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2009-09-10 10:11
(連載)この国の来し方行末(4)
野田 英二郎
元駐インド大使
しかし、他面において、米国を頭とする連合国としては、占領行政を円滑に進める上で、日本国民の天皇崇拝の気持を無視することはできず、天皇制廃止が中国及び豪州等より、かなり強く主張されていたにも拘わらず、結論として天皇制を存続することを認めることとなり(昭和天皇の退位も求めず)、新憲法において「国民統合の象徴」として天皇制が維持されることとなった。これにより、ポツダム宣言受諾の際、当時の日本政府が「『国体護持』の条件は受け入れられた」と国民に説明していた立場は、面子を保つこととなった。尤も、ポツダム宣言では、天皇の地位は約束されておらず、天皇及び日本政府の権威は、占領軍の総司令官に従属することとなっていたので、「国体護持」がかなえられたというのは、主として、国内向けの説明にすぎなかった。
更に、占領当局が、日本の直接統治にふみこまず、日本の政府当局を通ずる間接統治を許したため、よかれあしかれ、戦前戦中の日本政府の権威は保たれた。当時の日本政府は、「敗戦」という言葉は用いず、必ず「終戦」といった。また「占領軍」とはいわず、公式には必ず「進駐軍」という言葉を使った。このことは、日本国民の眼からわが国の史上はじめての敗戦・降伏という現実をかくそうとする官僚的マヤカシであった、と評しうるものである。もちろん陸海軍は解体され、内務省解体などの部分的改革はなされたが、官僚機構は全般的には維持された。そして、日本の社会における、明治以来の「官尊民卑」の確固たる伝統は保持されたままになった。前記の「人間宣言」により、天皇の神格は否定され、神道も新憲法下において「国家神道」の地位を失ったが、天皇家の「宮中祭祀」は、それが皇室の私的行事であるのか、国の行事であるかの区別が曖昧にされたまま、維持されているようである。
靖国神社も伊勢神宮もその法的地位の変革に拘わらず、社会的には尊崇の対象でありつづけ、公的にそれなりの実際上の取り扱いを受けて、今日に及んでいる。小泉首相の靖国神社参拝の可否が、大きな国際問題となったことは記憶に新しい。このように、敗戦以来のわが国を振り返ってみると、敗戦・降伏と新憲法制定により、わが国の政治の体制は大きく変革されたが、1945年に国際的にも公約した国の在り方、すなわち、平和愛好と主権在民等の理念が、本当に国民一般の社会生活の中に定着したか否かは、定かでない。1941年から1945年までの「国民学校」教育を受けた年齢層の世代が、いま日本の指導層の中心を形成し、「神国日本」の世界一の「国体」が日本の伝統・文化であると教えられた、あの頃の教育に郷愁を覚えている、と指摘するむきもある。戦後の国際社会に再び受け入れられる前提であった憲法を、時代の要請に応えられないからと安易に白紙に戻そうとする気運もある。
ときの政府の政策を批判する者は「愛国心がない」と指弾されるとすれば、これは、筆者が経験した戦前戦中の世の中への逆戻りになる。これらは、1990年代から、既に世界の大勢として、冷戦が終結の方向にあるに拘わらず、殊更に「アジアでの不安定要因」を強調して、日米間の軍事協力を強めようとする国際的な動きとも無縁ではない。米国との友好協力関係が極めて重要であることは論をまたないが、それがあたかも憲法よりも上位におかれているかの如き奇観を呈している。透明性に問題がある。これでは、かつての天皇制に代り、対米協力が日本の「国体」になってしまう。アジアで孤立すれば、これは直ちに世界での孤立につながるということが、かつての日本が1930年代以降に学んだ歴史の教訓であった筈だが。(つづく)
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