さる4月、10数年ぶりにシンガポールを訪れた。単身赴任の愚息宅に宿泊し、観光客では味わえない生活の一端を垣間見た。素晴らしい変貌ぶりであった。
 「自警」誌上で「日本から見た世界、世界から見た日本」のシリーズを書き始めた3年前、第1話は「日本に学べ」を取り上げた。1970年代後半からシンガポールにおいて「日本に学べ」運動を展開したリー・クアン・ユー首相(当時。現在は顧問相)の謦咳に接した逸話を紹介した。今回の訪問で、今度は日本がシンガポールから学ぶ番だと痛感した。

 シンガポールへの旅は、世界でもトップクラスのシンガポール・エアラインで始まった。チャンギ国際空港は東南アジア有数のハブで、施設やサービスが完備している。最近でこそ、バンコックやクアラルンプールが急追しているが、チャンギにはさらに拡張計画がある。
 シンガポールは、空港のほか港湾、道路、ITCなど世界1級のインフラを建設した。都市としてもクリーンでグリーン。ガーデン・シティーの名に恥じない。
 最近、新たなシンボルが誕生した。かつては汚染した河川の出口であったマリナ湾地区を大改造し、同国のシンボルであるマー・ライオンを中心とする素晴らしいベイ・エリアを建設した。政府公認のマー・ライオンは他に2つあるが、元祖はマリナ湾を隔てた有名なマリナ・ベイ・サンズのホテルを正面に見据え、近くの金融街の林立する摩天楼が見下ろしている。
 マリナ・ベイ・サンズは、想像を超えた斬新なコンセプトにより、世界でも最も有名なホテルになった。客室などを収容する3つの高層建築に支えられる形で、屋上に船とも鯨とも言える形の長い建造物が横たわった独特のデザインだ。地上200メートルの屋上にはプールやスカイパーク等があって、北はシンガポール市全景、南はマラッカ海峡を隔ててインドネシアのビンタン島等を見渡す。夜にはレーザービームが四方に走る。周辺には、これまた独創的なスーパー・ツリー・グローブなどの観光施設がある。また、マリナ・ベイ・サンズにはカジノがあり、セントーサ島のカジノとともに巨大な観光施設兼外貨獲得の場となっている。
 対岸にあるセントーサ島には、三つのゴルフ場に加え、ユニバーサル・スタジオ、水族館、アドベンチャー・パークからなる一大観光施設が出現している。

 シンガポールには地下鉄(郊外部は地上)や高速道路が縦横に走り、極めて便利で安い。タクシーも沢山あるが、値段はリーゾナブルである。環境規制のため自家用車の保有や運行が何かと制限されている代償かもしれないが、これらの交通手段は清潔・快適・便利である。地下鉄は、「ゆりかもめ」と同様すべて無人運転だ。すべての駅には線路への転落防止スライドが完備している。乗り継ぎのための表示も分かりやすい。日本の地下鉄網より近代的な面がある。
 シンガポールの生命線の一つは上水道であるが、とかくぎくしゃくするマレーシアからの供給に頼り過ぎないよう海水淡水化プラントなどの施設が増築中である。水道水はそのまま飲んでも安心で、並みの先進国以上だ。

 筆者が感心したのは、インフラだけではない。
 人々の規律や道徳である。確かに規律は厳しい。大きなことでは麻薬所持や使用は厳罰であり、小さなことではツバを吐いたら罰金、横断歩道から50メートル以上離れたところで横断しても罰金だ。リー・クアン・ユー首相は、35年前に筆者に対し、日本人と対比してシンガポール人の規律のなさを嘆き、これを是正するために「日本に学べ」を提唱したと述べていた。罰則の多さや重さは、そこから由来する。しかし、今やシンガポール人の道徳は、日本を凌駕したかもしれない。地下鉄には、全車両、全座席の左右の端は、日本で言う優先席となっている。見ていると、若い人や健常者はこの席には座らないようにしている。仮に座っても、老人、妊婦などの優先席対象者が乗ってくれば、すっと立ち上がって席を譲る。私も家内も、そのような気持ちのよい経験を何度もした。

 なぜ、シンガポールはこのような素晴らしい変貌を遂げたのか?逆説的に言えば、水もエネルギーも鉱物資源もなかったからである。日本と同様、人のみが資源である。同国の為政者はこのことを自覚し、教育を重視し、優秀な政治家や官僚の採用・育成に努めてきた。明治政府の取った政策と近似している。
 シンガポールやアラブ首長国連邦などで生活した峯山正宏氏は、著書「なぜ?シンガポールは成功し続けることができるのか」(彩図社)の中で、「馬鹿を政治家にしない」「馬鹿を官僚にしない」ことが、この国の「唯一無二の大原則」であると喝破している。政治家や官僚の給与は、他の国に比べて極めて高いが、これは、為政者は優秀でなければならず、腐敗や汚職に陥らないで済むようにとの配慮である。そのために、教育制度も小学校から大学まで、優秀な者を育てることに重点を置いている。
 これらは日本であればエリート主義などのレッテルをはられ、批判を受ける可能性が高いが、シンガポールの指導層は、国が強くなり、国民が豊かになるために必要なことと割り切っているようだ。格差も、国が豊かになる過程で皆が裨益し、格差は拡大していない様だ。

 国策として、貿易、金融、ITなどについてシンガポールをバブ化し、世界からのモノ、カネなかんずく優秀なヒトを集めることを最優先にしてきたことも大きい。観光業は裾野が大きく、雇用や経済成長にとって効果が大きいが、シンガポールは、国中を観光地にする勢いだ。建国時から起算すると、観光客数は約150倍にまで増加した由(前掲書)。峯山氏によれば、諸外国の力を借りて発展するという意味で、「他力本願」の国というわけである。
 中国人、マレー人、インド人等多民族・多言語・多宗教国家である同国では、英語と自分の出身国の言葉は必須であるが、英語を入れてこれら4ヶ国語をしゃべる人も多い。外国への留学は、成績の良い者優先である。国土も人口も小さな国でありながら、国際的な知的貢献能力や発信力は極めて大きい。日本人と対照的だ。
 観光資源が豊かであるにも関わらず有効活用せず、外国人の訪日数が比較的少ないのも(第36話参照)、シンガポールと対照的だ。

 シンガポールは民主主義ではあるが、独立以来、ほぼ与党人民行動党の一党支配と言ってもよい。言論などの自由も、一定の制約を受けている。エリート主義も鼻に付くかもしれない。
 しかし、自国の与件と国際情勢を考え、国の強化と国民の幸福のために、一定の理念を持って迷うことなく実行して行くシンガポールは、うらやましいと思う。日本では政治が不安定、国民は内向き志向、税制改革・規制緩和・農業改革等で大胆な改革ができていない。日本人の道徳も落ちてきた。いまこそ、シンガポールに学ぶべきではないのか?

[「自警」2014年6月号「日本から見た世界 世界から見た日本 第39話」より転載]