私は1999年の11月からチェチェンの取材を開始し、チェチェン独立派のゲラエフ司令官の許可を得て、2001年の5月よりチェチェンからカフカス山脈を越えてグルジア領のパンキシ渓谷に入り、従軍取材を行った。そこには大量の難民が流入していて、外見からは武装勢力も難民も区別がつかなかった。後で分かったことだが、私は、イスラム教徒であるということで、従軍取材を許されたようだ。しばらくして、グルジア領内でアブハジアに移動した。アブハジアも、チェチェンのようにソ連からの独立を目指した時期があり、ソ連崩壊後は、ゲラエフ自身がイスラム義勇兵として、同志約200人を引き連れ、アブハジア独立派側に立って戦った。しかし今度は、グルジア政府の意を受けた「森の兄弟」と呼ばれるグルジア人ゲリラとの共闘となり、かつての盟友アブハズ人を相手に戦うという奇妙な作戦に出たのであり、私はいまだにその作戦の意図を理解することができないでいる。結局、この作戦はチェチェンにとっても、グルジアにとっても何の利益にもならず、この事件によりアブハジアのグルジアに対する感情を悪化させ、それが昨年8月のグルジア紛争の遠因になったとも言われている。

 チェチェンでは、政治に関係ない子どもから大人まで、ロシアFSB(連邦保安局、ソ連時代のKGB)を恐れて暮らしており、これまで多くの住民が殺害されてきた。FSB出身のリトビネンコ氏も後に暗殺されることになるが、1998年に他の6人の仲間と共に記者会見したときは、FSBからチェチェン人の政治家や実業家の暗殺を命令されたこと、またFSBは政治目的というよりは資金稼ぎのために、組織的に身代金目的の誘拐をしていること、などのFSBの暗部を暴露した。リトビネンコ氏は後のインタビューで「自分は今でも愛国者だ。自分がロシアを裏切ったのではなく、FSBがロシアを裏切ったのだ」と述べている。

 帝政ロシア時代、ソ連時代をつうじて、ロシア史はつねに秘密政治警察によって支配されてきたと言えるが、ソ連が崩壊した1991年から93年までの3年間だけはKGBが崩壊し、ロシアに秘密政治警察が存在しない異例の時期となった。しかし、やがて解体されたKGBは徐々にFSBとして再建され、さらにそのトップであるプーチンが2000年に大統領になった瞬間に、FSBは国家を支配する無法権力として再建された。しかも、帝政時代のオフラーナ、ソ連時代のKGBは、法の外にある無法機関とはいえ、「皇帝のために」あるいは「党のために」尽くすという一線は守られていたが、プーチン体制化のFSBはそのような規律すらも失って、いまや自分たちの行動を律する権力が不在であるなかで、だれはばかることもなく、純粋に自分たち自身の組織益のために活動している。

 プーチンは、民主主義とは「法による独裁」であると、自己の独裁政治を正当化していた。エリツィン時代にマフィアやオリガークが暗躍し、ロシア社会全体が無法状態に近い状態となっていたとき、「法治国家をつくる」という彼の言葉は新鮮な響きをもっていたことは事実だ。しかし、その結果として「シロビキ」と呼ばれる治安・国防関係出身者たちがいまやロシア社会の全権力を握ることになっている。「皇帝」も「党」も不在の現状のなかで、自らが自らを取り締まれる訳はなく、いまやロシア国家は秘密政治警察勢力の恣意的支配下に落ちたといってよいだろう。

 カフカス地方で銃声が止んだ日はない。ロシアのカフカス地方に対する政策は事実上何も存在せず、軍事作戦があるのみだ。ロシアはグルジア侵攻時に「人権を守るためだ」と言ったが、この地域の住民の受け止めている実感は「ロシアは、カフカス地域をロシアの植民地であると見なし、カフカス人たちを支配されるべき隷属民族と思っている」というものだ。

(文責、在事務局)