毎年10月から12月にかけては、東アジアおよび太平洋地域の多国間外交の季節だ。本年も、10月にはアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議(於、インドネシア)、東南アジア諸国連合(ASEAN)との日・ASEAN首脳会議およびASEANプラス日中韓首脳会議(於、ブルネイ)、東アジア首脳会議(EAS、於、ブルネイ)と恒例のサミットが続いた。加えて本年は、日本とASEANが関係樹立して40周年目であり、12月には日・ASEAN特別首脳会議(於、日本)が開催される。

現在、東アジアにおいては、ASEANを同心円の中心として、重層的な地域協力の枠組みが機能している。

ASEANは、冷戦期の1967年、反共の砦という目的もあって、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの五カ国の協力機構として発足した。その後、84年にブルネイが加盟したが、95年のベトナムの加盟は、ASEANが反共の色彩を払拭し東南アジアの協力機構へと転換を計る契機となった。97年にラオスとミャンマー、99年にカンボジアが加わって10カ国となった。

わが国は、1973年に早々と、ASEANの対話国(ダイアローグ・パートナー)となった。対話国は、域内の平和を確保し、域外国からの経済協力や投資を引き付けるために設けたシステムである。現在では、日米など計10カ国が対話国となっており、それぞれの関係はASEAN+1(APO)と称される。それに加えて日本、中国、韓国は、1997年からASEANと日中韓三国でASEAN+3(APT)と称する13カ国の協力の枠組みを樹立した。

ASEANを超えた枠組みも誕生した。
1989年には、大平正芳首相(当時)が提唱した環太平洋連帯構想を受けて、アジア太平洋経済協力(APEC)会議が発足した。当初は、東アジアの日、韓およびASEAN諸国(まだ6カ国の段階)、豪州、ニュージーランド、米国、カナダの12カ国であった。その後、ASEANの新規加盟4カ国、ロシア、メキシコ、ペルー、チリという環太平洋諸国を引き入れた。1991年には中国、台湾および香港も加盟した。経済中心の組織なので、台湾の地位にうるさい中国も台湾をチャイネーズ・タイペイとする条件で参加を了承した。

1994年には、この地域の政治安全保障を討議する会議として、ASEAN地域フォーラム(ARF)が誕生した。ASEANおよびその対話国のほか、パキスタン、スリランカ、バングラデシュ、モンゴル、東ティモール、パプアニューギニア、さらには北朝鮮まで参加している。

2005年には、小泉純一郎首相(当時)の提唱で、ASEAN10カ国に日、中、韓および豪州、ニュージーランドさらにはインドを加えたAEAN+6カ国で東アジア首脳会議(EAS)が発足した。当初から首脳レベルの会議である。2011年、米国とロシアが加盟した。

ここ数年、この地域での経済交流の自由化を目指し、自由貿易協定(FTA)や経済連携協定(EPA)の締結が進んだ。ASEANは域内でのFTA締結を行うとともに、ASEAN全体と日本を含む域外国とのFTAの締結を促進した。その中にはASEANと日中韓との東アジアFTA構想があったが、2012年、豪州、ニュージーランド、インドが加わった東アジア包括的経済連携協定(RCEP)交渉となった。

他方、2005年、シンガポール、ブルネイ、ニュージーランド、チリの4カ国は、さらに進んであらゆる分野での経済活動の最大限の自由化を目指し、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)を発足させた。2010年からは米国、豪州、ベトナム、ペルー、マレーシアが、本年にはわが国も交渉に参加した。中国はかつて東アジアFTAを志向していたが、米国と日本という世界第1位と第3位の経済大国が中国抜きにTPPを推進しようとするのを見て、焦りを示し始めた。中国は国家主導経済であり、知的所有権を軽視するなど、経済自由化の程度が高いTPPには入れない。そのため、それまでRCEPに対し冷淡であった態度を改め、TPPを牽制しながら、政治的には米国抜きであり経済自由化の程度も緩やかであろうRCEPへ傾斜しつつある。

以上のような東アジアの地域協力の枠組みにおいて、わが国は一貫して中心的なプレーヤーである。1977年、東南アジアを歴訪した福田赳夫首相(当時)が「心と心のふれあい」をモットーとしたASEAN政策(福田ドクトリン)を打ち出したことにより、わが国とASEAN諸国とは急速に友好協力関係を進めることになった。筆者も、その直後から外務省アジア局南東アジア第二課長を務め、わが国と東南アジア諸国がみるみる関係を強化する生き証人となった。太平洋戦争中に従軍記者であり反日とされたフィリピンのロムロ外相や海洋法の権威で気難しいインドネシアのモフタール外相が、園田直外相(当時)の招きで来日し、外務省の迎賓館(飯倉公館)で、軍歌「見よ。東海の」を一緒に歌う場に立ち会った。リー・クアンユー・シンガポール首相(当時)やマハティール・マレーシア首相(同)は、それぞれ「日本に学べ」「東方政策」を提唱し、わが国をモデルにしながら国づくりを進めた。これについては、本欄の第一話「日本に学べ」(2011年4月号)を参照願いたい。

わが国は、福田ドクトリン以前の貿易投資が受け入れ国の反感を買ったことを反省し、経済協力(ODA)や相手国を尊重した投資政策を進め、以後、ASEANの第1のパートナーとなったのである。

1997年以降、鄧小平の改革開放路線により中国が急速に力を付け、ASEANへの接近を図った。ベトナムやインドネシアなどの諸国は伝統的に中国への不信感が強く、幾つかの国は南シナ海の島嶼の領有権問題で中国と対立するが、経済面での相互依存関係は急速に深まってきた。

ASEAN+3(APT)の会議は、ASEANを同心円にした各種枠組みの中で、最も協力関係が進んでいる。APTでは多くの協力が行われているが、特に、ASEAN域内およびASEANと日中韓との間の「連結性」(Connectivity)、すなわち結びつきの強化のために、日中韓は協力して当たろうとの機運が強い。APTで進めようとしている連結性には、三種類ある。道路、鉄道、港湾、情報通信などのインフラ建設(物理的連結性)、貿易を容易にする通関システムなど制度面の改善と調和(制度的連結性)、文化の交流、高等教育面の協力、観光促進などの促進(人と人との連結性)だ。

中国や韓国は、歴史問題などで執拗に日本批判を行うが、APTの場では日本批判を控える。親日のASEAN諸国から嫌われるし、説得力がないことを承知しているからだ。

本年12月の日本とASEANとの特別首脳会議は、以上のような双方の密接かつ建設的な40年を回顧し、協力関係をさらに強化し、地域の平和と繁栄のための貢献を誓う機会となる。

[「自警」2013年11月号「日本から見た世界 世界から見た日本 第32話」より転載]