の在り方の基礎、「多元一体」という考え方ができた。少数民族の存在は認めるが、それはあくまで「中華民族」の一部であり、領土や主権は単一でなければならず、独立は否定された。経済的には、社会主義市場経済を導入した。社会主義はすなわち共産党の一党独裁を指す。市場経済は導入しても、共産党の指導下でなければならないとした。台湾や香港などは、事実上「因俗而治」的状況であるが、「多元一体」の下にあるべきだという基本認識がある。これらに対して譲歩しては、中華としてまとまり得ない、というのが現習近平政権の見方と思われる。

このような中華的秩序の論理は中国に特有なものではない。朝鮮半島も類似している。近世に朝鮮半島で作られた地図を見ると、世界の中心は中国だが、そのすぐ側に朝鮮がおり、周囲には野蛮な連中が置かれている。ここに象徴されるように、近世の朝鮮は「小中華」を自認していた。分家として本家・中国には臣従するが、それ以外には本家と同じようにふるまう、という構図があり、それが半島のアイデンティティだった。安全保障の意味もあり中国に対しては、朝貢する「事大」=大国に事(つか)えるという立場をとった一方、他の国との関係は「交隣」と呼ばれ、相手を露骨に野蛮視することもあった。対日関係も交隣にあたる。日本側は字面からこれを対等な関係性と捉えがちだが、朝鮮側の認識は全く異なる。例えば対馬からの使節が釜山の宿舎に入るために、朝鮮国王の位牌に頭を下げなければならなかった。これは朝鮮国王に対し倭人が頭を下げるという、関係性を可視化するパフォーマンスである。世界の中心は中華で、そのすぐ側に小中華=朝鮮があり、その外は野蛮人扱い。朝鮮の記録にはこうした中華思想・儒教的世界観が一貫している。この歴史的な論理にもとづけば、日本は卑しんで当然の存在であった。しかし史実としては、武力や経済においては17世紀以降、日本が圧倒的に強大化した。豊臣秀吉の朝鮮出兵では、日本が朝鮮半島に進出すると北京も危うくなるため、中国も出兵し、日明戦争の様相を呈した。結果的に日本は押し返され、引き分けとなった。この17世紀以降、パワーバランスを保つため、朝鮮は中国との従来の関係性を保ちつつ、日本とも使節を通じた交隣を続けた。

(3) 国際秩序観と常識の差異

明治維新以降、日本は新しい国際関係秩序を模索し、西洋的な「自主」や「独立」の概念を取り込んだ。これは中国からすると、かつての秩序に対する脅威であり、とくに「事大」の朝鮮が分離する憂慮をもった。その後の日清戦争~日露戦争~満洲国成立へと至る経過においても、中国の関心としては、朝鮮の北半が重要だった。特に平壌の陥落が北京の危機に直結するという中国側の認識は変わっていない。このため朝鮮戦争は秀吉の朝鮮出兵と同じく、米中戦争に発展した。韓国は北朝鮮の脅威が大きければ米側につくが、そうでない場合は「本卦還り」して、中国側につくこともある。ここに歴史的な事大の認識が反映されている。こうした中・朝のパワーバランスと地政学的関係性は不変であり、以上のような根深い歴史的経緯があるため、現在の日本に対する北朝鮮や韓国の日本に対する卑日感情、また風当たりの強さは変わらないし、また中国がもつ、領土や独立・自治に対する認識も変わらないと考えられる。

中国や朝鮮が持つ東アジアの秩序観と、日本や西洋の論理はどれだけ異なっているのかは、日清戦争の前から問題であった。福沢諭吉も陸奥宗光も、中国大陸・朝鮮半島の儒教主義的性質を指摘し、中華を中心に据える、つまり対等な国の存在を認めず、自分たちが至上と考える世界観に対抗するのは、西洋文明であり、主権国家の並立によって国際秩序が形成されるという考え方であるとする。日本ではこうした西洋的な論理を漢語に翻訳して吸収し、近代化をはかってきた。その漢語が伝わった朝鮮半島や中国大陸も、もちろんそうした論理の一部を受け入れて今に至ったとはいえるが、依然として儒教主義的世界観・ロジックもまた生きている。そのため大陸・半島が日本と全く同じ立場をとることは難しい。東アジアの近現代史を繙く限り、大陸や半島の論理と、我々の常識は異なっている点が重要で、そこを理解しておく必要があるといえる。

(文責、在事務局)