小泉内閣が誕生し、田中外相の下で新たな対外政策が展開されようとしている。この機会に、国際問題あるいはロシア問題の専門家としてわれわれが最近の対露政策について強く懸念していることを率直に指摘し、今後の日露関係に関して若干の提言を行いたい。

一.昨年夏から去る三月のイルクーツク首脳会談に向け、日露平和条約交渉をめぐって憂慮すべき動きがわが国の対露アプローチにおいて見られた。それは世論ともこれまでの国の基本的な立場とも異なる外交の立場、いわゆる「二島先行返還論」がわが国の対露外交の帰趨を左右しかねない形で前面に出てきたことである。その結果、一九九三年の東京宣言で合意した「四島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」という従来の対露政策の基本を日本が転換し、一九五六年の日ソ共同宣言を出発点にして新たな妥協案を探っているかのごときシグナルがロシア側に送られる結果となった。そのためロシアは、歯舞、色丹の二島返還による平和条約締結の可能性が生まれたと誤解し、平和条約交渉の目標を二島決着に絞ってきている。これは、わが国の日露平和条約に対する基本的立場も数十年にわたる平和条約交渉やこれを支持してきた世論も全て否定するものである。

二.「二島先行返還論」とは、「五六年共同宣言を確認することにより、歯舞、色丹の二島返還が確認される。それ故、その後の交渉においては国後、択捉問題が浮き彫りになる」という論である。しかしイルクーツク会談でプーチン大統領は、歯舞、色丹の二島返還で領土問題は最終的に解決され、国後、択捉は今後の協議の対象にはならないとした。その後もこの二島について本気で協議しようという姿勢はみせていない。つまりロシア側の立場は、実質的には東京宣言を否定する立場である。しかも、歯舞、色丹の二島引渡しもまだ約束したわけではなく、大統領はそれも今後の交渉問題であり、条件次第だと述べた。今後は五六年共同宣言の解釈と二島返還をめぐって何年も交渉が続くという愚かなことになりかねない。今日再確認するまでもなく、五六年共同宣言は両国国会で批准され、これによって国交を回復した重要な文書である。ただ平和条約締結後に二島を引き渡すとした領土条項(第九項第二節)を考える限り、五六年共同宣言へのこだわりは、逆に国後、択捉の交渉を遠ざける危険性がある。

三.二島返還で平和条約締結という解決法は両国にとってマイナスである。その案であれば、一九五六年にも実現可能であった。当時と比べ今日は、国際情勢も日露の力関係も全く変わっている。今日もしこれを受け入れるとなると、日本国民の間には、この数十年の平和条約交渉や領土返還運動、返還を求める国会決議はいったい何であったのかという根本的な疑問が生じる。そして国民を裏切る者として政府や政治家に対して、強い不信や厳しい批判が噴出するのは間違いない。さらに、ロシアに騙されたという気持ちから、強い対露不信も生まれる。日露関係は好転するどころかさらに悪化するだろう。ロシアも、本来なら平和条約締結によって得るはずの大きな利得を失うことになる。

四.日露関係に限らず国家間の関係は大きな戦略的視点から考えるべきであるが、領土問題こそは独立と主権にかかわる戦略的問題であり、何人といえどもこれをおろそかにすることは許されない。また、北方領土問題の解決なくして日露間の真の信頼関係もあり得ないし、真の信頼関係なくして真に永続的な日露の友好関係もあり得ない。われわれはこの観点から、今後の日露関係を発展させるためにも、四島の日本帰属を明記した平和条約を締結することが是非とも必要であると考える。

五.日本は「二島先行返還論」にこれ以上拘わるべきではなく、あくまでも日露交渉の成果である一九九三年の東京宣言を今後の交渉の原点とすべきである。すなわち同宣言で謳われた三原則――①歴史的、法的事実 ②日露間で合意された国境に関する諸文書 ③法と正義――を基礎にして、日本固有の領土である四島の帰属問題を解決すべきである。平和条約の締結が遅れた場合、より大きな損失を被るのは日本よりむしろロシアである。したがって日本は、一方的な希望的観測に依拠して場当たり的な賭けを繰り返すのではなく、大局的な視点から首尾一貫した対露戦略を構築し、じっくりと腰を落ち着けて平和条約交渉に取り組むべきである。

二〇〇一年六月二九日

座  長   末次 一郎
座長補佐   袴田 茂樹
メンバー   飯田 健一/伊藤 憲一/佐瀬 昌盛
澤 英武/田久保 忠衛/田中 明彦
吹浦 忠正/渡邉 昭夫
          (アイウエオ順)

(注)「対露政策を考える会」は、二〇〇一年四月九日に財団法人日本国際フォーラム(会長今井敬)の緊急提言委員会(委員長田久保忠衛)内に設置された有志の勉強会である。