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2009-09-08 10:01
(連載)この国の来し方行末(2)
野田 英二郎
元駐インド大使
明治の「大日本帝国憲法」の根底には、「国体」があった。国体とは、天照大神の子孫である(初代天皇)神武天皇により建国された「大日本帝国」が、天皇により統括され、「臣民」は天皇に無条件に服従する組織体であるということであった。但し、天照大神は、もちろん神話の中の存在であり、神武天皇についても、実在の人物であったとのたしかな史実の裏付けはない。
このような「国体」という原理に基づいた「大日本帝国憲法」であったから、この憲法の枠内で許容されていた自由主義と議会民主主義は僅か15年という短い大正年間には一定の役割を果たし、「大正デモクラシー」ともてはやされはしたが、明治体制下に築かれていた官僚組織と軍の力はあまりにも強く、既に大正14年には「治安維持法」が公布され、「国体の変革」等を目的とする結社活動と個人の行動に対する罰則が定められ、違反者には極刑を以て臨み、言論・思想の自由はきびしく弾圧された。更に昭和に入ってからは、経済恐慌の影響もあり、民主主義議会政治は、軍国主義の潮流に圧倒された。陸海軍、特に陸軍内部の規律も乱れ、下剋上が甚だしくなり、現役少壮軍人による5・15事件や2・26事件などのテロ事件が続発した。軍部主導で対外的に暴走した日本は、国際孤立に陥り、昭和20年の敗戦降伏に至ったのである。
明治維新以降のこのような政治体制を支えたものが「国家神道」である。梅原猛氏は、幕末の偏狭な国学者たちによって思想的に支配された明治政府は、聖徳太子以来国教の地位にあった仏教を排斥する「廃仏毀釈」政策を強行して、多くの仏寺を破壊し、古来より日本文化の中核にあった神仏融合の伝統を無視し、新しく天皇を頂点とする「国家神道」を創設し、天皇という「現人神」への信仰を「教育勅語」によって一般国民教育の中心に捉えた、と指摘されている。戦前戦中の前記の標語のなかにある「神国日本」「国体明徴」などの言葉が端的に示したとおり、「国家神道」は、天皇制とともに、日本の「国体」の車の両輪のひとつとなった。日本国内はもちろんのこと、外地(台湾及び朝鮮)で、更には太平洋戦争中には占領地であるシンガポール等でも、神道は現地住民に君臨する宗教となった。当時の京城(韓国ソウル)に立てられた朝鮮神宮はその一例であり、朝鮮人に礼拝を強制し、反日民族感情の発火点ともなり、日本の降伏直後、京城市民により真先に破壊された。
戦前戦中の日本の軍隊は「皇軍」(天皇の軍隊)と称され、その軍事作戦は「聖戦」と報道された。神格化されていた天皇の軍隊の行動は、常に正義の行動であるとのいわば無謬性の意識を伴うものであった。尤も、日露戦争及び第一次大戦までについていえば、前者におけるロシア軍人捕虜の取扱い及び後者におけるドイツ軍人捕虜の取扱いにおいて、わが軍は国際法を守る以上に、人道的でさえあった、と評価されるほどであったが、その後、このような国際的規範については、これを軽視する傾向が強まった。これが極東国際軍事裁判で裁かれた多くの捕虜虐待などの戦争犯罪の原因となったといえよう。英国の日本史研究家リチャード・ストーリー教授も、その著書で「日露戦争時の乃木将軍は軍紀を厳正に保っていた。特にロシア軍捕虜の取扱いに格別の配慮をしていた」と激賞するとともに、「1920年以降の日本軍の軍紀弛緩、捕虜虐待などの状況とは、大きな差があった」と指摘している。(つづく)
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