丹波君、あなたは最後の最後まで、日本の行く末を憂い、「これでよいのか」と声を励まして、安全保障法制のあり方や北方領土問題などについて、問いかけておられました。亡くなられる数日前にもお電話を頂きましたが、まさかこんなに早くあなたと幽明境(さかい)を異にすることになるとは思いもしませんでした。あのときあなたは、私の電話の声が「よく聞こえない」と言って、奥様と電話を代わられましたが、私として、それがあなたの声を聴く最後の機会となったとは、まことに痛恨の極みであります。

 かえりみますと、あなたと私の出会いは、今を去る半世紀前、1965年のことでした。ハーバード大学大学院でのロシア語研修やソ連研究を終えて、厳冬のモスクワ・シェレメーチェボ空港に一人降り立ったあなたを出迎えたのが、当時大使館で最若手の書記官であった私でした。あなたの遺著『日露外交秘話』の82頁に当時の二人に触れた部分がありますので、それをそのまま紹介させてもらいます。

 
(引用)私がモスクワに着いて間もないある夜、伊藤書記官が「話しがあるからホテルの外で話そう」と私を誘い、厳寒の外を歩きながら話をしたことを覚えている。伊藤書記官が「モスクワでの生活上何をしてはならないか」「何に気をつけるべきか」について訓示するための散歩であった。わざわざ外を散歩したのはKGBの盗聴を避けるためであった。あの折りの、「パリやロンドンでナイトクラブへ行っていい思いをするのも青春なら、モスクワでKGBに監視されながら、つらい厳しい生活を送るのも一つの青春の姿である」という伊藤書記官の言葉が耳朶に残っている。(引用終わり)

 在モスクワ日本大使館の書記官として2年半を過ごしたあと、あなたは帰国して、欧亜局東欧課、条約局条約課の事務官を歴任され、さらに北京の在中国日本大使館に一等書記官として赴任されました。1972年から73年にかけての日中国交正常化の過程に若くして深く関わったわけであり、あなたが将来の外務省を担う人材として早くから嘱望されていたことは、知る人ぞ知る事実でした。当時私はワシントンの日本大使館に政務担当の一等書記官として勤務していましたが、「ワシントンにお出でよ。いい勉強になるから」という手紙を北京にいるあなたに送ったことを覚えています。その所為ではないでしょうが、1975年に私が東京に帰任したのと入れ違いに、あなたは1976年に北京からワシントンに転任して来られました。当時の在米大使館政務班長はのちの外務次官・駐米大使の栗山尚一(たかかず)さんでしたが、何よりも栗山さんがあなたの能力、資質、人柄を高く評価しておられましたね。

 その後私は外務省を離れましたが、東京にもどられたあなたとは、折に触れて交流を続けておりました。あなたは北米局安全保障課長、欧亜局ソ連課長などを経て、条約局審議官、北米局審議官、国連局長、条約局長、外務審議官、在ロシア大使などの要職を歴任しておられましたが、各方面に多大な業績を残されました。ここで私が不思議な宿縁を感ずるのは、1990年10月に「国連平和協力法案」として国会に提出されながら、いったん廃案とされ、最終的には1992年6月に「PKO協力法」として成立した「国際平和への日本の貢献」の是非をめぐる論争のなかで、あなたと私が論陣をともにしていたという事実です。

 当時、冷戦が終焉し、「湾岸戦争」があり、「ポスト冷戦時代の世界秩序をどのように考えるべきか」について、日本の国論は二分されていました。具体的に提起されていた論点は、自衛隊の海外派兵の是非でした。私は、かねてからの主張である「積極的平和主義」の立場から論陣を張っておりました。「日本一国だけが平和であればよい」という「消極的平和主義」や「一国平和主義」ではなく、「世界はいま不戦時代に入りつつある」との時代認識に立って、「世界不戦秩序構築への積極的な貢献」を説く立場でした。しかし、世論調査やメディアの立場は圧倒的に「消極的平和主義」であり、私などの「積極的平和主義」者は少数派でした。そういうときに、あなたは一方で国会答弁の機微や限界を弁えつつ、他方で「伊藤さんの主張が正論だ」といって、私を励ましてくれました。

 北方領土問題についても、「歴史的正義の貫徹」を唱えて、「固有の領土」である「四島返還」の立場を最後まで譲らなかったのは、それが大西洋憲章やカイロ宣言に遡る「領土不拡大の原則」に関わる問題であり、それこそが第二次大戦後の世界秩序の根本原理であるとの確信があったからでした。少なくとも、亡くなられる数日前の電話であなたが私に伝えようとしたメッセージは、そのようなメッセージであったと確信しております。

 実は、丹波君と私はともに昭和13年生まれであり、丹波君は5月6日、私は3月7日の生まれで、2カ月しか違わないのですが、丹波君は外務省のプロトコールに沿って、最後まで私を2年先輩として遇してくれました。その他にもいろいろのご配慮があったことを知っております。丹波君、いまは万感胸に迫るなかで、これ以上の言葉がありません。どうか心置きなく旅立ってください。